21.茶屋
桃姫と雉猿狗が備前の山道を越え、鬱蒼とした麓の竹林を越えると、次いで広大な平野地帯が姿を現した。
太陽はゆっくりと降りているが、空は明るかった。道はただ真っ直ぐ続いており、左右を稲が実りきった秋の田園が囲む。
「ここが播磨……?」
桃姫が静かに雉猿狗に問い掛けると雉猿狗は頷いて答えた。
「はい。あの先にある門の跡。あれは関所の跡ですね。今は取り潰されているようです」
「……関所」
桃姫が田園地帯に不釣り合いな木造の門を見て呟く。
「関所というのは領地の境界にある検問所のことです。ただ、検問所とは名ばかりで実際は金銭さえ支払えば通れる場所でした。昔は日ノ本中にあったそうですが、織田信長公が天下統一を果たした後に廃止を命令して、後を継いだ豊臣秀吉公の今の時代となっても関所の廃止は継続されているようです」
「ふーん……」
「天下統一すれば、人の往来は自由になったほうが良いと考えたのでしょうね。信長公は特に商人を大切にしていました。私たちが向かっている堺の都も信長公の庇護によって発展した商人の都なのですよ」
「……そう」
桃姫は雉猿狗の言葉に無表情のまま声を返すと門が開かれている関所の跡を二人並んで通り過ぎた所で不意に立ち止まった。
「なんでそんなこと知ってるの……?」
桃姫は雉猿狗の背中を見ながら言った。
「雉猿狗は、犬と猿と雉の化身なんだよね……なんで、そんなことまで」
桃姫の疑問に雉猿狗は振り返って答えた。
「"猿知恵"というやつですかね」
そう言って微笑むと、天を仰ぎ見た。
「天界には様々な下界の情報が集まってきます。今、下界では何が起きているのか、中には下界のことなど全く興味が無い方々もいらっしゃいますが、私は……そうですね、私はずっと気になっていました」
桃姫もつられて天を仰ぎ見る、太陽光が眩しく、思わず目を細めた。
「だって……御館様の強い祈りが届くんですもの」
雉猿狗の穏やかな声、桃姫は太陽光に照らされる雉猿狗の銀髪と白く輝く肌を見たあとすっと顔を伏せた。
「父上と母上は……天界にいるの……?」
地面の土を見ながら桃姫が言うと、雉猿狗はすっと片膝を突いて桃姫の顔まで自身の顔を下ろした。
「はい。間違いなく。桃姫様を見護っておられます」
「…………」
桃姫は顔を上げ、雉猿狗の顔を見る。その優しくも頼もしい濃翠色の目を見たとき、脳裏に三獣の祠の奥に安置されていた三つ結びの摩訶魂を連想せずにはいられなかった。
「……わかった」
桃姫は言うと再び歩き出す。雉猿狗はその小さな背中を見たあと、ふっとその先に小さな茶屋があるのを見つけた。
そして、更にその先には微かに町並みが見える。先程は関所の跡に隠れて見えなかったが、どうやらこの先は宿場町になっているようであった。
「桃姫様。茶屋ですよ。あそこで休憩しましょう」
「……ん? うん……」
雉猿狗の言葉を聞いて茶屋を視界に入れた桃姫は力なく答えると、赤い鼻緒の雪駄を一歩一歩前に進めて茶屋まで辿り着いた。
草だんごと書かれたのれんをくぐって茶屋に入り、座布団が敷かれた縁台に座ると、雉猿狗は小太りの女店主に一人分の草だんごと一人分のお茶を注文した。
湯呑から湯気を立てるお茶とあんこの乗った草だんごの皿をおぼんに乗せた女店主は手際よく桃姫と雉猿狗の間に並べていく。
「えっと……一人分でいいのかい?」
女店主が桃姫を、次いで雉猿狗を見て言った。
「はい。あの……冷たいお水などあれば、私に頂けますでしょうか?」
「水……?」
雉猿狗の言葉に眉根を寄せて訝しんだ女店主はそれでも客には変わりないとして、ふんと鼻を鳴らして店の奥に向かった。
「雉猿狗……」
桃姫が湯気を立てるお茶と草だんごを見ながら口を開いた。
「桃姫様。こちらは全て桃姫様の分でございます。どうぞ、お召し上がりください」
