17.埋葬

 ゆっくりと、桃姫の意識が覚醒していく。

 桃姫は目を閉じたまま、温かな布団の熱を全身に感じた。何か、恐ろしい悪夢を見ていたような気がする。

 思い出せない、思い出したくない。でも、その悪夢の最後には一片の救いがあったような感覚を抱く。


「ん……んん……」


 寒気を感じた桃姫が、頭を押し込んだ布団の中でもぞもぞと動く。まだ眠い。ということは、まだ朝早いということ。

 つまり、両隣にはまだ寝ている父上と母上がいるのだと、桃姫は布団の中で想像する。しかし、それにしても寒すぎる。


「……ん、んん」


 それは、分厚い布団の中にも押し入ってくる寒さで、否が応でも目覚めを加速させられた桃姫は、ゆっくりと布団から顔を出し、そして普段なら右隣にいるはずの小夜の姿を見ようとした。


「────」


 そこに広がっていたのは、半壊した自宅だった。かろうじて焼け焦げていない畳の上に敷かれた布団、壁と屋根の一部は崩壊し、秋の寒空を露呈していた。


 ──地獄は、続いてた。


 桃姫の脳裏に一気に昨晩の出来事が流れ込み、そして鼻を突く血と肉の焼ける悪臭が肺を満たして、呼吸困難を起こした。


「げほっ……げほっげふっ!」


 桃姫は布団から上半身を起こし、胸を抑えて幾度も咳をする。同時に嘔吐の不快感も湧き起こるが、胃が空っぽのために乾いた咳が出るだけで終わった。


「……う、うう……」


 桃姫は自宅の惨状に嫌気が差し、布団の中に戻ろうかと思った。布団の中に戻り、両親が生きている温かな良い夢が見られるまで無理やりにでも寝ようかと思った。

 しかし、もはや意識は完全に覚醒しており、鼻を突く強烈な悪臭、外と変わらぬ秋風の寒さの存在に気づいてしまった。もう寝ることは不可能だと、桃姫は布団に戻ることを諦めた。

