15.雉猿狗

「──桃姫……知ってる? 悪いことをするとね、こわーいこわーい、地獄、に落っこちちゃうんだよ……?」


 もくもくと湯気を立てる温かな湯船に浸かった桃姫と小夜。小夜は胸に抱き入れた桃姫の桃色の髪の毛を優しく撫でながらそんなことを言った。


「じごく……? じごくってなぁに?」


 初めて聞く言葉に頭をひねりながら尋ねた桃姫は、まだ5歳だった。


「地獄はね、鬼がいる世界のこと……血と肉の焼けるいやーな臭いがして、大事な人が死んじゃってて、悲しさが止まらない世界のこと」

「ええー……やだぁ! ももひめ、じごくにおちたくないよぉ……!」


 小夜のおどろおどろしい地獄の解説を聞いて一気に顔色が悪くなった桃姫は、小夜の顔を見上げて声を上げた。


「そうだよね。なら今まで通り、良い子に暮らしていれば大丈夫。父上と母上に嘘はつかずに、言われたことはちゃんとやって、服も脱ぎっぱなしにしない。わかった?」

「うん……! うん! わかった! だからおねがい、ももひめをじごくにおとさないで……?」


 桃姫は小さな両手を合わせて、懇願するような上目遣いで小夜にお願いをした。


「ちょっと、桃姫……? 母上は地獄に落とす人じゃないよ……?」

「……そうなの?」


 本気で怯えだした桃姫の顔を見て、心苦しくなってきた小夜は、地獄の解説に希望を付け足すことにした。


「うーんと……そうだ。ここでひとつ、桃姫にいいお知らせがあります」

「……へ?」


 小夜が人差し指をピッと口元に出して言うと、地獄を想像して怯える桃姫が小夜に注目した。


「──桃から生まれた! あッ! 桃太郎ぉッ!」

「わっ、わっ」


 小夜は大きな声で見得を切ると、桃姫は驚きと共に歓声を上げた。


「ふふっ、鬼はぜーんぶ父上が退治してくれたでしょ? だから、大丈夫! 桃姫は絶対に地獄には落ちない!」


 小夜は断言するようにそう言うと、桃姫の頭を撫でて満面の笑顔を見せる。それを見た桃姫の表情もぱぁっと花が咲いたように明るくなった。


「そうだっ! ももたろうが! ちちうえが! おにをぜんぶやっつけたんだっ!」

「そうよ! だから桃姫は絶対──に地獄──地獄には──絶──対に──落ち──な──地獄──に──」


 冷たく硬い地面に倒れ伏した桃姫がゆっくりと目を開いた。その瞬間、全身に痛みが走る。視界は光に覆われ、下半分は赤くぼやけていて、ここが一体どこなのか判別が付かなかった。

