明日あなたの空が晴れますように
のばしかけた手を、それでもはっきりとのばしきらなかったとき。
ほんのかすかにふるえた指先が、なにをつかむこともなく、ただあなたの残り香だけが、小指と薬指のあいだをすりぬけていったとき。
私は悲しみよりも、むなしさよりも、後悔とかよりもさきに、納得があったのだと思う。
誰も私のことをしらない。私自身でさえ。
私は今日、あなたにいちども、名前をよばれていないことに気づいていた。そして私も、あなたの名前を、いちどもよんでいないことに気づいていた。
たったそれだけのことだ。
たったそれだけのことなのに。
いつもとなんのかわりもなく、当たり前に今日が終わっていって、当たり前に明日がくる、そんな縷縷としてたよりなくもつづいていくはずの日々の、とくべつでもなんでもないときの、昨日や一昨日や、そしてたぶん、明日や明後日と、まったくおなじ調子でなげかけられた、あなたの「またね」の言葉に、そう言ってなんの未練もないふうに踵をかえしたその背中に、手をのばしたくなったこと。
それは不吉の予感なんかではなくて、ましてやいとしみやくるしみなんかでもなくて、そんな緊切にはりつめた感情なんかではなくて、実際に私はいま、この瞬間さえ、明日もあなたに、当たり前に会えることを、疑ってさえいないのに。
あるいはその、色かたちも、手ざわりも、温度も、においも、味も、名前も知らないその、感情未満のふるえやざわめきの、きちんとした色かたちや、手ざわりや、温度や、においや、味や、名前を理解できたとき。理解できるときがくるとして。
あなたの名前を、口元だけで、なにに届くこともないように、注意ぶかくそっと、つむいだ。あなたはふりむかなかった。
遠ざかるあなたの背中に、のばしかけた手を、それでもはっきりと、のばしきることはしなかった。
小指のさきに、雨の気配が、わずかにひっかかる感じがした。
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