男.
朝目が覚めて、顔を洗って、君の作った朝食を食べる。
行ってきますとハグをして、玄関を通って、会社の敷地に入る。
上司に愛想笑いをして、部下に的確な指示を出す。
会社を定時であがり、真っ直ぐ君の元へと帰る。
そんなルーティーンを繰り返していたのはいつまでだったのだろうか。
倦怠期。マンネリ化。出来心。性欲。背徳感。刺激が欲しかった。ワンナイトだった。
そんな在り来りな言葉達でしか片付けることのできない、正真正銘の浮気。クズ男のすることであり、それと同時に俺が大嫌いなもののひとつである。
ワンナイトの女を数え切れないくらい作って、繰り返しても、普通に接してくれていた君。
余裕じゃんとうつつを抜かして、馬鹿の一つ覚えみたいに君以外の女を抱くという行為を繰り返し続けた。顔も名前も感覚も、何も覚えていない。ただその夜を凌ぐための女達。
ただそれだけ。されどそれだけ。
いつからか、俺の知らない匂いが俺と君の家を漂うようになった。
甘ったるい匂い、色っぽい匂い、それと、俺の好きな香りが少しだけ。
空気が淀んでみえて、顔を顰めてしまうほどには香水臭い。
俺らはこんな香水は付けない。家の中でなんて以ての外だ。
それなら、このむせ返るような、混じりあったような異臭は何なのか。
この空間に居たら吐いてしまいそうで、風呂場に駆け込んだ。
流石水辺まわりなだけあって、ここは鼻が捻り曲がる程強い匂いはない。
ベルトを外して、ボタンを一個ずつ外し、ワイシャツを脱ぐ。一刻も早くシャワーを浴びたくて、勢いよく腕を抜き取った。そのとき、ムワッと先程の甘ったるい香水の匂いが、鼻にまとわりついてきた。
喉から何かが這い上がってくるきがして口を咄嗟に抑えた。
「は、なんで」
指の隙間から細く情けない声が漏れ出る。
自分の体から、いつもとは明らかに違う香りが放たれている。しかも、つい先程不快に思ったばかりの香り。
なんだか、ホールのショートケーキをそのまま一人で食べたみたいに、胃も、口の中も、ベタベタして気持ち悪い。
甘ったるくて、興味のない女の尻が押し付けれているような不快感。
もしかして、もしかしなくても。
「香水がうつったのか、いつだ。ていうか、きっと今日だけじゃない。いつからだ」
分からない。分かりたくない。
いつからか。
誰からか。
何故なのか。
自分でも気づく位には強く香ったということは、とっくに彼女に知られているはずだ。俺よりも、遥かに早く。
そんな素振りは一度も見た事がない。
どうして。
何故何も言ってくれない。
何を考えているんだ。
あんなにも一途で、俺の事を知りたがってくれている彼女なのに、俺は何も彼女のことを知らない。
君は、いつ笑顔だったのか。
君は、いつ料理をしていたのか。
最後に君と一緒にお風呂に入ったのは、いつだったのか。
君のことを最後に抱きしめたのは、いつだったのか。
全くもって、分からない。彼氏失格。
いつからか、どこか遠くを見つめて言葉だけの愛を送り合って、ギリギリ恋人と言えるであろう関係性を保っていた。
こんなときでも、君が何か言ってくれたらよかったのにと、君のせいに思ってしまう自分がいてしまうことが情けない。
君を絶対に大切にすると言った俺、貴方を愛してるわと君が言ってくれた俺。
今の俺は、そのどちらでもない。
君に釣り合うはずもない、我儘で身勝手で手垢だらけの浮気するクソ男だ。
みすぼらしく汚い背中を自信満々に君に見せつけて、その穢れのない目を背けられてしまった。
なんとも惨めで哀れな男の末路だ。
鼻で笑った時、スマホが誰かからの着信を知らせた。
液晶には知らない名前。
それで容易に想像出来てしまった。
いつかの俺が寝たであろう、どっかしらのビッチだと。
画面をただ眺めているだけでいたら一度切れたが、もう一度かかってきた。
仕方がないと自分で自分に言い訳をつけて緑のボタンをタップした。
本当に、プライドの欠片もない。
「あっ、やっとでたよ〜!もうっ!ずぅっと待ってたんだからね〜」
「ごめん、どうかした?」
「え、いや会いたいなって思っただけ。なんか元気なくない?そっちこそなんかあった?」
「大丈夫」
「絶対大丈夫じゃないでしょそれ、今どこ」
「なんで」
「お姉さんが慰めに行ったげるって言ってんの」
ああ、ここで断らないとほんとに終わる。
この甘ったるい声で誘ってくる女なんか、君に比べたら大した人間ではないのに。
分かっているのに、絶対に分かっているはずなのに、一瞬でも君を忘れられるのならって、つい思ってしまった。
君のことなんて片時も忘れたくないはずなのに、永遠に想っていたいのに、どうしようも無くこの瞬間だけは煩わしいと考えてしまった。どうでもいいと。
これを俗に、魔が差したと言うのだろう。
真剣な話し合いが必要だと誰でも考えられるとき程、簡単な言葉で片付けられてしまう。
これは神様が人間を作るときに設定したものなのだろうか。
それならば、その神様は優しい心をお持ちになっている。人が誰しも求めるであろう運命の相手を探すには、その方法が一番分かりやいから。
それでも俺は優しくないし、どちらかと言えば性格は悪い方だから、そんな神様はクソ喰らえだし、嫌いだ。
死んでしまえばいい。
こんなことを考えても、体は勝手に動く。
通話を切って、メッセージで打ち慣れたラブホのリンクを送る。
身体は君を求めているのに、体は抱けるなら誰でもいい。
どうせ一人。煙草を吸って時間を忘れる。
どうせ独り。慰めてくれるビッチの元へ。
「俺のおかげで彼女はどこか遠くへ行ってしまったよ。未来の俺にたった一人の時間をプレゼントだ」
光のなくなった虚ろな眼差しは、未来に誰も写してはいなかった。
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