12.小夜

 30分前、桃姫は小夜に連れられて村役場の隣に設けられた炊事場のある小屋にやって来ていた。


「はやく~、お祭り始まっちゃうよ~。父上がやぐらに出てきちゃうよ~」


 桃姫は足を踏み鳴らしながら言うと、小夜はてきぱきと調理の作業をしながら桃姫に背中を向けて口を開いた。


「でも一人で行かせたら人混みの中で迷子になっちゃうでしょ? 母上と一緒じゃなきゃお祭りに行っちゃダメです」


 小夜はそう言うと、隣にやってきた女性に焼き魚が入った桶を渡した。


「これはすだちを軽く絞るだけでいいから、食堂に運んでください」

「はい。手際の良い小夜さんが居て本当に助かります」


 短く太い眉毛をした女性は微笑みながら言うと小夜も微笑みながら会釈を返した。


「おつるちゃんの母上、おつるちゃんにそっくりだねえー」

「へへへ。そおー?」


 桃姫がその様子を見ながら言うと、塩が入った樽の上に座ったおつるが嬉しそうに照れながら笑った。


「はい。それじゃあ、二人にもお仕事があります」


 小夜が前かけで濡れた手を拭いながら言うと、調理台の上に置かれた9個の小鉢が乗せられた2枚のお盆を目線で示した。


「このお盆を食堂まで運んでください。た、だ、し、絶対に落とさないように注意してね?」


 小夜が人差し指を前に突き出しながら厳重に言うと、桃姫とおつるは顔を見合わせて頷きあった。


「はい!」

「はい!」


 そして、2人は小夜の顔を見ながら大きな声を上げて返事をすると、調理台の上のお盆に両手を伸ばして慎重に抱え持った。

 小鉢の中には各種様々な漬物が入っており、お盆を運ぶ際の小鉢同士がぶつかり合うカタカタという音を立てながらも、桃姫を先頭にしてゆっくりと煙突が伸びる炊事場の小屋から食堂のある村役場の建物へと移動していく。

 おつるが短く太い眉を寄せながら慎重に桃姫の後ろを歩いていると、桃姫の背中ががぴたりと止まった。


「も、桃姫ちゃん! 急に止まらないでえ……!」


 おつるが何とか小鉢を落とさずに足を止めて必死に抗議すると、桃姫が炊事場の小屋と村役場の間から見える中央広場のやぐらを見た。


「……父上だ」


 桃姫がやぐらの上に立つ桃太郎の横顔を見上げながら嬉しそうに呟いた。桃太郎は恥ずかしそうに手を上げると一斉に村人たちの歓声が上がって、そして──。


「──桃姫! 桃姫ッ!」


 小夜が桃姫の体をゆさぶりながら叫ぶ。桃姫は正気を取り戻すと、いつの間にか手落としていたお盆を見下ろした。乗せていた9個の小鉢の全てがひっくり返って、漬物が地面に散乱している。