 そして桃姫は、半壊して外の景色が筒抜けになった大きな壁の亀裂を見た。その隙間から、遠くで何か動いている人が見えた。青白い着物を着た、長い銀髪の女性。


「……あ」


 桃姫は小さく声を漏らした。昨晩の出来事、その最後の最後に起きた出来事。一片の救いの記憶。


「雉猿狗……」


 桃姫は思わずその名を呼ぶ。亀裂から見える雉猿狗は、一心不乱に鍬を振り上げては地面に振り下ろし、村の片隅に穴を掘っていた。


「……んっ」


 桃姫は声を上げて布団から立ち上がる。桃姫自身、立ち上がれるのかと心配だったが、案外、足はしっかりと桃姫の体を支えた。

 そして、手を拡げて自分の着ている着物を見る。それは昨晩着ていたボロボロの萌黄色の着物ではなく、可愛らしい桃の花が描かれた薄桃色の着物だった。


「なにこれ……見たことない」


 桃姫はその着物が一瞬で気に入って、寸法も桃姫の体にぴったりだったが、それは今までに着たことがない初めて見る着物だった。

 桃姫は心に疑問符を浮かべながらも、仕立ての良い清潔な薄桃色の着物を気に入り、ほんの少しだけ明るい気持ちになった。

 少なくとも、足を前に動かし、玄関口で雪駄を履いて、木製の引き戸を開けて、半壊した家の外に出るだけの元気を得ることは出来た。


「ふっ……ふゥっ!」


 雉猿狗はひたすらに鍬で穴を掘り続けていた。その数、80以上。


「ふぅ! ふっ! ふぅッ……!」


 村の片隅、桃の木が生える空き地に穿たれた大量の穴の近くには死体が男女に分かれて山となって積まれていた。

 桃姫は、一生懸命に穴を掘る雉猿狗の存在に意識を集中していたため、死体の存在には気づかず近づく。


「……雉猿狗」


 桃姫が重労働にも関わらず汗一つ掻いていない雉猿狗の横顔に向かって呼びかけると、雉猿狗はハッとした表情を浮かべて桃姫を見た。


「桃姫様っ!?」


 そして驚きながら名前を叫んだあとにちらっと目線を動かすと、桃姫も釣られてそちらを見た。まずい、と雉猿狗が思うより早く桃姫は死体の山を見てしまった。


「……え」


 桃姫が声を上げると、雉猿狗はしまった、という顔をして目を閉じた。しかし、鍬を地面に降ろして濃翠色の目を開けると、桃姫に言った。


「破壊された村を巡って、集められたのはこれだけでした」


 雉猿狗が胸を張って、堂々かつ凛とした声で言うと、桃姫は掘っている大量の穴と死体の山の意味を関連付けて、その真意を理解した。


「お墓……なんだね」


 そう言った桃姫は、いつも蹴鞠遊びの時に利用していた桃の木の空き地に掘られた穴が丁度、人一人が収められる幅だと気づいた。


「はい……勝手なことをしましたが、忍びなくて」 

「……うん」


 雉猿狗の真摯な言葉を聞いた桃姫は頷くと、死体の山の前に向かって歩き出した。


「あっ! 桃姫様!」


 その様子を見た雉猿狗が声を出しながら、白い数珠のついた右手を伸ばして制止を掛ける。

 それでも桃姫は止まらず、死体の山に両手を伸ばした。


「触れてはなりません! 汚れが付いてしまいます……!」


 桃姫はその言葉を耳にしながら、背中を斬り裂かれて苦悶の表情を浮かべる女性の亡骸を見て言った。


「──この村に住む人が汚いと思ったことは、一度もないよ」

「……っ」


 桃姫の言葉に二の句が告げなくなった雉猿狗。桃姫は女性の亡骸を死体の山から降ろすと、両脇に両手を差し入れて、墓穴に向けて引きずって運んだ。


「雉猿狗は、お墓の穴を掘って、私は、みんなを入れるから」


 桃姫はそう言うと、引きずってきた女性を墓穴に転がすように入れる。墓穴に横向きに収まった女性は苦悶の表情を浮かべながらも何処か救われたような印象があった。


「……桃姫様」

「雉猿狗、早くしないと、夜になっちゃうよ」


 その様子を見ながら思わず声を漏らした雉猿狗に桃姫は次の亡骸を死体の山から引きずり下ろして運び始めた。


「はい……はい!」


 桃姫の姿を見て震え上がりながら返事をした雉猿狗は、落とした鍬を拾い上げると、残りの墓穴を掘るために力強く硬い地面を叩き始めた。

 それから6時間後、一心不乱に働き続けた桃姫と雉猿狗は、100体に及ぶ村人の埋葬作業をすべて終えた。

 雉猿狗が最後の一人の墓穴に鍬で土を掛け終わると、2人は桃の木の根本に背中から倒れ込んだ。


「はぁ……はぁ……はぁ……!」

「ふぅ……ふぅ……ふぅ……!」


 桃姫と雉猿狗の荒い呼吸音がカラスの鳴く夕焼け空に向けて放たれた。

