23.雉猿狗のおにぎり

 桃姫と雉猿狗は、播磨の宿場町にある安宿、播丸屋の二階に宿泊していた。

 畳が敷かれた六畳の部屋で桃姫は木戸を引いた格子窓の枠に寄りかかり、夜風に当たりながら雲がかかる青白い月をぼうっと眺めていた。


「うーん……これは……」


 一方、雉猿狗は畳に脚を崩して座った状態で桃源郷の白鞘を両手で取り回しながら唸っていた。

 幾度も柄を握って白鞘から引き抜こうとしても一向に抜けないのである。


「……そうですね……ならば、こうしてみては……ん、どうでしょうか……」

「…………」


 桃姫は、漂う雲に隠された月から視線を室内に移して、独り言ちる雉猿狗の姿を見た。

 雉猿狗は、両手で白鞘をギュッと握りしめると、集中したように黙り込み両腕に力を込めた。


「……これならば」


 雉猿狗は言うと、右手で白鞘、左手で柄を握りしめてぐっと力を込める。そして、見事に白鞘の中から銀桃色の刃を持つ桃源郷を引き抜くことに成功した。


「あっ……やりました! 見てください桃姫様!」

「……うん」


 仏刀の美しい刃を見た雉猿狗は笑顔を浮かべて桃姫を見やった。桃姫も頷いてから、雉猿狗の前に脚を崩して座った。


「……どうやったの? ずっと、抜けなかったのに」


 桃姫が尋ねると、雉猿狗は桃源郷を白鞘の中に戻してから自身の膝の上に置いた。


「木材は寒さと乾燥で収縮する特性があるのです。だから、温めてあげれば膨張して抜けるようになるのではと……猿知恵、ですけれどね。ははは」


 雉猿狗はそう言って笑ったあと、自身の両手の平を桃姫の前に開示した。


「私の手は陽光の熱を持っています。どうなるのか、試してみたのです」

「……触っても、いい?」


 桃姫は雉猿狗の白くきめ細やかな手の平を見ながら甘えるように言う。その言葉を聞いた雉猿狗は満面の笑みを浮かべて頷いた。

 桃姫は雉猿狗の手を取ると、握り、そして自身の両頬に押し当てた。


「……桃姫様……」

「暖かい……」


 桃姫は目を閉じ、雉猿狗の手の暖かさを感じながらゆっくりと雉猿狗の膝上に倒れ込んだ。雉猿狗は桃姫を受け止めながら、慈しみの顔で桃姫の横顔を見る。

 雉猿狗は桃姫の頬の上に乗っていた手を動かして桃姫の頭を優しく撫でる。疲れ果てた桃姫の横顔は、この数日の過酷さを現していた。


「お腹……空いた……」

「……っ」


 桃姫が口から漏らした言葉に雉猿狗は撫でていた手を止めた。


「父上……母上……お腹……空いたよう……」

「桃姫様……!」


 うわごとのように言う桃姫に雉猿狗は声を掛けると、膝上に伏せていたその上半身を持ち上げて、桃姫と向き合った。


「桃姫様……食べましょう。私が宿の女将さんに言って何か──」


 雉猿狗が鬼気迫る表情でやつれた桃姫に言うと、桃姫はうつろな目を浮かべながら口を開いた。


「──血の味がするの」

「え……?」

「ずっと……砂を噛んでるみたいな、感じで……」


 桃姫の濃桃色の瞳は薄暗く染まり、恐れと苦しみの表情を浮かべていた。


「匂いは……焼ける村の臭い……ずっと、してる……」


 ──地獄を見ろ、桃太郎の娘。


 桃姫が気絶してる最中に投げかけられた温羅巌鬼の呪詛の言葉。しかし、その呪いは桃姫の心の奥底に深く刻み込まれていた。


「これが……地獄、なのかな」

「……ッ!」


 桃姫が涙をこぼしながら震えた掠れ声で言うと、雉猿狗は歯を食いしばったあと、すっくと立ち上がって声を上げた。


「女将さんからご飯を頂いてきます! 待っていてください……!」


 そう言って引き戸を開け放って部屋から出ていくと、階段をトトトトと降る音が桃姫の耳に届いた。

 桃姫は力なく薄汚れた畳のシミを眺めて鼻孔から漂う村の焼ける臭いに耐えた。

 それから数分後、今度は階段をトトトトと登ってくる音がすると、引き戸から雉猿狗が姿を現した。片腕にはおひつを抱えている。


「女将さんにご飯は無いかと尋ねたら、今何時だと思ってるんだって……怒られてしまいました。ははは」


 雉猿狗はそう言って苦笑しながら部屋に入ると、後ろ手で引き戸を締め、桃姫の前に座りながら畳の上におひつを置いた。


「私が相当しつこかったんでしょうね。固くなった……食べ残しのご飯なら厨房にあるって……勝手に持っていけって怒鳴られました……ははは」


 雉猿狗の照れたような笑い。それに対して桃姫は、雉猿狗がここまでしてくれた嬉しさ、しかし、それ以上にそれを断らなければならない辛さ、小さな身体に綯い交ぜになった複雑な想いを隠せなかった。