「……あ、母上……ごめんなさい……」


 放心状態の桃姫が静かに言うと、小夜は桃姫の手を力強く掴んだ。


「おつるちゃん! おつるちゃんも来なさい!」


 小夜は、やぐらを見ていて同じくお盆を落として呆然としていたおつるに叫ぶように呼びかけるとその手を握りしめた。


「あの……小夜様……私のおっかあが……」


 おつるは食堂の方にふらふらと歩き出そうとしたのを小夜が引っ張って止めた。


「待ちなさい! 今はどこかに逃げないと……!」


 小夜が逃げられる場所はどこかないかと探していると食堂の扉がバン! と勢いよく開かれて、中からおつるの母親が這い出してきた。


「おっかあ……!」


 その姿を見たおつるは安堵の表情を浮かべて声を上げるが、おつるの母親は様子がおかしかった。


「う、ウウウ……おつる……逃げなさいっ……逃げ──」


 そう言って倒れ込んだ橙色の着物を着たおつるの母親の背中は赤く染まっており、地面に血溜まりを作り始めた。


「……おっかぁ……?」


 おつるが何が起きてるのか理解が追いつかずに声を漏らすと、開かれた食堂の扉の中から青黒い肌をした赤い眼の鬼人が現れた。

 額からいびつな細長い2本角を生やした黒い軽装鎧の鬼人は、シューシューと異様な呼吸音を口から出すと、手に持った槍の先端についた血を振り払ってから小夜の方を見た。


「……お……鬼……!」


 小夜は声を震わせながら言うと、桃姫とおつるの手を強く握り直した。


「走るわよ……! 二人とも! ここから逃げるのッ!」


 小夜は叫ぶと、松明が引火して燃え出したやぐらの残骸とは反対方向に向けて二人の手を引っ張りながら走り出した。


「があああ! 誰か! 誰かぁぁああ!」

「母上……! あの人!」


 刀を持った鬼人に襲われている村人を目にした桃姫が小夜を呼び止めるも、小夜はちらりと横目でそれを見ただけで構わず走り続けた。


「小夜様! 桃姫様!」


 小夜は無意識に自宅の方角に向かって走っていたらしく、家の前で右往左往している向かいのおばさんが声をかけてきたことで足を止めた。


「おばさん……! 鬼が出た!」

「わかっているわよ! でも、どうすれば……そうだわ、桃太郎様! 桃太郎様が何とかしてくれるわよね!」


 桃姫が言うと、向かいのおばさんは名案だとばかりに叫んだ。


「そうだとしても、どこかに避難したほうがいいです! 村の外に!」


 小夜が言うと、向かいのおばさんは突然笑顔を浮かべて大声で言った。


「なにを言ってるのよ小夜様! あなた、桃太郎様の奥方なのに、桃太郎様を信用してないの!? この村には桃太郎様がいる! だから大丈夫なのよ!」


 向かいのおばさんはそう言うと、自分の家の扉を開けて、中に入っていこうとする。


「ダメです! 逃げないと!」


 小夜は言うが、向かいのおばさんは振り返って一言だけ返した。


「私は桃太郎様を信じるわよ」


 そして、扉を閉じる。小夜は顔を伏せて静かに首を横に振った。そして、再び桃姫とおつるの手を力強く握りしめた。


「村を出なきゃダメ……! あの人が助けてくれるまで村の外に避難しないといけない!」


 小夜はそう決心すると、二人の手を引いて村の表門を目指して走り出す。しかし、すぐにそれは間違いだとわかった。

 大きな表門は今いる通りからでも目立っているが、そこから村の外に逃げようと集まった村人を待ち構えるいる鬼人の群れがいたのだ。

 30人から40人。それだけの数の鬼人が表門の前を塞いで村人を襲撃していた。


「表門は鬼に塞がれてる……裏門……そうだ、裏手の山に行きましょう!」


 小夜が言うと、桃姫が小夜の手を強く引っぱって声を上げた。


「山はダメ! 山は……!」


 桃姫は未だに脳裏にこびり付いて消えない満面の笑みを浮かべる役小角と灰色肌の二体の大鬼の姿を思い浮かべながら言った。


「……どうして? ……きゃあッ!」


 小夜は裏門に向かって走りながら桃姫に言い掛けると、突然横合いから襲ってきた熱風に悲鳴を上げた。


「おうちが、燃えてる……」

「あ! おばさんの家が!」


 おつるが呆然と声に漏らす。次いで、桃姫が声を上げた。松明を掲げた鬼人が向かいのおばさんの家屋に火を付けているのを目撃したのだ。

 燃え出した木造の家屋は秋風に煽られて勢いよく火力を増すと、次々と隣の住宅に引火して巨大化した炎を天高く巻き上げていった。


「燃えてる……村が、燃えてる……」


 おつるが黒い瞳に赤い炎を照らし出しながら呟くと、小夜はやはり山に逃げるしかないと結論を出した。


「山に行くわ……! ここにいたら、燃え尽きてしまう!」


 小夜の言葉を聞いた桃姫は山は嫌だと思いながらも、とは言え他に避難できるような場所を思いつかなかった。

 そして、炎に追い立てられるようにして裏門まで辿り着くと門の前に居た2人の鬼人が裏門に近づいた村人を発見して追いかけているところに出くわした。


「今のうちよッ……!」


 小夜は他に鬼人がいないことを確認すると、桃姫とおつるの手を引いて裏門をくぐった。そのままの勢いで山のふもとの赤い鳥居まで来ると、桃姫とおつるの手を繋ぎながら通り抜ける。

 桃姫は昼間に桃太郎と手を繋いで鳥居を通ったことをふと思い出し、それはまるで遠い過去の出来事のように感じた。


「──どこにも逃げ場なんてないわよ」


 山に入っていく三人の背中を見ながら呟いた、一つのしなやかな人影があった。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 三獣の祠の前まで来た三人は、その峠道の地面に座り込んでそれぞれ荒くなった呼吸を繰り返した。


