第三章.女
いつも優しくて。強く抱きしめてくれて。
そんな貴方が嫌いな訳なかった。
嫌えなかった。
だからこそ、抱きしめられた時に嫌に絡みついてくる他の女のくそみたいな匂いが、大嫌いだった。
時間が経つにつれて、ベトベトしていて気持ち悪い空気が部屋に充満していった。
愛の巣が、どこか知らない場所へと変わっていった。
私達の家に帰ってきたはずなのに、まだ何処か別の所にいる、何となく拭えない、貴方の違和感。
ちゃんとここに帰ってきて。
抱きしめないでいいから、しっかり目を合わせてただいまって私に向かって言って。
「ねぇ、」
貴方の背中に投げかけた言葉。貴方が心配そうな顔をして振り向いてきて、どうしたのって言ってくれると思った。
別の女の色を纏った貴方が、私色に染まってくれると思った。
確信なんてどこにもないのに、それが当たり前のように思っていた。
まるで馬鹿の一つ覚えみたいに。
現実はそんな甘くないのに。
呼んで振り返ってくれたのは、ピエロだった。
私を狂わせるピエロみたいな、笑顔が見えた。
辺り一面真っ暗なのに、貴方の周りだけ白く光り輝いて見える。
魅了させる星光と、それを際立たせる暗闇。夜空を自由自在に飛び回るように踊り狂う貴方。
ふらふらと何処か、私の知らない場所までいつの間にか行ってしまいそうで、掴みたいけど掴めなくて、怖くなって。
勇気を振り絞って震える手を伸ばしたら、表情一つ変えずに貴方は手を伸ばしてくれた。
やっとやっと、私に手を伸ばしてくれた。嬉しかった。
とても胸がいっぱいになった。
首を絞めてくる貴方が、息が出来なくて歪んだ顔を楽しむ貴方が、笑われるだけの私を恍惚とした表情で見つめてくるのが、とても魅力的だった。
私だけを見ている貴方がここにいる。
他に誰もいない。たった二人だけ。何をされてもいい。何をしてもいいんだよ。今なら、今だけなら、全部全部忘れられる。子供のように無邪気に暴れちゃおうよ。はしたなさなんて気にせずに、全て曝け出しちゃおうよ。
上がっている口角からちらりと見える犬歯。開いている瞳孔。揺れる睫毛。笑うと三日月形になる目。目尻に少しできる皺。寄った眉毛。荒っぽい吐息。脈打つ首筋。甘ったるい唸り声。濡れている唇。火照っている頬。逝ってる顔。
大きな男らしい身体で、獲物を捕らえるみたいに掴んでくる熱くて硬い掌。
──嗚呼、好き──
あえて口には出さないけど、貴方の首の後ろに着いている真っ赤なリップ、気付いてた。
赤リップなんて目立たせてなんぼだもんね。それが狙っている男の肌に映えたらもう最高潮よね。女側の気持ちを理解でちゃうのも癪に障るけど。
貴方に抱きしめられながら他の事を考えるなんて、昔の私なら絶対にできなかった。
今日も夜道をあっちこっちふらついてきたのだろう。
浮心が最近目立つ。
貴方の体温を感じながら思うのも違うかもしれないけど。こうしていないと正気を保てる気がしない。
貴方の背中に傷をいくつ付けても、どんなマーキングをしようが、いつになっても、絶対に絶対に離さない。
私が何かしたのか、何か気に入らないものがあったのか。分からないけど、言ってくれれば改善しようと行動する事は出来る。
貴方の為となれば、冗談抜きで人だって殺せてしまうのに。
最初は気付かないふりをした。
私達は愛し合っているって信じたかったから。お互いがお互いに依存して、溶け合って、のめり込んで、ひとつになって、嘘なんてないと信じ込みたかった。
だって、そんな軽い愛じゃないから。重すぎるくらいの愛じゃないと、私は物足りないから。まだまだまだまた、そんな重さじゃ足りない。そんな甘さじゃ足りない。そんな大きさじゃ足りない。足りるわけがない。あと一押しどころじゃない、あと百億押ししたって、きっと私は満足できない。
覚束無い足取りで玄関をくぐり、甘ったるい女物の香水を染みつかせた肌、首に赤い痣を付けて、見せつけるかのようにして私の元に帰ってくるこの男。
辛い。悲しい。気持ち悪い。ウザイ。来るな。
貴方が抱きついてくれているはずなのに、貴方を奪おうとする見たこともない不細工な女の顔が、目の前に迫ってくる。
首に回したはずの腕も、空回っているようにしか見えない。
夜な夜な泣くのも疲れた。
抱きしめて欲しい。
今すぐ抱きしめて。
泣かないでと私を慰めて。
他の女を見て、味わって、それでもやっぱり私がいいと言って帰ってきて。
早く帰って来て。
貴方が思う程、大きな器を持った女でいられないから。
こんなにも純粋無垢で可愛い一途な女の子にしたのは、貴方なんだから。
そう願ったのも束の間。
ある日突然張り詰めていた糸はぷつりと音も経たせずに切れた。
これは、浮気だ。
世間が悪だという、貴方が最低だというものだ。
貴方には別の女がいる。
私が待ってるだけだなんて思わないで欲しい。
今までの女達はそれで許されたのかもしれないけど、一緒にしてもらっては困る。
私は私。
貪欲な女だから、私を求めてくれるまで求め続けるの。
例えそれがどんな手段だとしても。
高校生の頃、一途に愛してくれていると伝わる程の愛情表現をしてくれた男の子がいた。
けれど、別れた。
その時思った。願った。
私はどうしようもなく我儘な女だから。
───どうかこの世界に
私を欲しがる男がいますように───
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