3.首領温羅
「──掛かって来い、桃太郎ッッ!!」
武器を持たない温羅は、鋭い鉤爪が光る丸太のような太い腕を左右に拡げ、向かってくる桃太郎を迎え撃とうと待ち構える。
「フッッ!!」
それに対して桃太郎は、両手で握っていた桃源郷を右手のみに持ち替えると全力で走った勢いそのまま、トンッと石畳を蹴り上げ、天高く軽々と跳躍した。
鬼と人の圧倒的な体格差によって、温羅の腰ほどの目線だった桃太郎は、今や温羅と同じ目線の高さまでになっていた。
跳躍した桃太郎は、空中で振り上げた桃源郷の銀桃色の刃をギラリと光らせて、温羅の眼前に迫ってくる。
「グラアアアアッッ!!」
温羅はここぞとばかりに咆哮を張り上げると、目障りな蝿を叩き落とすかのように、桃太郎の胴体目掛けて容赦なく右腕を振るった。
鬼の爪が生えた太い腕を振るうという単純な攻撃。しかし、鬼ヶ島の首領である温羅のそれを受ければ並みの人間の胴体は容易く上下に引き裂かれるだろう。
如何な桃太郎といえども、その攻撃をまともに受ければ致命傷となる。だが、振るわれた腕の先、桃太郎の体はすでにそこにはなく……。
「ぬゥッ……!」
大振りの攻撃を外した影響で、勢い余って体勢を崩した温羅は、うなりながら咄嗟に頭上を見上げた。
そこには、翼を大きく拡げる緑雉の脚に捕まって上空を飛翔する桃太郎の姿があった。
「ヤエエエエエエエエエッッ!!」
そして緑雉の脚からパッと手を離すと、裂帛の大声を上げながら温羅目掛けて飛び降りる桃太郎。桃源郷の切っ先を温羅の脳天に向けて……。
「──クっソガアアアアアアッッ!!」
温羅は目をひん剥き、牙を剥き出しにした憤怒の形相で悪態を吐くと、両腕を頭上に交差させて桃太郎の体重が乗った桃源郷の切っ先を受け止めた。
「ヌグゥゥウウウウッッ!!」
今までに感じたことのない両腕に走る激痛。牙の隙間からよだれを垂らしてうめき声を上げる温羅。
温羅の筋肉の塊とも呼べる太い両腕、更にその中心にある鉄棒のように硬い骨の二本までをも桃源郷は刺し貫くと、温羅の黄色く濁った目ん玉を切っ先が突く寸前で動きが止まった。
「チィッ……! 届かなかったッッ!!」
桃太郎は温羅の反撃が来る前に太い両腕に足を掛けて踏ん張り、桃源郷を両手で素早く引き抜く。
ブシャアアアッと鬼の黒い血が噴き上がり、桃太郎の顔に飛沫が掛かったが、すぐに飛び跳ねて温羅から距離を取って着地した。
「グゥゥゥウウ……! 此奴ッ、人の身でありながら……! 何という芸当を……ッ!」
苦悶の表情を浮かべた温羅は、両腕に穿たれた穴から噴き出す黒い血を止めるために、腕に力を込めて抑えようとする。
すると、張った筋肉がモリモリと穴を塞ぎ、瞬く間に止血を終えた。
しかし、いくら出血を止めようとも両腕の骨に穴が空いていることは事実であり、温羅は激痛に顔を歪めた。
「血は止まったが……! 腕が焼けるようだ……! 焼け焦げるような痛み……ッッ!! その刀のせいだなッッ!!」
温羅は距離を取った桃太郎が構える桃源郷を睨みつけながら叫んだ。
「そうか……御師匠! キサマ、御師匠と言ったなッ! そいつがキサマに入れ知恵をしたのだなァ……!」
温羅は自分の命が二つあるという、自分と八天鬼しか知らないはずの秘密を桃太郎が知っていたことが不快でならなかった。
そして、その時に桃太郎はこう言ったのだ──御師匠様のおっしゃられた通りだと。
「鬼ヶ島に来る方法ッ……! 鬼の体を焼き焦がして断ち斬る刀ッ……! その三匹の獣もそうだッ……! その御師匠様とやらが、キサマに寄越したのだろうよォッッ!!」
温羅の言葉を受けて、桃太郎は深く息を吸った。そして、倒れ伏した白犬、数珠を付けた手を添えて悲しそうにその隣に侍る茶猿、上空を旋回する緑雉を見た。
「この三獣は……子供のころから私と寝食を共にし、私と共に鍛えられた……お婆さんが握ってくれた吉備団子を食べながら、鬼退治の日が来るまで……今日という日が来るまでッ!」