「ここまで来れば……もう……」


 小夜がドッと額から流れ出した汗を着物の袖で拭いながら言うと、おつるは地面に伏せるように倒れ込んだ。


「……おつるちゃん……」


 桃姫が心配そうに声をかけると、おつるは焦点の合わない黒い瞳を開きながら何かを呟いていた。

 桃姫は口の動きを見て、それがおっかあと言っているのだと気づいた。桃姫は何も言えずに小夜の方を向いて口を開いた。


「村の鬼は……父上が、何とかしてくれる、よね……?」


 桃姫が小夜に尋ねるように言うと小夜は静かに、しかし確信を持って頷いた。


「大丈夫……絶対に大丈夫……」


 小夜は地面に仰向けになると、星空を見ながら自分に言い聞かせるようにそう言った。


「──……一体全体、何が大丈夫なのかしら」


 突如として響き渡る背筋が凍りつくような冷たい声。小夜、桃姫、おつるの三人はその声を聞いて昆虫標本の如く、針で地面に突き刺されたように動けなくなった。


「──あなたたちの誇らしくて格好いい桃太郎様なら……死にかけてるわよ」


 その言葉を聞いて、小夜は目を見開いて首を横に動かした。

 そして、赤い鳥居の方向から、黒い影がゆっくりと三獣の祠の地点まで歩いてくるのを見た。

 丁度、木の作り出す影によって姿が伺えなかった状態から移動して、月明かりに照らされたその姿が三人の前に顕になった。


「──申し訳ないんだけど、誰一人として逃さないように言われてるの」


 蒼いアゲハ蝶が描かれた仕立ての良い紫色の着物を着ながら、妖艶な雰囲気を漂わせたる鬼蝶が現れると、当然のように三人は左側の額から伸びる赤い一本角に注目した。


「……鬼……なんですね」


 重圧に押されながらも何とか上半身を起こした小夜が口にすると、鬼蝶は笑みを浮かべながら言った。


「ええ……鬼。それも……とーっても悪い、鬼。ふふふ……」


 鬼蝶は愉快そうにそう言うと、金色の篠笛を袖の中からスッと取り出して見せた。


「この笛はね。鬼人を操作出来る笛なの。この笛の音を聞かせれば、どこに行けとか、なにをやれとか……あるいは燃やせとか……命令し放題なのよ」


 鬼蝶は言ってから、篠笛の歌口に唇の先端を触れさせた。そして白く長い指を動かして指孔を塞ぎ、甲高くも美しい笛の音色を森の中に響き渡らせた。

 恐ろしさは感じない、ただ物悲しさのある笛の音色だった。


「さあ……鬼人がやってきますよ。30秒? 1分? 早く逃げたほうがいいんじゃないかしら?」


 鬼蝶がいたずらっぽく言うと、小夜はふらふらと立ち上がって桃姫とおつるを見た。桃姫も立ち上がって逃げる意志を見せたが、おつるのほうは倒れたままだった。


「その娘は、もう逃げる気力がないみたいね。まぁ、それも人生の選択肢の一つ。彼女の自由を尊重してあげたほうがいいと思うわ」


 鬼蝶は他人事のように言ってのけると、桃姫はおつるのそばにしゃがみこんでおつるの腕を掴んだ。


「おつるちゃん、逃げよう……鬼が来るから……逃げないと……」


 桃姫は何度もおつるの腕を引っ張るが、まるで死体を扱っているかのように力がこもっていなかった。


「はァい、30秒経ちました。さぁ、さぁ……早く逃げないと襲われちゃいますよ?」


 鬼蝶の言葉に歯噛みした小夜は桃姫の隣まで歩くとその腕を掴んだ。


「……桃姫、行きましょう」

「え……? 母上……おつるちゃんが」

「いいから! 逃げるわよ!」


 小夜は力づくでしゃがんでいた桃姫を立ち上がらせると桃姫の手を握りしめて何も言わずに歩き出した。


「ま、待って……母上……おつるちゃん……」

「…………」


 困惑する桃姫に対して、小夜は沈黙を貫くと、段々と歩きから小走りになっていく。桃姫もそれにつられるように小走りになると、どんどんおつるとの距離が離れていった。


「ふふふっ、いいわねェ……! これこそが母性よね……」


 鬼蝶は意地悪い笑みを浮かべながら、三獣の祠の前から走り去る小夜と桃姫の背中を見た。そして、赤い鳥居の方角から4人の鬼人がこちらに向かって小走りでやってくる。


「……あなたがた、本気で走ってますか、それ……」


 鬼蝶は不満げに鬼人たちに対して言うと、鬼人たちは互いに顔を見合わせた。


「その娘、おつるちゃん。鬼ヶ島に連れて帰ります。丁重に扱いなさい」