 先程から、20羽ほどのカラスが墓の周りを旋回したり、近くの屋根の残骸に止まったりしてこちらの様子を伺っていた。


「おーい、カラスのばーか」


 おもむろに雉猿狗がカラスに向かって悪態を吐いた。


「ははは……やつらの御馳走、全部埋めてやりましたね」

「……うん」


 雉猿狗が笑顔で桃姫に言うと、汗だくになった桃姫は頷いて返した。

 カラスは恨めしそうに雉猿狗に向かって一鳴きすると、全てのカラスが一斉に飛び立って、山に向かって鳴きながら遠ざかっていった。


「雉猿狗……」

「はい……?」


 その光景を見ていた桃姫が、おもむろに雉猿狗に声を掛けた。雉猿狗は桃姫の顔を向いて聞き返す。


「なんで雉猿狗は、汗をかかないの……?」


 桃姫はそう言うと、雉猿狗の顔を見た。雉猿狗の顔は土こそ付いているものの、汗は一つも掻いていなかった。端正な顔立ちをした麗人の顔がそこにはある。


「それは……」


 雉猿狗は言いかけると、すっくと立ち上がった。


「付いてきてくださいませ。桃姫様」


 桃姫は雉猿狗の顔を見上げたあと、薄桃色の着物の裾を払いながら立ち上がった。


「こちらです」


 凛とした声でそう言って、桃の木の下から歩き出した雉猿狗の背中、青白い着物を着たその背中には蒼い曼荼羅模様が描かれていた。


「…………」


 桃姫はその曼荼羅模様を見ながら、桃の木の空き地に作られた墓地から去っていった。

 雉猿狗の背中を追うに連れて、桃姫の顔色が段々と曇っていく。それは、小夜、そしておつると昨晩走り抜けた道を再現しているからであった。


「桃姫様、大丈夫ですか? 具合が悪そうですが……」


 遅れ始めた桃姫に気づいて、振り返った雉猿狗が心配そうに言うと桃姫は黙ったまま首を横に振った。

 雉猿狗は心配そうな顔をしながらも進み続けると、村の裏門に辿り着いて、その門をスッと通り抜けた。


「……っ」


 それまでゆっくりとは言えちゃんと歩いていた桃姫は、その裏門をまたいで村の外に出た瞬間に息を呑んで立ち止まる。

 そして、その先に続く赤い鳥居を見て呼吸を荒くし始めた。それを見た雉猿狗は、これはまずいと感じて声を上げる。


「ちょっと、待っててくださいね……!」


 そう言った雉猿狗が桃姫を裏門に置いて走り出すと、村の外に掘られた近場の井戸から水を組み、懐から取り出した白い手ぬぐいにその水を染み込ませる。

 そして、雉猿狗が戻ってくると、呼吸を荒くして胸を抑える桃姫の口元に濡れた手ぬぐいを差し出した。


「お水です、飲んでください……桃姫様」

「はぁっ……はぁっ……はぁっ……!」


 雉猿狗は桃姫の小さな顎を伸ばした左手の細い指で支えて少しだけ上を向けると、右手でゆっくりと手ぬぐいを絞って水をぽたぽたと口内に垂らす。

 桃姫は舌の上に乗った水を自然と飲み下し、昨晩から一滴も水分を取っていなかった乾ききった体に染み渡るように吸収されていった。


「……ん、ごく……ん……」


 桃姫は喉を鳴らしながら、水滴が落ちなくなるまで水を飲み続け、雉猿狗も最後の一滴まで右手で握った手ぬぐいを絞り切った。


「……はぁ……はあ……」


 水分を補給した桃姫の呼吸は段々と落ち着きを取り戻し、雉猿狗もほっと胸を撫で下ろした。そして、湿った手ぬぐいでおもむろに桃姫の顔を優しく拭い始めた雉猿狗。

 目を閉じた桃姫は雉猿狗にされるがまま、黙って汗と土とに汚れた顔を差し出して雉猿狗に拭かれ続けた。


「……鳥居が怖い、ですか?」


 一通り綺麗になった桃姫の顔から手ぬぐいを離した雉猿狗が桃姫に言った。桃姫は静かに頷く。そして、口を開いた。


「ここから先で、嫌なことが起きたから……」


 桃姫は目を閉じたまま言うと、それを聞いた雉猿狗は、桃姫の左手を自身の右手で握った。


「……っ」


 ハッとして思わず濃桃色の瞳を見開いた桃姫は、雉猿狗の目鼻立ちの整った美しい顔を見た。


「この手……」


 桃姫は呟くように言うと、雉猿狗は凛とした声で告げる。


「──雉猿狗と一緒なら、問題ありません」


 雉猿狗はそう宣言して颯爽と歩き出すと、雉猿狗の手に引っ張られるようにして桃姫は赤い鳥居へと歩を進めていく。


 ──この手……。


 桃姫は雉猿狗と固く結ばれた手のひら同士に生じた感覚、その太陽の日差しのような熱を感じながら、赤い鳥居に向かって歩いていき、そして、2人並んで赤い鳥居をくぐり抜けた。

