14.地獄を見ろ

 巌鬼は目を閉じて低く唸ってから、鬼蝶の方に振り返った。そして、鬼蝶が左腕に抱く桃姫を見やる。


「──鬼蝶……そいつの様子はどうだ」

「ダメね。ずーっと、気を失っているのよ」


 鬼蝶は白目を向いて上を向いたまま沈黙する桃姫の顔を見ながら言った。


「そうか……見て欲しかったんだがな──桃太郎が、父親が死ぬところを……しかたあるまい」


 巌鬼は言うと、やぐらの前からドス、ドスと地面を踏みしめて歩き出した。そして、鬼蝶の前までやってくると鬼蝶が口を開いた。


「ねえ、厳鬼……今日の私、結構頑張ったと思うんだけど……この娘、ご褒美に私が殺してもいいかしら?」


 鬼蝶がおねだりするように巌鬼を艶っぽい視線で見上げながら言うと、巌鬼は気絶する桃姫の顔を見てから答えた。


「……構わんが」

「ありがとう……厳鬼は優しい子に育ったわね」


 巌鬼の許可を得て、鬼蝶は微笑みながら感謝の言葉を述べると、気絶した桃姫の首を左手でグッと掴んで眼前に突き出した。


「恐怖に怯える可愛いお顔が拝めないのは残念だけれど……ふふふっ……この温かく、柔らかい血肉を切り裂く感触──存分に私に楽しませて頂戴ね?」


 鬼蝶は細い目を見開き、鬼の文字が浮かんだ黄色い眼球を顕にすると、御馳走を目の前にした行儀の悪い子供のように舌舐めずりをした。

 そして、鋭利な黒爪が長く伸びた右腕を桃姫の喉元に向けて大きく振り上げる。


「さようなら、英雄桃太郎の娘──」


 そう別れを告げて、勢い良く右腕を振り下ろした瞬間、ガシッとその白い手首が紫肌の鬼の手によって掴まれる。


「──待て」


 巌鬼が低い声で言う。左手で鬼蝶の細い右手首を掴んだまま、鬼蝶による桃姫の殺害を制止した。


「何よ……」

「──こいつは、生かす」

「……は?」


 鬼蝶が明らかに苛立ちながら言うと、巌鬼は静かに呼吸する桃姫の顔を見ながら言った。


「──こいつは、桃太郎が死ぬところを見ていない、母親が死ぬところを見ていない」


 そう言って、鬼蝶の腕から手を離すと、鬼蝶は掴まれた自分の手首を左手で撫でた。


「──まだ、俺が見た地獄を見ていない」


 巌鬼は険しい表情で言うと、興が削がれた鬼蝶の黄色く細められた目を見ていった。


「──生かして、俺と同じ地獄を見せる──それから、殺す」

「え……じゃあ、私の楽しみは? ねぇ、突然取り上げられた私の楽しみはどうなるのよ……!?」


 一方的に告げる巌鬼に対して、納得のいかない鬼蝶は声を荒らげて抗議した。

 それに対して巌鬼は、鬼蝶にグイッと顔を近づけると、鬼の睨みを効かせながら低い声で唸るように告げた。


「──いいな?」


 巌鬼の鬼の睨みは、同じ鬼である鬼蝶すらも心に恐怖を抱かせる凄まじいまでの威圧感があった。

 積年の恨みを発露させ、見事に桃太郎退治を果たした巌鬼は明らかに鬼としての格が上がったように鬼蝶は感じ取っていた。


「……わかったから……そんな怖い顔で私のこと睨まないでよ、厳ちゃん……」


 怯えた鬼蝶が懇願するように言うと、巌鬼は鬼の睨みを解いて鬼蝶から顔を離した。

 そして、鬼蝶は桃姫の首を掴んでいた左手を離して、地面に桃姫を倒れ込ませた。

 鬼蝶はその姿を名残惜しそうに見るが、気を取り直して顔を上げた。


「──目的は果たした。鬼ヶ島に帰還する。村に散らばった鬼人兵を招集しろ」

「わかったわ」


 巌鬼の指示を受けた鬼蝶は袖から黄金の篠笛をスッと取り出すと、美しくも物悲しい旋律を奏でて村中の鬼人の耳に届けた。

 次々と燃えるやぐらに集まってくる鬼人の中には金品を抱えている者もいれば、気絶した村人を担いでいる者もいた。


「108人の鬼人、全員無事みたいね」

「……案外、役に立つのかもしれんな」


 鬼蝶が集結した鬼人の軍勢を見回しながらそう言うと、巌鬼も感心したように言葉にした。

 そして、鬼蝶はおもむろに紫色の着物の胸元に左手に差し入れると、赤い呪文が描かれた黒い呪札を一枚だけピッと取り出した。


「──オン──マユラギ──ランテイ──ソワカ」

 鬼蝶がマントラを呟きながら、手にした呪札を空中に放り投げたその次の瞬間、中を舞う呪札を中心にした空間が突如として蜃気楼のように歪むと、ググググ……と縦横に拡がって伸び、ゆらゆらと揺れる空間を作り出した。


