9.謎の老人

「ぽーん、ぽーん、ぽーん」


 祠の前で練習を開始してから一時間が経ち、桃姫の蹴鞠遊びは高度化していた。

 蹴鞠を落とさずに連続して蹴り上げて浮かすだけでは飽き足らず、どれだけ高く天まで蹴鞠を飛躍させられるかへの挑戦が始まっていた。


「ぽーん、ぽぉーん、ぽぉおーん」


 桃姫は素足に赤い鼻緒の雪駄を履きながらも器用に蹴鞠を蹴り上げる。

 着実に滞空時間が伸びていった蹴鞠は、一帯の木々の背丈と同じ高さまで上がっていた。


「ぽぉおおーん、ぽぉおおおーん」


 木々の間に広がった青空。千切れ雲がぽつぽつと浮かんだ透き通るような青空に、赤い下地に金色の絹糸で花柄が刺繍された蹴鞠は、気持ちよさそうにゆったりと飛んでいる。

 祠の前から先に行かないという桃太郎との約束を守りつつ、桃姫が空飛ぶ蹴鞠を見て気持ちよくなっていた、正にそのときであった。


「ピーヒョロロロオー」


 一羽の大きなトンビが蹴鞠目掛けて鳴きながら滑空すると、足爪でムンズと赤い蹴鞠を掴み取んで飛翔していった。


「ええええええええっっ!!」


 先程まで蹴鞠を見てぽーっとしていた桃姫は、まさかの事態に絶叫すると、思わずトンビを追いかけて走り出した。


「返してええええっっ! 母上から貰った大事な蹴鞠ぃぃいいい!」


 桃姫は両手を空を征くトンビに向かって突き出すと、なりふり構わず絶叫しながら走り、あっという間に祠を通り過ぎて山の奥へと入っていく。


「ピーヒョロロロロオー」


 トンビは大声を出しながら追いかけてくる桃姫の存在に気づいているのかいないのか、気持ちよさそうな鳴き声を上げながら木々の上を羽ばたいて飛翔する。


「返せええええええっっ!!」


 桃姫は顔を真っ赤にしながら叫び、履いている雪駄の片方を脱いで掴むとトンビに向かって全力で放り投げた。

 しかし、10歳の女児の腕力で投げられた雪駄は、トンビの高さまで届くこともなく、ただ空中に小さな弧を描くだけで終わった。

 カラカラと乾いた音を立てながら峠道に落下した雪駄を見ながら桃姫は両手を地面について泣き出した。


「あああー! なんでええー。あああー!」


 桃姫は先程までの楽しかった1時間を反転して凝縮したかのような強い悲しみに襲われて盛大に泣いた。


「いやだー、あああー! なんでえー!」


 人目の無い山奥で人目を気にせず桃姫が泣いていると、一人の老人が歩み寄ってきた。


「──お嬢ちゃん。もう泣かなくてよろしい」

「……え」


 桃姫がふっと顔を上げて突然の声の主を見ると、その老人は満面の笑みを浮かべながら右手に黄金の錫杖、そして左手に赤い蹴鞠を持っていた。


「あ……え……」


 桃姫が困惑しながら老人が手に持つ赤い蹴鞠を凝視する。それは間違いなく、トンビがかっさらって行った桃姫の蹴鞠であった。


「──ほれ」


 笑顔を浮かべ続ける老人が赤い蹴鞠を桃姫に向けて転がすように投げた。

 桃姫の前に転がってきた蹴鞠を桃姫は両手で大事に掴むと、今度は悲しみではなく感動の涙を流しながらよろよろと立ち上がった。


「え……あ……お、お爺さん……」


 桃姫は老人を蹴鞠越しに拝むように見ながら言うと、老人は少し歩き、落ちていた雪駄を拾い上げた。


「大事なものなのだろ? 失くさないようにせんといかんな。くかかかか」