「……雉猿狗……ごめんなさい……私、食べられないんだ」


 桃姫は正座の姿勢になると、頭を下げて、絞り出すような小声で告げる。けれでも、雉猿狗は桃姫の言葉に対して答えずに、おひつの蓋となっている布巾をどけ、桶の端に固まっている黄ばみ始めた硬い麦飯を見た。

 お世辞にも美味しそうなどとは言えない。熱い湯をかけて、茶漬けにしてごまかせばまだ食べられるかもしれない。そのような質の悪い麦飯が更に時間を経て硬くなってしまっている。

 かき集めれば大きめのおにぎりの一個分は作れそうなその麦飯の残りに対して、雉猿狗は白い右手を伸ばした。


「……桃姫様、私は天界から来たと……そう、言いましたよね」


 雉猿狗は手首に数珠を巻いた右手で硬く冷たくなった麦飯を一つに寄せていく。


「天界はとても暖かくて、すべてが清らかで……とても居心地が良かったんです……特に私は、天照大御神様に気に入られていましたから、余計にですかね」

「…………」


 雉猿狗の言葉を聞きながら、桃姫は眉根を寄せ、正座の状態でぐっと膝の上の小さな拳に力を込めた。


「……ずっと……天界に居続けても良かった……でも、私の元に届いたのです。御館様の……桃姫様の父君と母君の悲痛な声が……」


 雉猿狗はおひつの中央にまとめた麦飯を両手で受け取ると、優しく、愛情を込めて握り始めた。


「桃姫様を護って欲しいという強い祈りが、天まで届いたのです……だから、私は居心地の良い天界を離れ、下界に降りてきました」

「…………」


 雉猿狗の言葉をしかと耳にしながら、黄ばんでいた麦飯が段々と白さを取り戻し、ぽかぽかと湯気を立て始める様子を桃姫は固唾を呑んで見ていた。


「桃姫様、はっきり申し上げて……現世で生きることは苦しみそのものです。人々の様々な思惑が交差して、弱者は虐げられ、強者は踏みにじり、そのすべてが否応なく時代の荒波に飲み込まれていきます」