「そうかい……! そいつはご苦労なこったなァ……! 残念だったなァ! 大切な犬っころがおっ死んじまってよォッ! でもよォッ! こっちはそいつに八天鬼ヤられてんだァッッ!!」
桃太郎の真剣な眼差しで発せられた言葉に対して、温羅は嘲笑と憤怒を込めた怒声を張り上げた。それを聞きながら桃太郎は、ほんの一瞬、少しだけ目線を上に上げた。
その瞬間を温羅は見逃さなかった。
滑空音もなく、静かに、上空から緑雉が急降下する。脚に括り付けられた太刀を温羅の首筋に向けて。
「──二度同じ手を喰らうかァァッッ!!」
温羅は咆哮すると、天に向かって右拳を突き上げた。そしてそれは、緑雉の脚に括り付けられた太刀を粉砕し、緑雉の胴体をも粉砕した。
「ケェェェエン……!」
緑雉は開かれた黄色いくちばしから血を吐き出しながら甲高い声を上げると、飛ぶ力を失って石畳に落下した。
「雉ィッ!」
「鳥の心配なんざ! してる場合じゃねぇぞォッ──」
「……ッ!!」
桃太郎が絶命した緑雉に向かって叫ぶのと、走ってきた温羅が眼前に迫ってくるのは、ほぼ同時だった。
舐めていた。侮っていた。鬼ヶ島の首領は力は強いが動きは鈍いのだと。
そんなことは全く無い。体勢を低くして、まるで岩石が山の頂上から落下してくるような速度で温羅は桃太郎に急接近していた。
そして、温羅は躊躇なく、即座に両腕で桃太郎の胴体を拘束すると、万力のような怪力で握り締めて自分の顔の高さまで持ち上げた。
「うぐッッ!? ガアアアアアっ! アガアアアアアアッッ!!」
桃太郎は一瞬で白目を剥き、口から血を吐き出しながら絶叫した。体内の酸素が次々と吐き出され、温羅は締め上げながら満面の笑みを浮かべる。
「ずいぶんと! 好き勝手やってくれたなァ! オイイイッッ!!」
「がああ! ぐあッ!! がああアアアッッ!!」
温羅の嗜虐的な笑いが込もった声に対して、桃太郎は為す術なく白目を剥いて絶叫するしかなかった。
「命一つ潰した程度でッッ!! この温羅様に勝てると思うたのがッッ!! 大間違いよおッッ!!」
温羅の両腕は筋肉が極限まで張り上がり、桃太郎の体はミシミシと嫌な悲鳴を立て上げた。
圧倒的に有利な温羅の状況。しかしその実、温羅は困惑していた。
桃太郎の体をひねり千切るつもりで両腕に力を込めているのに、まるで千切れそうにないのだ。
両腕の骨に穴を穿たれた影響で本来の力が発揮できていないのかと温羅は考える。
しかし、それだけではない。この桃太郎の肉体、根本的に何かがおかしかったのだ。
「ふゥむ……興味深いッ! 並みの人間であれば……ッ! とうにへし潰れておるぞッッ!! まるで鬼の血が流れておるようだッッ!! フンぬッッ!!」
「グ、ぐががああアアアアッッ!!」
温羅は最大限の力を一息に発揮して、握り潰そうとしたが、それでも桃太郎は白目を剥き、叫び声を上げるだけで絶命することがなかった。
痛みは感じているようだが、一向に死ぬことがない。一体どういうことだと温羅は両腕の力を緩めた。
「驚いたな……これでも耐えられるのか……キサマ……一体何者だ……」
力を込めすぎて疲れを感じてきた温羅は言うと、桃太郎の顔を己の顔に近づけた。そして、盛大に鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。
「桃太郎……ふゥむ、なるほどな……桃色の髪の毛から……桃の匂いがするか……そうだな、ただの人間ではないようだ」
桃太郎の桃色の髪の毛に鼻を突っ込んで、温羅は何度も匂いを嗅いだ。ただの桃の匂いではない。何か、この世ならざる桃の香りなのである。
この世のものではないといえば、鬼ヶ島に似ているような。しかし性質が全く異なる。懐かしくも暖かい感覚すら温羅は感じてしまった。
このまま嗅ぎ続けるのは何かがまずいと本能的に感じ取り、温羅は桃太郎の頭から鼻を離す。
