24.夢

 布団の中に漂い、鼻孔に入る味噌汁の香り。桃姫にはこの匂いだけでわかった。これは、小夜の作る味噌汁の匂いだと。


「……母上」


 しかし、桃姫は知っていた。小夜はあの夜、全てが変わってしまったあの日の夜に、自らの命を投げ捨てて、桃姫を突き飛ばし、迫りくる鬼から助けのだと。


「──桃姫、起きなさい」


 だから、この声の主が小夜ではないことを桃姫は理解していた。死んだはずの母親が。呼びかけてくるはずがないのだから。


「──こら、いつまで寝てるの。桃姫」


 しかし、この知り過ぎている味噌汁の匂い、そして、母親の声。これは、現実ではないと知りつつも、桃姫は布団の中からゆっくりと顔を覗かせた。


「ようやく起きたわね、お寝坊さん。ほら、ご飯食べて、父上はもう外で待ってるわよ」

「…………」


 呆れたような笑みを浮かべた小夜が桃姫に言うと、前かけで手を拭きながらちゃぶ台の上に味噌汁とおにぎりを手際よく並べる。

 見慣れた景色、桃姫が生まれてから10年間、毎日のように見続けてきた景色。


「…………」


 桃姫は一言も発せず、ただ淡々と食事をこなし、そして小夜の手伝いを受けずに着替えを済ませると、玄関に行き赤い鼻緒の雪駄を履き、引き戸を開けて外に出た。

 その瞬間、ぶわっと吹き付けた夏の風。太陽光がこれでもかと照りつけ、うるさいほどのセミの鳴き声が桃姫の耳殻を震わせ、一気に着物の中が蒸し暑くなるのを感じた。


「桃姫、父上は桃の木の下にいるから。早く行ってあげなさい」


 玄関口から手でひさしを作って目を細めながら声を掛ける小夜に、桃姫は首だけ振り返って頷くと、見慣れた村を歩いていく。


「あら、桃姫様。おはようねぇ。今日も暑いからしっかり水を飲むのよ」

「…………」


 途中、向かいの家のおばさんが大通りの地面にひしゃくを使って桶の水を撒いているのに遭遇して桃姫は会釈だけして歩き出す。


「……わかってる。これは夢だって……こんな夢、見たくないのに」


 桃姫は感情が揺さぶられている自分に対して言い聞かせるように呟くと、ひたらすらに村を歩き、桃太郎が待つという桃の木の下へ向かった。

 夢の中だとしても、桃太郎に会ったら一つ頼んでみたいことがあったのだ。それは間違いなく、あの手紙を読んだ影響であった。


「…………」


 そして桃姫は、視線の先に桃太郎を見つけた。

 桃太郎は白い軽鎧を着て、桃源郷を握りしめ殺陣に没頭している。


「エイッ! ヤァッ! デヤァアアッ!」


 額には黄金の額当てを付け、鬼気迫る表情で一心不乱に桃源郷を振り回す桃太郎。桃姫が来たことにすら気づいていないほど熱中する桃太郎に対して桃姫は口を開いた。


「──父上、剣を教えて」

「っ……」


 突然の桃姫の声に桃太郎はハッとして、こちらを見ていた愛娘の存在にようやく気づくと、すぐに微笑みを浮かべて桃源郷を大きく振り払った。

 そして、スッと流れるように白鞘の中に戻すと、もう一振りの愛刀、脇差し桃月を腰帯から外して右手に持ち、桃姫に向けて差し出した。


「桃姫、始めよう」


 桃姫は桃月を受け取ると、桃太郎の指導の元、桃の木の下で剣術の鍛錬を受けた。汗を飛ばしながら一心不乱に刀を振り回す桃姫に対して、桃太郎が辺りを歩き回り、腕の角度、足の位置、基本的な動作を一から桃姫に教え込んでいく。