「──敵討ち、上手く行ったようだのう」


 向こう側の空間からこちら側を覗き込んだ役小角が満面の笑みでそう言うと、手をこちら側に伸ばしてピッと呪札を持っていって懐に入れた。

 その瞬間、役小角はちらりと燃えるやぐらの前に倒れた桃太郎と桃姫の姿を見た。そのわずか一瞬だけ役小角の笑顔は解かれたが、すぐさま元の笑みが再現された。


「そこをどけ、役小角」


 巌鬼が役小角に向かって言うと役小角は慌てたように開かれた空間から身を退けた。そして、向こう側の空間、鬼ノ城の広場が視認できるようになった。

 大きな体を丸めるようにしながら空間に入り込もうとした巌鬼は、ちらりと桃姫を一瞥すると。


「──地獄を見ろ、桃太郎の娘」


 そう低い声で呟いてから門をくぐり、広場に姿を現す。

 そして、その後に続くように次々と鬼人たちが空間を通って広場に転移すると、おつるを担いだ鬼人を鬼蝶は見た。


「あら、あなた起きてるじゃない」

「……っ」


 鬼蝶はおつるの顔を伺い見ると、おつるはフッと顔を下に向けた。


「ふふふ……人間ではあなただけが桃太郎退治の生き証人ね」


 鬼蝶が笑みを浮かべながら言うと、おつるを担いだ鬼人が空間を通って広場に転移し、そして最後に鬼蝶が空間をまたいだ。

 広場の中から見た空間は大量の呪札が繋がって描いた円によって呪札門を構成していた。


「温羅巌鬼と鬼人が108人、そして私で最後……閉じてくださいませ、行者様」

「うむ」


 鬼蝶が呪札門の隣に立っていた役小角に報告すると、役小角は頷いて黄金の錫杖の金輪をチリンと鳴らした。


「──オン──マユラギ──ランテイ──ソワカ」


 役小角のマントラによって呪札門は崩れ落ちるようにバラバラと崩壊した。


「ねぇ、行者様」


 それを見届けた鬼蝶が役小角に声を掛ける。


「門を鬼ヶ島に繋げるだけじゃなくて、新しい門を開く呪術も教えて頂けないかしら……? そうすれば、行者様の負担を減らせると思うのだけれど……」


 鬼蝶が言うと、役小角は軽く笑ってから口を開いた。


「くかかか……わしが簡単そうにやってるように見えるか? だとしたら、大間違いだ。これは仙級の呪術……実を言うと、わしも習得までに400年ほど掛かった」

「あら……そんなに、ですか」


 役小角の言葉に鬼蝶は驚きを隠さずに左手で口元を覆った。


「下手に用いれば、転移した瞬間に体が細切れになる……まあ、わしのような専門家に任せたほうがよろしい」

「そうですね……そうしましょう」


 役小角の言葉を聞いて、鬼蝶は納得したように口にした。


「しかしだの。鬼蝶殿に呪術の素質があるのは確か。さすがは、美濃のマムシの娘と言ったところ。育ちが良くて教養がある」

「ふふふ……おだてても何も出ませんよ?」


 笑みを浮かべた役小角の言葉に鬼蝶は笑みを浮かべながら答えた。


「おい。馴れ合ってるところ悪いが、俺はもう寝させてもらう。こいつらはお前らで片付けておけ」


 巌鬼は会話する役小角と鬼蝶に対して声を上げると、横目で鬼人が村から奪ってきた金品と村人を見た。


「わかりました。今日はお疲れ様でした──お休みなさい、巌ちゃん」


 鬼蝶が微笑みながらうやうやしく言うと、巌鬼はカッと鬼の形相を浮かべた。


「それをやめろッ! 二度と、俺を子供扱いするな……鬼蝶ッ!」

「あら……怖い怖い」


 鬼蝶が静かに言うと、そのやり取りを見た役小角は笑いながら声を出した。


「くかかかッ、なんじゃ温羅坊。おぬし、桃太郎を殺して随分と鬼らしくなったではないか。一丁前に鬼の睨みなど効かせおってからに」

「その温羅坊と呼ぶのもやめろ……!」


 役小角のおちょくるような言葉に対して、温羅の息子、巌鬼が憤怒の形相で低く言う。


「おぬしはいくつになろうが、どれだけデカくなろうが、なにを為そうが、わしにとっては温羅坊だ。残念だったのう」


 しかし飄々とした役小角は満面の笑みを浮かべながらそう言ってのけると、巌鬼はこれ以上付き合いきれないとばかりにフンッと強く鼻息を吐いてから巨体をひるがえして、鬼ノ城の大扉へとドシ、ドシ歩き去っていった。


「行者様、今まではあんなに怒らなかったのに、最近になって巌ちゃんと呼ばれるのを巌鬼が本気で嫌がり出したのは何故なのでしょうか……?」


 鬼蝶が役小角のそばによって巌鬼に聞こえないように小声で尋ねる。


「うーん……それはのう……そう! "思春鬼"だからだ……! くかかかかかかッッ!!」

「……は? ……はあ」


 こりゃ傑作とばかりに大笑いする役小角に対して、鬼蝶は冷めた声で返すと、鬼ノ城の大扉を開けて城内に入っていく巌鬼の大きな背中を見送った。

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