 雉猿狗は儚げな眼差しを浮かべ、言葉を紡いだ。


「天界と比べれば、それはあまりにも冷たく、汚く、唾棄すべき場所なのかもしれません──だとしてもッ!」

「…………」


 語気を強めた雉猿狗は桃姫の目をしかと見た。雉猿狗の濃翠色の瞳と桃姫の濃桃色の瞳が深く交差し合う。


「──桃姫様は、まだ現世のことを何も知らないではありませんかッ!」

「……っ」


 雉猿狗の万感の想いの込められた言葉を受けて桃姫はハッとして目を見開く。


「訳も分からずに現世に生まれ落ち、訳も分からずに短い10年の時を生き、訳も分からずに絶望して自らの命を捨てる……そんなに悲しいことは──他にございませぬッ!」


 雉猿狗の真に迫った言葉を受けて桃姫の小さな身体は打ち震え、瞳からぽたぽたと大粒の涙をこぼし始めた。


「私は、桃姫様に生きてもらいたいのです。この苦しい現世を生き抜いてもらいたいのです……そして現世とは一体何だったのか──その目で見て、心で知って頂きたいのです」

「……う、うぅ……」


 言葉を告げた雉猿狗は桃姫に優しく、そして力強く微笑むと、桃姫は泣きながら頷いて返した。


「桃姫様が現世を百年生きたのち……それから、父君と母君が待つ、天界に向かいましょう。もちろん、雉猿狗と一緒にですよ」

「……私が百歳まで生きれば、雉猿狗と一緒に父上と母上が居る天界に行けるの……?」

「はい」


 桃姫のすがるような言葉に、雉猿狗は確信を持って答えた。それは、桃姫にとって何よりの救いであった。


「だから、食べてください、桃姫様。生きてください、桃姫様……私の為にも。桃姫様を愛する者たちの為にも」


 雉猿狗は湯気を立て、艷やかに白く光り輝く麦飯のおにぎりを両手で持って桃姫の前に差し出した。

 桃姫は雉猿狗からおにぎりを受け取ると、手の平を通して伝わる雉猿狗の想い、愛情の深さを実感した。


「あったかい……」


 桃姫は湯気を放つ白く光り輝くおにぎりに向かって言葉を漏らすと、口を開けて一口含んだ。


「んぐ……もぐ、あぐ」

「…………」


 桃姫が玄米おにぎりの頭の部分を食べ、慎重に咀嚼するのを雉猿狗は固唾を呑んで見守り、そして桃姫はおもむろに目を閉じると、味わうようにしてゆっくりと嚥下した。


「お日様の……味がする……」


 目を開けた桃姫は率直な感想を雉猿狗に告げ、そして暖かなおにぎりを再び顔に近づけてよく見たあとに嬉しそうに声を上げた。


「おいし……い……! おいしい……!」

「良かった……」


 桃姫は歓喜のあまり大粒の涙を流しながら二口目にかぶりつき、雉猿狗は安堵のため息を漏らした。


「こんなにおいしいおにぎり……! 初めて食べたよ、雉猿狗……!」

「桃姫様に食べて頂けて……本当に良かった……!」


 雉猿狗は思わず、桃姫を上半身を抱き締めた。


「桃姫様が死んでしまったら、私は……私は……!」


 桃姫は雉猿狗の言葉を聞きながらおにぎりを頬張り、涙を流しながらもぐもぐと一心不乱に咀嚼した。

 そして、おにぎりを食べ終えた桃姫は、指についた玄米粒までしっかりと食べ切り、満足気に息を漏らしてから涙を拭った。


「……雉猿狗」

「はい、桃姫様」


 桃姫の暗かった瞳には光が戻り、雉猿狗はそれを見て感極まる。


「私、もう泣かない。今ので最後にするから」

「っ……はい」


 桃姫の言葉を聞いた雉猿狗の目から熱い涙が一筋こぼれ落ち、ハッとして雉猿狗が手で抑える。


「あれ……私の身体は、涙も汗も……出ないはずなのに……」


 雉猿狗が動揺していると、桃姫が雉猿狗の膝に寄り掛かり、膝上に頭を乗せた。


「あったかい……お日様みたいな……雉猿狗……」


 桃姫は雉猿狗の手のみならず雉猿狗の身体から発せられる熱に身を委ねていた。


「ねぇ? また、これして……?」

「はい……好きなのですね、撫でられるのが」


 雉猿狗が桃姫の桃色の髪の毛をゆっくりと撫で始めた。桃姫は気持ちよさそうに目を細める。


「母上にしてもらってた……寝られない時に……」

「そうなのですね」


 桃姫は目を閉じて穏やかな表情を浮かべると、雉猿狗もまた母親のような穏やかな表情で桃姫の髪を手櫛で撫でた。

 開かれた格子窓の外から涼しい秋風と鈴虫の音が聞こえる穏やかなまどろみの時間が流れてしばらく後、雉猿狗が口を開いた。


「……桃姫様……私おかしい、ですよね……」

「……ん?」


 不意に発せられた雉猿狗の言葉に桃姫は薄目を開いた。


「先程の私の言葉です……桃姫様に対して……苦しい現世を生きて欲しい知って欲しい、と……私の言葉はもしかしたら……桃姫様を苦しめる冷たい言葉なのかもしれません……」

「違う……」


 雉猿狗の不安げな声に桃姫はしっかりと否定の声を上げた。それに対して雉猿狗が戸惑うと、桃姫は雉猿狗の膝上にある顔を上に向けて雉猿狗と目線を合わせた。


「だって──雉猿狗の言葉は、あったかかった……」

「桃姫様……」


 桃姫の言葉に雉猿狗は再び熱い涙をこぼした。白い頬を伝って落ちた涙が、桃姫の頬に落ちて濡らす。


「……雉猿狗……天界から助けに来てくれて……ありがとう……」

「……っ」


 桃姫の光を含んだ濃桃色の瞳を雉猿狗は見て、ハッとする。その瞳は正しく、三獣が忠誠を誓った桃太郎の瞳、そのものだからであった。


「父上と母上も……あったかい場所にいるって雉猿狗が教えてくれたから……」

「はい……」


 桃姫は雉猿狗に力強く言うと、目を閉じた。雉猿狗が桃姫の柔らかな髪を撫でて返す。


「……雉猿狗……桃姫、と……生き、て……」


 桃姫はついに眠りにつき、すぐに穏やかな寝息を立て始めた。雉猿狗は桃姫の言葉に深く頷くと、桃姫の寝顔に優しく告げた。


「……おやすみなさいませ……桃姫様──」

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