 その様子は、父と娘というより、師匠と弟子。同じ桃色の髪の毛と瞳の色を持つ者同士の遠慮なしの剣術指南であった。


「斬り上げからの袈裟斬り! そうだ! 不器用でいい! 全力でやるんだッ!」

「はいッ! デヤアアアッ!」


 いつの間にか、桃の木の下の日陰には小夜が立っており、殺陣を行う桃姫の視界に入る度に、刀を振るう娘の安全を心配しつつも、成長する娘の姿を頼もしく思う母の暖かい眼差しを向けてくれていた。


「いいぞッ! そこで全力の上段突きだッ!」

「はいッ! ヤァァアアッ!」


 桃太郎の指示を受けた桃姫は、裂帛の声を上げて全力の上段突きを空中に向かって打ち込むと、その瞬間、膝から地面に向けて崩れ落ちた。


「ううっ! ふぅッ、ふぅッ!……ふぅッ!」


 桃月を手放し、両手を地面についた桃姫は額からどっと汗を流して荒い呼吸を繰り返した。


「うぅ……父上、心臓が……苦しい……ふぅッ!」

 桃姫が顔を赤くしながら呻くように呼吸をしていると、桃太郎が桃姫の前に片膝をついて声をかけた。


「桃姫……そんな時は心臓の動きに集中するんだ。他のことは考えなくていい。心臓を中心に感じて、鼓動を意識するんだ」


 桃太郎は桃姫の熱暴走を起こしたように激しく脈動する心臓に意識を集中するように告げた。


「熱い心臓の鼓動を有りのままに受け入れて、意識で感じ取る……次に心臓から全身に解き放たれる燃える血の波に集中しよう。頭のてっぺんからつま先まで巡った血潮がまた心臓に戻ってきて全身に解き放たれる波を感じ取る。その先に、心臓の制御がある」

「……ハァッ……はァッ……はァ……せい、ぎょ……」


 桃太郎の指示通り、心臓の鼓動と血潮の波を意識して制御しようとした桃姫は、しかし、上手く行かず、ふっと桃太郎の顔を見ようと顔を持ち上げた。


「っ……!」


 笑顔の桃太郎の顔、その顔越しに立ち、こちらを見守る幼馴染のおつるの姿が視界に飛び込んで来て桃姫は大きく目を見開く。


「おつるちゃん……!」

「──桃姫ちゃん」


 叫んだ桃姫はふらつきながら立ち上がると、穏やかな笑みを浮かべて名前を呼び返すおつるを見て涙が溢れそうになり、ぐっと腕で強く目をこすって頭を横に振った。


「おつるちゃん……ごめん……私、おつるちゃんのことを──」

「──桃姫ちゃん、強くなって」


 目を腕で抑えた桃姫に対して、おつるは笑みを解くと穏やかに、しかし、しっかりとした声音で桃姫に告げた。


「──桃姫ちゃん、強くなって」

「……っ」


 桃姫は腕を目から降ろし、おつると目を合わせる。おつるの黒い目は穏やかで、しかし、すがるように桃姫に告げた。


「──それが私の、ただ一つだけの、お願い。私の代わりに……強くなって、桃姫ちゃん」

「おつるちゃんっ!」


 おつるの姿がゆっくりと白い光に包まれて消えていく。そして、あまりの眩しさに顔を後ろにそむけた桃姫は、後ろに並んで立っていた桃太郎と小夜の姿を見た。


「──桃姫、もっと強くなるんだ」

「──桃姫……もう、泣かなくていいからね」


 桃の木の下で白い光に包まれていく両親が桃姫にそう声をかけると、遂には全てが極光する白い世界に飲み込まれて、桃姫には何も見えなくなってしまった。


「おつるちゃん! 父上……! 母上っ! やだ! あああぁっ──」


 極光の大波に飲み込まれた桃姫の意識は、現実世界へと否応なしに、無理矢理に引きずり戻されていくのであった。

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