20.役小角の部屋

 役小角は燭台の灯りによって照らし出された鬼ヶ島の暗く長い階段を降りていく。

 二体の大鬼を引き連れ、満面の笑みを崩さずに黄金の錫杖をカツン、カツンと突いて降りていった先には一つの赤い扉があった。

 黒一色で埋め尽くされた鬼ヶ島にあって、その赤い扉は正しく異様であった。

 赤扉の前に立った役小角はおもむろに右手に持った錫杖の頭を扉の取手にかざす。そして、マントラを唱えた。


「──オン──ソラソバ──テイエイ──ソワカ」


 役小角の詠唱を聞き届けた扉は、一瞬紫色に光ったあとにガチャリ、という音が鳴り、ギィ……と扉が少しだけ手前に開いた。


「──おぬしらはここで待て」


 そう呟いた役小角が取手に左手を伸ばし、扉を開けて中に入って行くと、後方に侍っていた前鬼と後鬼が白布越しに互いの顔を見合わせたあと、ぐるりと反転して門番のように赤扉の前に立ち塞がった。

 室内に入った役小角は勝手に灯っていく部屋の燭台の灯りを見ながら息をつくように声を漏らした。


「……さて」


 燭台に刺された蝋燭の灯りによって照らし出されたその部屋は壁から天井、床まで赤一色であった。

 この赤い部屋は役小角の自室であり、研究室でもあった。鬼ヶ島に数ある部屋のうち、地下にあるこの部屋を役小角は20年前から利用していた。

 鬼ヶ島特有の黒岩の上から赤い顔料で塗り固められたその部屋は、宝物庫ほどの大きさはないが、物を置き集めるには十分な広さを有しており、役小角が千年の間に日ノ本各地で集めた本物の呪物の数々や山と積まれた書物が整然と置かれていた。

 そして異様さが際立つのが、部屋の中央に鎮座する赤い瓶である。赤い床に描かれた赤い五芒星の上に鎮座する赤い瓶。

 それは、苦悶の表情を浮かべ絶叫する人間の顔をした不気味な装飾が幾つも施された赤い瓶であった。


「最も偉大な師とは、最もおぬしを苦しめた人物である……とはよく言ったもので」


 満面の笑みを浮かべて言いながら役小角は赤瓶に歩み寄ると、その中を覗き込んだ。

 瓶の中には、ふつふつと泡立つ赤黒い液体が渦を巻くようにうねり、地獄の釜を彷彿とさせる禍々しさを見せつけていた。


「地獄に極楽を見出すことは……可能だ」


 そう言った役小角は立てかけられていたひしゃくを手に取ると、赤瓶の中のどろどろとした赤黒い液体をかき混ぜ始める。

 すると、液体自体が叫び声を上げるかのように更に強くぶくぶくと泡立ち始めた。

 その様子を満足気に役小角が眺めていると、聞き取り不可能な女性らしき金切り声が部屋中に響いた。


「────!!」

「……静かにせい」


 役小角は、薄目で呟くように吐き捨てると、赤瓶から離れて呪物が陳列された棚の前に移動した。


「────!!」

「……おぬし、千年善行の間は大人しくしておったのに、最近になってまた随分と騒ぎ立てるようになりおったのう」


 鳴り響く金切り声に対して役小角は慣れた口調で言うと、黄金の錫杖を立てかけてから、棚の前の椅子に腰掛けた。


「────!!」

「無駄じゃ……おぬしの叫びは無駄。抵抗も無駄」


 役小角は棚に置かれている筒立てに並べられた九本の硝子筒を見ながら言った。九本のうち二本は空になっているが、それぞれが赤や青、紫や緑などの怪しく光る液体を内包していた。

 更に九本の硝子筒には、それぞれ赤い筆文字で名前が記されていた。左から、温羅、荒羅、滅羅、愚羅、波羅、餓羅、怒羅、絶羅、燃羅。

 このうち、燃羅、そして愚羅と記された硝子筒が空になっていた。 


「わしは老いず、死なず、おぬしはその荘厳にして空虚な社の奥深くで、ただひたすらに森羅万象の波を傍観して暮らすのだ」

「────────!!」

「くかかかかッ。泣き叫ぼうと結果は覆らん……千年前の京にて決したことだ」


 言った役小角は、並んだ硝子筒のうち、空の硝子筒の一本をスッと手に取ると、それに書かれた愚羅という文字を見ながら呟いた。


「おぬしの負けじゃ──我が師、一言主よ」


 役小角は自身の体内、社神の術によって築かれた荘厳な社、その開かれた扉に向かって声を投げかけた。

 その奥深くにいる泣き叫ぶ影、千年前に捕らえた女神、一言主に対して……。


「引きこもりの女神のくせに、迂闊にも葛城山から降りてきたのがいかんのだ……わしの老体を乗っ取れると本気で思うたのだろう?」

「────!! ────!!」

「かははははッ! おぬしは千年前からそればかりだのう。クソジジイ、クソジジイと。他に言うことはないのかのう」


 研究室に響き渡る金切り声に役小角は笑って返すと、空の硝子筒を元の位置に戻した。


「────────!!」

「何ぃ? 巌鬼が破ったあの掛け軸は……本物……?」


 一言主の叫びに役小角は思わず聞き返す。


「────!!」

「ざまあみろ……だ、とな……まったく……おぬしは……かははは」


 役小角は呆れたように掠れた笑い声をこぼすと、自身の腹、へそのあたりを両手で撫でた。


「それだけ元気ならば大丈夫……もうよい、駄弁りは仕舞いじゃ。社の扉を閉めるぞい」

「────!!」

「知るか……また気が向いたら外の風を入れてやる。それまでは大人しくしておれ」


 役小角は一言主の抗議の声を一方的に制すると、社神の術によって築かれた荘厳な社の扉を閉じ、一言主の声は役小角の元に届かなくなった。


「まったく……うるさい女がへその奥におると疲れるのう……腹の虫とはよく言ったものだが、腹の女ほど厄介なものはない」


 役小角は疲れたように腹を撫でながらそう言うと、棚の上に陳列された呪物、その中でも特別扱いを受けている赤い神棚の上に祀られるように鎮座する呪物を見やった。


「のう……おぬしもそうは思わんか……?」


 役小角は満面の笑顔を浮かべながら愛おしそうにその呪物に向かって声を掛けた。


「もうしばらくの辛抱だ……わしらは千年も待ったのだ……千年……ああ、長かったよなぁ?」


 赤い神棚の上に祀られている呪物。それは、赤い細紐で縛られた、雪のように白い一房の髪の毛だった。


「しかし、もう少しだけ……もう少しだけ、待っておくれよ──"悪路王"」


 役小角は千年間もの間片想いを続ける相手の名を告げると、愛おしそうに細められた漆黒の両眼の奥深くに深淵の常闇を映し出すのであった。

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