 そう言って笑った老人は片方裸足になっている桃姫の前に足を通せる向きで雪駄をそっと置く。


「あの……あ……ありがとうございます」


 桃姫は頭を深々と下げて、素足を雪駄に差し入れて履いた。


「構わんさ……人に感謝されることには慣れておる」

「……ありがとうございました」


 老人が笑みを浮かべながら静かに言うと、その老人の言葉に対して何か得も言われぬ不気味さを感じ取った桃姫は自然と涙が止まった。

 そして、再度の礼を言いながら御辞儀をして足早に来た道を戻ろうとして振り返った瞬間だった。

 桃姫は岩のような硬い物体に思い切りぶつかってその衝撃でその場に尻餅をつく。


「う……あっ」


 桃姫はぶつかった岩を見上げて小さく声を漏らした。それは岩ではなく、赤い梵字が書かれた白い布を顔に付けた大男だった。

 灰色の肌をした大男はぜーぜーと呼吸を荒くして肩を揺らしている。そして桃姫はその大男の額から二本の角が伸びているのを見た。


「な……なに……」


 と、桃姫が引きつった顔で振り返って老人に助けを求めると、満面の笑みを浮かべる老人の後ろにもう一体別の灰色肌の大男が立っていた。

 こちらは白い布に書かれている梵字が異なっている上に緑色をしている、更には額から伸びる角の本数も一本であった。


「ああ……怖がらなくていいんだよ。こいつらは大人しいからね。ちょっかいを出さなければ何もしないよ」


 老人は穏やかな声音でそう言うと、桃姫が尻餅をついた拍子に手落として老人の高下駄にぶつかって止まった赤い蹴鞠を拾い上げた。


「今、失くさないほうがいいと言ったばかりだろ、お嬢ちゃん?」


 老人が赤い蹴鞠を差し出し、桃姫に近づいてくる。


「いや……」


 桃姫が老人を拒絶して体を強張らせた瞬間、老人が蹴鞠を手放して桃姫の髪を一房掴み取った。


「桃色の髪の毛……桃の匂い……そうかい、そうかい。お嬢ちゃんが……なあ」

「はな、してっ!」

「おっと……」


 細い目をカッと見開いて鼻を鳴らした老人に対して、桃姫は両手で突き飛ばすように押すと、何とか立ち上がった。

 そして老人に怯えた表情を見せたあとに背を向けると立ちふさがる岩のような大男を見上げた。大男は白い布の隙間から黄色い眼球をギョロリと桃姫に向ける。


「あの……あの……!」

「手を出すな。行かせてやれ」


 老人が命令するように大男に向けて言うと、大男は黙って桃姫の前から移動して道を開けた。

 桃姫はその瞬間に脱兎のごとく走り出して、老人と二人の大男から距離を取ると一瞬だけ振り返って、そしてまた走り出した。


「よもや、こんな山奥で桃の娘に会うとは……いやはや……やはり、桃とわしは深い因縁で結ばれておるのかのう」


 老人は見えなくなっていく桃姫の背中に向けてそう言うと黄金の錫杖を桃姫がぶつかった方の大男に向けて鳴らした。


「さっさと喰え、呼吸を荒くしおってからに」


 老人が言うと、大男は後ろ手に持っていた息の根が止まったトンビの脚を握って眼前に取り出した。

 そして赤い梵字が書かれた白い布の口の部分を黒い舌を伸ばしてめくって、太く尖った歯を見せながらそのままかぶりついた。


「グウー。ウー」


 もう一体の大男が緑色の梵字が書かれた白い布の下からよだれを垂らしながらその様子を見ていた。