 雉猿狗と桃姫は、そのまま峠道を進んでいく、太陽が沈んで夕焼け空は終わり、月が登って夜がやってくるという時間になって、雉猿狗と桃姫は三獣の祠の前に辿り着いた。


「…………」


 三獣の祠の前、それは、昨晩おつると別れた場所でもある。しかし、今この状況において桃姫には全く別の意味をもたらす場所となった。


「……眠る桃姫様を御自宅に運び、着替えさせてから布団に寝かせたあと──私は、御館様の亡骸をこの場所に運びました」


 三獣の祠の前には、切断された右肩がくっつけられ、その上から白い死に装束を着せられた桃太郎の亡骸が横たわっていた。

 桃太郎は胸の上で両手のひらを合わせて合掌しており、目を見開いていた死に顔は、まぶたが閉じられて穏やかに見える顔つきをしていた。

 そして、その頭上には、桃源郷と桃月が収められた白鞘が2つ並べられて置かれていた。


「──父上……」


 桃姫は静かに呟くと、月明かりに照らされる桃太郎の亡骸にゆっくりとその身を寄せた。その光景を見ながら雉猿狗がとても穏やかに話し出した。


「……御館様は、鬼退治が終わって村に帰ると、すぐに私たち三獣を手厚く供養し、この祠を建立してくださりました」


 雉猿狗は心の底から嬉しそうに微笑むと、石造りの白い祠の開かれた格子扉の中を覗いた。その奥、榊に挟まれた小さな社に立てかけられていた翡翠で創られた勾玉、三つ結びの摩訶魂は消えていた。

 雉猿狗はそれをちらりと確認すると、香炉を囲む手前の骨壷に目をやった。


「桃姫様……御存知でしたか? この骨壷の絵は、御館様が私たちのことを想いながら、御自分で描いてくださったのですよ」


 雉猿狗は、小さな青白い3つの骨壷に藍色の顔料でそれぞれ描かれた犬、猿、雉の三獣の絵を微笑みながら眺めた。


「……御館様の強い祈りは、天界にいる私たちの元まで届きました……最初の10年間の御館様の祈りは、私たち三獣に対する感謝の祈りでした」


 雉猿狗は満ち足りたような声でそう言って、開かれた格子扉を両手でゆっくりと閉じた。


「ですが、そのあとの10年間の祈りは──」


 雉猿狗は言うと、振り返って桃姫を見た。桃姫は桃太郎の腹部に押し当てていた顔を上げて、雉猿狗の濃翠色の瞳を見つめた。


「──桃姫を護ってください、ただそれだけ」


 雉猿狗は穏やかな笑みを浮かべて桃姫に告げると、桃姫の濃桃色の瞳から涙が溢れ出し、次々とこぼれ落ちて桃太郎の白い死に装束を点々と濡らしていく。


「御館様の長年の祈りは、私をこうして、再び現世に顕現させるほどの強い祈りでした……そして、それは私の願いでもあります」


 雉猿狗は言うと、その場に片ひざをついてしゃがみ込み、桃姫と目線を合わせた。


「──死んででも、私は桃姫様のことを護り抜きます」


 雉猿狗の凛とした眼差しと声音に桃姫は圧倒されながらも、口を開いて呟いた。


「死んだら……護れない」


 桃姫の言葉を聞いて、雉猿狗はハッとして気づくと、コホンと軽く咳払いをしてから再び宣言した。


「──死んでもいい覚悟で、桃姫様をお護り致します」


 雉猿狗は何度見ても美しい凛とした佇まいでそう言うと、桃姫は頷いて答えた。


「……それなら、いいかもしれない」


 その言葉を聞いた雉猿狗は、これ以上ないほどの満面の笑みを見せ、その笑顔に釣られた桃姫も少しだけ笑みを浮かべた。

 悠久の眠りについた桃太郎を前にして、笑顔を見せ合う桃姫と三獣の化身、そんな2人の姿を、黄色く輝く秋の満月が優しく照らし出していた。

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