「……確かに殺された。大勢の鬼が……殺された。だが、鬼はまた増やせばいい。俺さえ生き残っていれば、鬼ヶ島は何度でも復活する」
温羅は熱くなりすぎた呼吸を整えて、桃太郎の顔を睨みつけた。
「キサマが何者か、御師匠様とやらのこと……気になることは多いが……いずれにしても──」
「う……うぅ……」
苦痛が途切れ、意識を取り戻し始めた桃太郎の目を見て、温羅は一変して憤怒の形相に転じた。
「──俺の勝ちだァッッ!!」
「ガアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
「桃太郎ッッ!! ──死ねェェェエエエエイッッ!!」
完全に頭に血が昇った温羅。そして、その瞬間こそを茶猿は待っていた。
仏の加護を受けた脇差し、桃月を小さな両手で握り締めた茶猿が温羅の背後から迫る、そして飛び上がり、一回転しながら銀桃色の刃を左肩に叩き込んだ。
「ヌぐあああああああッッ!?」
突如として走った左肩が焼け焦げる激痛に温羅は驚きの声を上げながら桃太郎を手放すと、振り向きざまに背中の茶猿に裏拳を叩き込む。
「ギッ……!」
茶猿は桃月の柄から手を離すと、断末魔の声を上げて遠くまで吹き飛び、広場の石畳に叩き付けられて転がった。
その瞬間、桃太郎は意識を取り戻し、眼前にある温羅の無防備な背中、その左肩に突き刺さった桃月の柄に目掛けて飛び掛かった。
「……ッ!? やめろッ!! 桃太郎ォッッ!!」
背中に取り付いた桃太郎に気づいた温羅は叫びながら巨体を振り回したが、桃太郎は桃月の柄を掴むことに全神経を注いだ。
「──悪鬼温羅ッ!! 討ち取ったりイイイイッ!!」
「ギヤアアアアアアアッ!!」
桃太郎は天に向かって勝鬨の声を上げると、全体重と全膂力を桃月に乗せて刃を下に引きずり降ろし、温羅の心臓を真っ二つに切断した。
温羅は壮絶な断末魔の絶叫を上げながら、心臓から噴出する黒い血を天高く飛ばし、黄色い眼球をグルンと上に向ける。
そして、桃月の柄を掴む桃太郎を背中に乗せ、立ったまま絶命した。
それからしばらくして、ようやく桃太郎は柄から手を離して黒い石畳の上に倒れ込んだ。
「……みんな……やったぞ……」
満身創痍の桃太郎は、白犬、緑雉、茶猿の亡骸を広場の中央に並べると、正座をして泣きながら呟いた。
「みんな……やったんだ。みんなで、やったんだ……遂に温羅を……悪鬼温羅を倒したんだ」
桃太郎は膝の上に握りしめた両拳を震わせ、ボロボロと涙を零しながら三獣に報告した。
「白犬……よくやった、苦しかったよな……何度も死んで……でも、お前がいなければ鬼退治は不可能だったんだ……ありがとうな」
桃太郎は白犬の亡骸に感謝を告げると、緑雉の亡骸を見た。
「雉……お前は私の立てた作戦を忠実に実行してくれたな、ただ……切っ先が届かなかった。それに奇襲。私が……そうだ、私があのとき視線を動かしてしまったせいで……雉……すまない。だが、言わせてくれ……長い間一緒に戦ってくれて、ありがとう……」
桃太郎は、緑雉に侘びたあとに感謝の言葉を述べた。そして、茶猿の亡骸を見る。
「猿……お前は臆病で、だけど誰よりも優しいやつだったな……それなのに……何だ、あの最後の動きは……お前、あんなことが出来たのか……ははは……私も騙されたよ……温羅も騙されるわけだ……猿、お前の振り絞った勇気のおかげで勝てた……ありがとう」
桃太郎は茶猿に頭を下げて感謝すると、涙を腕で拭ってすっくと立ち上がった。
「犬……猿……雉……」
桃太郎は、桃源郷と桃月を左腰の白鞘からそれぞれ引き抜くと、両手に掴んで鬼ノ城を見上げた。
「そこで……待っていてくれ、俺にはまだ──殺ることがある」
桃太郎は冷たく言うと、濃桃色の瞳に仄暗い色を浮かべて二刀流の状態で鬼ノ城の城内へ続く大門へと歩き出した。
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