「後鬼、喰いたいならば自分で取れ。このトンビは前鬼が自分で石を投げて取った獲物だ」


 老人はそう言うと、足元に落ちている桃姫の赤い蹴鞠を見た。


「──桃の娘。可愛そうだが……仕方あるまいの。今日は、そういう日、なのだから」


 言いながら老人は静かに目を閉じた。桃姫の柔らかな桃色の髪の毛から漂った甘い桃の香りが鼻孔に残り、老人のかつての記憶を呼び起こした。


「御師匠様! 来てくれたのですね!」

「桃。鬼退治、でかしたのう。風の噂を聞いたあと、すぐさま村に飛んで来ようと思ったのだが、まぁ、色々と他の用事があってのう」


 若き日の桃太郎が家に訪れた老人を歓喜の声と共に出迎えた。


「御師匠様のことです、きっと日ノ本の各地で善行を行っていたのでしょうね」

「うむ。まあ、そのようなものだよ」


 桃太郎が感心しながら言うと、老人は微笑みながら頷いた。


「鬼ヶ島には鬼しか入れない。鬼ヶ島に行くなんて無謀だ。村の者にこう言われた時、御師匠様は私にこう言ってくれましたね」


 桃太郎が老人を縁側に誘うと、老人と桃太郎が並んで座る。そして、桃太郎はとつとつと語り出していた。


「現世で仏が入れぬ場所はない。大丈夫だ、桃。おぬしには仏の加護がついておる……と」

「うむ」

「船が鬼ヶ島に着くまでの間、あの言葉を何度も胸の中で繰り返して、自分を奮い立たせる力に変えていたのです」


 桃太郎は嬉しそうに、噛みしめるようにそう言うと、老人は照れた笑いを浮かべながら太陽に照らされる庭を歩く一羽の雀を眺めた。


「そうか。わしのような老いぼれの言葉が役に立ったようで嬉しいよ」

「言葉だけではありません……! 鬼退治にまつわる全て……全てを御師匠様からは授かりました!」


 桃太郎は老人の謙遜の言葉に立ち上がらんばかりの勢いで身を乗り出して言った。


「くかかかか、落ち着け、桃……ああ、そういえば、お供の三獣は亡くなってしまったようだの」

「っ……はい……」


 老人が風の噂で耳にしたことを思い出して口にすると、一瞬にして桃太郎の表情が暗くなった。

 その様子を横目で見た老人は、深刻そうな桃太郎の顔を見て思わず吹き出してしまう。


「ふっ、そう暗くなるでない、桃。鬼ヶ島から亡骸を持って帰ったと聞いたぞ。供養塔でも立ててやれば喜ぶだろうて」

「はい……私に与えられた財宝を使って山のふもとに祠を建てました」


 桃太郎は両膝に握り拳を置いて、三羽に増えた庭の雀を見ながら言う。


「うむ。良い心がけじゃな。まあ、三匹とも由緒正しい出自の獣だ。きっと桃太郎が鬼退治を果たしたことを光栄に思っておるよ」


 老人は笑みを浮かべながらあっけらかんと言うと、桃太郎も拳を緩めて頷いた。


「はい。そうだと信じています。不思議なのですが、祠に祈りを捧げると今でも彼女たちの息吹を感じる時があるのです」

「彼女たち、とな……?」


 桃太郎の言葉に老人は疑問符を浮かべて聞き返した。


「はい、お供の三獣はみな雌でした。御師匠様は、ご存知ではありませんでしたか……?」

「いや、知らん。獣の雌雄など、わしは興味がなかったものでな。日ノ本各地を巡った際に、縁が生まれた土地の獣を譲り受けて、10歳の記念として桃に渡しただけだ……共に強くなるように言ってな」