雉猿狗は言うと、女店主が水を入れた湯呑を手づかみで持ってきて雉猿狗の前に突き出した。
「水だから、お代はいらないけどさ……」
「ありがとうございます」
雉猿狗は感謝の言葉を述べてから湯呑を受け取ると、中の水をこくこくと飲んだ。
「……訳ありだね、こりゃ……あ、いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」
女店主は雉猿狗と桃姫を見て吐き捨てるように言うと、のれんをくぐって新しく入ってきた客の接待に向かった。
「ふぅ……」
水を飲み干した雉猿狗は一息ついて空の湯呑を縁台に置いた。桃姫はそれを見届けたあと、お茶の湯呑に手を伸ばした。
「熱そうなので気をつけてくださいね」
「……うん」
雉猿狗の忠告に桃姫は言って返すと湯気が立つ湯呑を口元まで運ぶと息を数回吹きかけてから桃姫はお茶をすすった。
「…………」
口に含んだお茶を一回、二回、舌で味わってから桃姫は目を閉じて飲み込んだ。
そして、目を開き、お茶を飲んで最初の一言を桃姫は発した。
「まずい……」
桃姫は湯呑を置くと顔を伏せた。雉猿狗はその様子を見て口を開いた。
「桃姫様、お茶は……」
「お茶は好き……母上が入れてくれたお茶を毎日飲んでた……」
桃姫は膝の上に両手を置いて桃色の着物を握りしめながら言った。
「そう、ですよね……あの、口に合わなければお水のお代わりを頂きましょうか……何か飲まないと」
雉猿狗が言うと、桃姫は首を横に振った。その目からは涙がつうとこぼれていた。
「あの……草だんごはどうでしょう。とっても美味しそうですよ」
雉猿狗の言葉を聞いた桃姫は皿の上に乗ったよもぎの香る緑色のだんごを見た。上に乗っているあんこは小豆の粒が残っており、店の壁には自慢の品と書かれた張り紙が貼られていた。
「あの、すみません」
雉猿狗は他の客に注文を運び終えた女店主に声を掛けて空の湯呑を掲げた。
「お水のお代わり、頂けますでしょうか」
「…………」
女店主はむっと湧き出た不機嫌そうな顔を隠そうともせず湯呑を奪い取るように掴み取ると、店の奥に向かった。
「ははは……お水は儲けにならないから、怒ってますね」
女店主を見送った雉猿狗が苦笑いしながら桃姫のほうを見ると、草だんごの一つを指で摘み上げて鼻まで運んでいた。そして、くんくんと匂いを嗅いだ後に表情を曇らせる。
「……変な匂い」
桃姫は呟くと、大きく口を開けて小ぶりな草だんごをぱくりと口の中に含んだ。
「ほらよあんた、水。次からはお代を頂くからね」
桃姫に注目してた雉猿狗は不意に声を掛けられたことに驚きながら女店主から渡された湯呑を受け取った。
「お手数おかけします」
雉猿狗が微笑んで返すと、女店主は桃姫の方を見てギョッとした顔を浮かべた。
「っ……!?」
雉猿狗も咄嗟に隣に座る桃姫の方を見ると、桃姫は口を両手で抑えて顔面蒼白、震えながら今にも嘔吐しそうな状態であった。
「あんた! 店ん中で吐くんじゃないよ!」
「桃姫様……!」
女店主と雉猿狗の騒ぎに他の客が何事かと注目する。桃姫は両手で抑えた口を必死に咀嚼させ目に涙を浮かべながら力づくで草だんごを飲み込んだ。
「……う、ううぅ……」
「桃姫様……お水を……!」
嗚咽する桃姫に雉猿狗が湯呑を差し出し、桃姫は受け取った湯呑の中の水をこくこくと飲んだ。
「桃姫様……大丈夫ですか」
雉猿狗が心配そうに尋ねると、女店主が鼻で笑いながら言った。
「はっ、大げさだねぇ……だんごが喉に詰まっただけだろうに……」
女店主が桃姫を見ながら言うと、桃姫は湯呑から口を離して女店主の目を見て言った。
「今まで食べた食べ物の中で、一番まずかったです」
「は……はぁッ!?」