 そして、否が応でも鼻孔を通って肺の中に押し入ってくる血と肉の焼ける臭いが強烈に桃姫の脳に現実を伝えてきた。


「……う……ううう……」


 桃姫はうめきながら、左手、その次は右手と地面に手をついて、何とか上半身を持ち上げて周囲を確認しようとした。

 吐き気を催すような臭いに続いて、熱気が桃姫の体を襲う。

 時間の経過と共に目の焦点が合わさり、視界が段々と明瞭さを増していくと、光の正体は燃えるやぐらなのだとわかった。

 そしてその下半分に広がっていたのは──桃太郎の亡骸と血溜まりであった。

 それを見た瞬間、気絶するまでに起きた事象が一気に桃姫の脳裏に流れ込んだ来た。


 ──地獄はね、鬼がいる世界のこと。


 鬼蝶の右手の長い黒爪に付着した小夜の黒髪を桃姫の脳が呼び起こす。


 ──血と肉の焼けるいやーな臭いがして。


 桃姫は臓物の焼ける悪臭に堪らず、その場に嘔吐した。


 ──大事な人が死んじゃってて。


 それでも桃姫は顔を上げると、手を左、右と交互に前に出し、這いずるように桃太郎の元へと進む。


 ──悲しさが止まらない世界のこと。


 体から心臓を失った桃太郎は目を見開いたまま沈黙し、最愛の娘がやってきても動くことはない。


 ──父上。


 桃姫は、巌鬼の大太刀に切断された勢いで吹き飛んだ桃太郎の右肩と、その手から離された桃月を見る。


 ──母上。


 桃姫は桃月に向けて這いずって移動すると、その柄を掴んで両手で拾い上げた。


 ──桃姫は。


 そして、上半身を起きあげて正座をすると目を固く閉じて口を開いた。


「──地獄では、生きていけません」


 桃月の銀桃色をした切っ先を自分の喉元に向ける。


「ごめんなさい──」


 桃姫は謝罪と別れの言葉を告げると、自分の白い喉元に向かって一息に突き出した。


「──なりませぬ」


 桃姫の耳元に届いた美しい鈴の音のような凛とした声。

 喉に切っ先が到達する直前で桃月はピタリと止まっていた。


「──なりませぬ、桃姫様」


 その不思議な声はどこからするのか……凛として力強くもあり、しかし慈悲深く優しくもある。

 それは、天界から届いたような不思議な声音であった。


「──死んではなりませぬ、桃姫様」

「…………」


 桃姫は、ゆっくりと目を見開き、その声の正体を確認する。


「……っ」


 桃姫の目に最初に飛び込んできたは、桃月の銀桃色の刃を力強く掴んだ手首に数珠の付いた白い右手。

 その手から刃を辿って奥に目をやると、青白い着物と赤い手甲を着けた左手が見えた。


「──絶対に、死んではなりませぬ、桃姫様」


 耳に届いたあの凛とした慈悲深い不思議な声音を聞きながら、桃姫はゆっくりと視線を上に持ち上げた。


「──私の名は、雉猿狗(ちえこ)。御館様との約束を果たすため、ただいま天界より現世に顕現いたしました」


 濃翠色の瞳をした見目麗しい銀髪の女性が、桃姫の濃桃色の瞳を見つめながら告げる。


「……雉猿狗」


 桃姫がその名を口に漏らすと、雉猿狗は静かに頷いて弥勒菩薩のような慈悲深い微笑みを浮かべた。


「私は、生きていても、いいの……?」


 桃姫が力なく尋ねると、雉猿狗は深く頷いて答えた。


「──桃姫様、どうか、生きてください」


 生存を肯定する雉猿狗のその言葉を聞いた桃姫は目から一筋の涙を流し、桃月の柄から両手を離した。

 それを見た雉猿狗も刃を握っていた右手を降ろすと、桃月を手放して自分の右隣に落とした。


「……ありがとう」


 桃姫は呟くように感謝の言葉を述べると、目を閉じて、ふらっと前方に上半身を倒れ込ませた。

 ハッとした雉猿狗が素早くその場に両膝を突いてしゃがみ込むと、その膝の上に桃姫が倒れ込む。


「──桃姫様……」


 雉猿狗は寝息を立て始めた桃姫の髪を優しく手櫛で撫でて、そして桃太郎の亡骸を見た。


「──御館様の祈り、確かに天界まで届きました。御館様に忠誠を誓う、私たち三獣の元まで確かに届きました」


 雉猿狗は悲しみと喜びが綯い交ぜになった複雑な表情を浮かべると、膝にもたれかかって眠る疲れ果てた桃姫の寝顔を見る。

 たった一晩の間に、桃姫の人生は一変し、そしてそれは、10歳になった桃姫の本当の人生の始まりを意味していた。


「──桃姫様。あなた様が強い女性に育つその日まで、雉猿狗があなた様を必ずや護り抜きます」


 桃姫の吹けば飛ぶような小さくて軽い体を自身の体に抱き寄せた雉猿狗が、濃翠色の眼差しに力を込めて、眠る桃姫の顔を見つめながら凛とした声で誓う。

 雉猿狗のその宣言に呼応したかのように、光り輝く太陽がその姿を地平線の向こう側から現し始めた。

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