 鬼蝶が金色の篠笛で力なく倒れ伏したままのおつるを示すと、鬼人の1人が近づいていき、おつるの小さな体を肩に担いだ。


「おつるちゃん……!」


 桃姫は振り返ってその光景を見ながら叫ぶ。おつるは鬼人に担がれた状態で顔を上げると、桃姫の濃桃色の瞳と自身の黒い瞳とを無言で交差させた。


「おつるちゃああん……!」


 桃姫が叫びながら、それでもおつるから遠ざかるように走っていく。小夜は前だけを見て、ただ愛娘の手を握りしめて一心不乱に引っ張って走り続けた。


「さァてと……そろそろ茶番劇も終わりにしましょうか」


 鬼蝶は冷めた口調でそう言うと。金の篠笛を口元に運び、先程とは異なる笛の音色を鳴らし始めた。

 その音色を耳にした、おつるを担いでいない3人の鬼人が体をガクガクと震わせ始めると、おもむろに両手を地面について四つん這いになり、遠くに消えていく小夜と桃姫の背中を見た。


「──ほら、行け」


 鬼蝶が鬼人に対して吐き捨てるように命令してから、一層甲高い笛の音を鳴らした。


「シュアアアアアアッッ!!」


 3人の鬼人は口から息を吐き出すと、一斉に手と足を使って走り出した。

 小夜と桃姫が後ろを振り返り、誰も追ってきてないと思って走る速度を落としたそのとき、3人の犬になった鬼人の赤い眼光を遠くの暗闇の中に目撃した。


「なにあれ……!?」

「……桃姫……!」


 急速に近づいてくる赤い眼光を見ながら桃姫が声を上げると、小夜は桃姫の名前を呼びながら手を引っ張って自身の胸に抱き入れた。


「……母上……?」


 夜の峠道で抱きしめ合う母娘。

 桃姫は肩を上下させて息をしながら汗をかいた小夜の濃い匂いを嗅いだ。そして、それは小夜も同じで、桃姫の柔らかく甘い髪の匂いを鼻を擦り付けてこれでもかとたっぷり自分の肺の中に入れた。

 そして、小夜は桃姫の額に自分の額をくっつけると呟くように言った。


「──桃姫のこと、ずっと、見護ってるからね」

「──えっ……?」


 桃姫が声を漏らすと、小夜は桃姫の体をトンッと突き飛ばした。桃姫の体は山のゆるく傾斜した斜面に向かって飛び出すと、桃姫の視線と小夜の視線が一瞬だけ交差し、小夜はすぐに峠道を走り出した。

 そして次の瞬間には、山の斜面を転げ落ちていく桃姫。季節は秋の終わり、枯れ草を押し潰し、枯れ枝を折りながら全身を回転させて落ちていった桃姫は大木に背中からぶつかって停止した。


「う……うう……」


 桃姫は口に入った枯れ葉を吐き出しながらよろよろと立ち上がる。お気に入りの萌黄色の着物はみすぼらしいほどにボロボロになり、桃色の髪の毛もぼさぼさになっていた。


「……母上……」


 桃姫は斜面の上方を見上げながら言う。桃姫は小夜が峠道を走り出した瞬間にわかった。自分を迫り来る鬼人から逃してくれたのだと。


「……母上ええ……」


 桃姫は大粒の涙を目からこぼし始めた。目からこぼれ、頬を伝って顎の先端からぼたぼたと落ちる大粒の涙が大木の幹に生えたきのこの上に降り掛かった。


「う……うううう……なんでええ……なにが起きてるのおお……」


 桃姫は泣きながらとぼとぼと歩き出した。すると、暗かった木々の中が急にパッと明るくなった。桃姫が何事かとあたりを見回すと、それは丁度、村を見下ろせる位置にある開けた空間だった。

 村は全体が轟々と燃え上がっており、微かに聞こえる悲鳴、怒声、絶叫……桃姫は山の中腹から破壊されていく自分の生まれ育った村を見た。


「……うっ……うっううう……!」


 どこがどういう場所か、どこに誰が住んでいるか、どこの食べ物屋さんで父上や母上と一緒に笑いながら食事をしたか……炎に飲み込まれていく村の遠景を見ながら桃姫は村での日々を思い出して、更に大粒の涙をこぼした。


「──悲しいわねェ、生きるって」


 桃姫の背後から響いた声。涙をこぼし続ける桃姫の肩にポンと優しく白く細い手が置かれる。


「──信長様がこの光景を見られたら、なんておっしゃられたのかしら」


 桃姫の肩に置かれた手は白い指にも関わらず不気味なほど黒い爪をしていた。


「──やっぱり……"見事"……かしらね」


 笑顔を浮かべた鬼蝶が黄色い眼球を見開くと、燃えるように爛々と輝く"鬼"の文字が中央に浮かび上がっていた。

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