男.其の二
会社を定時であがり、一目散に真っ直ぐ君の元へと帰る。
上司や同期からの今から一杯どうだいという接待も今回は上手く躱して断り、街にふらついている覚束無い足取りの女達にも手を伸ばさず、ただひたすらに俺の帰るべき場所へ向かった。
早く帰りたい。君に触れたい。触れて欲しい。
欲まみれの俺の手をどうか、どうか君が祓って欲しい。どうかどうか、穢れまみれの俺の手を払わないで欲しい。強く、離れなくなるくらい握って、俺が君の元へ帰って来たと確かめて欲しい。
我儘だろうか。
不安な気持ちで胸が押しつぶされてしまいそうになる。
神様がいるのなら、こんな不安を消し去って欲しい。もしかしたら、それもワガママな願いだと却下されてしまうだろうか。
帰路がいつもより長く感じる。
コツコツと革靴の音が響く。まるでガラス板の上を歩いているように。
辺り一面暗闇で、どこまで続いているかも分からない。ずっとずっと真っ直ぐなガラス板の上を歩くだけ。
下は奈落なのか地面があるのか、怖くてそれさえも確認することが出来ない。思わずため息が漏れてしまう。情けない男だ。
ピキリと小さな罅が入った。
もっと勇敢に堂々と歩けたら、今とは違った未来があったのだろうか。
罅が長くなった。
君の傍にいたら、俺は変わっていただろうか。
罅がまたひとつ増えた。
考えても無駄なことをグルグルと頭で回転させては辞め、また回転をしてと繰り返す。
その度にピキリ、ピキリとどこからか細く耳に痛い音が鳴っていた。
どこにも吐くことができないモヤモヤをどうするものかと考えた途端、自然と腕が動いた。
ゆっくりと静かに動く腕は目的地が最初から定まっている。
指がアウターの内側に入り、内ポケットからソフトボックスを取り出す。そして、そのまま慣れた手つきで一本取り出す。
今日は、どうしてかいつもより減るスピードが早い。短い休憩時間に結構な数を消費していたらしく、もっと味わって大切に吸おうと心に決めた。
ジッポの軽やかな音を静かに響かせて、火をつける。肺を大きく動かして吸う。
紙が燃えて次第に灰になっていく小さな音が、俺は好きだ。
これを聞いて、「録音しよ」と言ってきた君を思い出した。
ふとした瞬間に思い出して、心に小さな火を灯す。どうして目に見えるところでやると点火は犯罪になるのに、目に見えないところでは犯罪にならないのだろうか。
煙草の咥える部分を軽く弾いて、灰を落とす。
重力に従って、空気を掻き分けながら落下していく。音もたたせずに項垂れた灰色は、ガラスの白い裂け目に吸い込まれていった。
ガラスの罅に灰が溶け込んでいく。
ぽとぽと、しとしと、ぱらぱら、さらさら。
聞こえない音を背景に、俺の頭の中で映像が一場面ずつ鮮明に映し出される。
──それには全て、君が居た──
激しい耳鳴りがして、体が宙に放り出される感覚がした。
急なことで何が起こっているのか把握しきれず、ゆっくりと奈落へ落ちて行った。
体が逆さまになって頭からどこかへと落ちている時、周りはとても明るかった。ガラスの破片らしきものが降っていたからだ。
「らしきもの」と認識していたのは、それひとつひとつに君が映っていたから。
笑顔の君。泣いている君。眉間に皺を寄せている君。真剣な顔の君。悔しがっている君。目に光が灯っていない君。
色んな君を見て、やっと分かった。
神様は本当にいるのだと。
不安で胸が押しつぶされそうだったさっきの俺の願いを、叶えてくれたのだ。
今の俺は、君を愛しいと思う気持ちでいっぱいだから。
愛しい。愛でたい。触れたい。
地に足が着く感覚が戻り、周りを見渡す。
家族で食卓を囲んでいる家。テレビを見て笑っている家族。犬と戯れて遊んでいる子供達。二人で今日あったことを話しているであろう夫婦。愛し合っている恋人。
そこには、久しぶりの景色があった。
まだ俺が定時に上がってすぐ帰っていた頃、君にただいまと言うまでの帰り道はいつも、将来を想像していた。
子供が出来て、ご飯をみんなで食べて、犬を飼って子供と一緒に成長していく。そんな様子を見ながら二人で他愛もない話をする。
永遠にこの日が続くと信じながら、スマホを取り出した。
君に会いたかった。自分の思いを伝えたかった。今すぐに抱きしめたかった。
君が、何をしようとしているのかも知らずに。
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