「そうですか。そうですよね……しかし、まだ案外、三獣は私の近くにいるのかもしれません」

「なるほどのう……」


 桃太郎は青空を見上げて濃桃色の瞳を明るく照らしながらそう言うと、老人は軽く頷いたあとに湯呑のお茶を一口すすった。


「桃や。わしはそろそろ旅立たなくてはならん」


 それからしばらく経った後、老人は不意に縁側から立ち上がって腰を伸ばすと、桃太郎に向かって言った。


「えっ、今すぐにですか……!? せっかく村に来たのだから、一泊でもしていってください!」

「いや、その気持だけで結構。この村は居心地が良い、長居すれば離れ難くなってしまう」


 桃太郎もすっくと立ち上がって老人を引き留めようとするが、老人は左手の平を前に出して首を横に振りながら言った。


「旅立つとは……一体どちらへ向かわれるのでしょうか?」


 桃太郎は風のようなこの老人を自分の意思で止めることは不可能だと理解し、せめて行き先だけでも尋ねようとした。


「何処とは決めとらんが……ちと、体がなまってしまってな。また行くあてのない全国行脚でも始めようと思う。そうだのう。日ノ本を一周したころに、またこの村で会えるだろうて」


 老人は穏やかな笑みを浮かべて言うと、桃太郎は眉根を寄せながら考え込んだ。


「そんな……御師匠様にはまだ何も恩返しが出来ていないのに……そうだ……お爺さん! お婆さん! 財宝のいくつかをお師匠様に差し上げてください!」


 桃太郎は家の中に声を掛けるとちゃぶ台に座っていた老夫婦が顔を見合わせた。


「そ、そうだねえ……村長から我が家に配られたお宝はそんなに多くはないけれど……えっと……」


 しぶしぶといった感じで座布団から立ち上がったお婆さんはタンスの引き出しを開けて中を物色する。


「いや、結構ですよ、お婆さん。あの日、あなたと桃を川から拾い上げて、そして生まれてきた桃太郎の成長と鬼退治を親のように最初から最後まで見届けることが出来た。それだけでわしは満足なのだ。くかかかかッ!」

「……なんと、なんと立派な御人なんだろうか……!」

「ありがたやぁ……なんまんだぶ……なんまんだぶ……」


 快活に笑った老人の温かい言葉にお婆さんとお爺さんは涙を流しながら喜んだ。


「それでは、達者でのう……桃」

「御師匠様……本当に、ありがとうございました……!」


 右手で黄金の錫杖を突きながら左手で片合掌した老人が別れを告げると、桃太郎は深々と頭を下げて感謝の言葉を告げて、両隣のお婆さんとお爺さんも頭を下げた。


「こちらこそ……ありがとうのう、桃……桃太郎よ──」


 カッと老人が目を見開く。過去の記憶は桃姫の甘い桃の香りと共に過ぎ去り、老人はおもむろに白装束の懐に左手を差し入れた。

 そして、すっと黒い呪札の束を取り出す。赤い文字で呪文がびっしりと書かれたその札を空中にバラ撒くと老人が即座に左手で片合唱しながらマントラを呟いた。


「──オン──マユラギ──ランテイ──ソワカ──」


 老人がマントラを詠唱したあと、右手の錫杖を地面に突いてチリンッと高く鳴らす。

 すると空中を舞う呪札の赤い呪文が紫色に光り出して、呪札が大きな円を描くように繋がりながらバッと拡がった。

 それは丁度、門のような形をしており、まさに門のように円の奥には向こう側の景色が見えた。

 人気のない森の峠道に突如として現れた紫色に怪光する呪札で形成された門。


「桃……今夜、20年ぶりにおぬしに会いたい鬼がおるそうじゃよ──楽しみにしておれ」


 老人は満面の笑みを浮かべながら言う。

 風に揺れる水面のようにゆらゆらと揺れ動く呪札門から見える景色は、森の峠道ではなかった。

 血の色をした赤い太陽が浮かび、赤紫色の霧が空を覆い尽くした異様な空間、鬼ヶ島。

 その中枢、鬼ノ城の広場に集結した100人余りの赤い眼をした鬼の軍勢の姿が門の向こう側には広がっていた。

 桃姫の平和な日常を、鬼ヶ島から流れ込んで来る深い闇が侵蝕しようとしていた。

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