女店主は桃姫の突然の発言に小さな両目をこれでもかと見開き、驚愕の声を上げた。
「桃姫様……!?」
雉猿狗も流石にこれはまずいと思って、桃姫に注意しようとするが、しかし、女店主の激昂によって掻き消された。
「あんた! 本当に失礼な娘だねぇッ! 他の客がいる前で、この茶屋の評判落とすような真似はやめておくれよッ!」
「すみません……」
怒られても表情を一切変えない桃姫に変わって、雉猿狗が頭を下げて謝罪の言葉を述べると、女店主の怒りの矛先は雉猿狗に向けられた。
「あんたもあんただよ! 二人で来てんのに、なんであんたは注文頼まないんだよ! なんだいッ!? 冷やかしかいッ!?」
「……いえ……その……私たちは、訳ありで……」
まくし立てる女店主に対して雉猿狗は弁明しようとするが、女店主は更に大声を張り上げた。
「ああ! 訳ありなのは見りゃわかるよ! 見慣れない子連れの女なんて訳ありじゃなきゃ何なんだい! だとしてもだねェッ! 礼儀ってもんが!」
「あの……食事が終わったら、すぐに帰りますので……」
「……いらない。雉猿狗……私、これ食べられない」
桃姫の言葉にいよいよ気絶寸前まで頭に血が昇った女店主は顔を真っ赤にして叫んだ。
「いいよ! もういいから! お代は結構! 今すぐ店から出ていってちょうだい! 二度と来るなァッ!」
女店主の一喝によって桃姫と雉猿狗は叩き出されるように茶屋の店内から飛び出す。
「……桃姫様」
「ごめん……雉猿狗」
心配そうな雉猿狗に対して、桃姫は謝る。そして二人は茶屋の前から歩き出し、遠くに見える宿場町までとぼとぼと歩き始めた。
「口に合わなかったんだからしょうがないですよ。桃姫様は悪くありません」
「…………」
雉猿狗の励ますような言葉に桃姫は目を伏せて口を結んだ。
「でも、桃姫様。村を出てからお水とだんご一個しか口にしていませんよ。このままでは倒れてしまいます……鬼退治どころではありません」
雉猿狗の声掛けに対して桃姫は口を開いた。
「……雉猿狗は……雉猿狗は……何も食べなくて、いいの?」
桃姫はずっと思っていたことを雉猿狗に尋ねた。茶屋で何か食べるのかと思ったら、一口も食べていないのだ。
「私は、そうですね……食べ物を口に含めば、味は感じますけど……食欲というものは、ないですね」
「……そうなんだ」
桃姫の呟くような返事を聞いた雉猿狗はおもむろに両手を大きく広げて天を仰いだ。
「それに、こうして陽の光を一身に浴びていると……ただそれだけで、身体と心が満たされます」
「…………」
太陽は沈み始め、赤くなり始めた空が秋風になびく稲穂を橙色に染めた。何処からかやってきた赤とんぼが雉猿狗の指先に止まり、雉猿狗は気持ちよさそうに目を閉じた。
桃姫はそんな雉猿狗の姿を見ながら、彼女がこの世ならざる存在であることを実感していた。
「私は太陽が好きです……天界では、天照大御神様のおそばにずっと居りましたから……」
「……あまてらす」
桃姫は雉猿狗の言葉に驚きながら声に出した。
「それって……日ノ本で一番偉い女神様、だよね……?」
桃姫の言葉に雉猿狗は目を開けると、満足気に頷いてから桃姫を見た。
「はい。御館様への忠誠を貫き、鬼退治に命を賭した私たち三獣のことを、天照大御神様は深く寵愛してくださいました。そして……」
雉猿狗は自身の胸に左手を押し当て、想いを込めるように固く握りしめた。
「この雉猿狗としての身体を授けてくださったのです──桃姫様をお護りするための、この身体を」
「…………」
雉猿狗の強い決意を感じ取った桃姫は何も言えず、ただ赤い太陽に照らされる雉猿狗の姿を黙って見ていることしか出来なかった。
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