第二章.女
お金に困ったことは無い。
男に困ったことは無い。
人間関係に困ったことも無い。
大学生という大人枠の初心者の頃。
猫を被り媚びを売って、無理矢理貼り付けただけの気持ち悪い笑顔を向けながら、擦り寄ってくる女達。雀の涙程の権力と金と筋肉を見せつけ、気安く私の体に触れ、これでもかと力の強さを押し付けてくる男達。
こちらも貼り付けた笑顔であしらっていれば、簡単に懐いて蟻のように着いてくる。
その上、仲がいいと周りに言いふらして分かったフリして、勝手に期待して、勝手に失望して、離れていく。
その一連の流れは、実に早くてつまらなかった。幼い頃の、わざわざしゃがんで蟻の行列を見ている時の気分にとても似ている。
離れていく「友達だったかもしれない人」を視界から外しながら、そんな下劣で非道徳的なことを頭の片隅で考えていた。
何人も離れては、何人も近づいてくる。
そんな偽りだらけの不安定な関係で、クラブに行った。
その場のノリって、本当に人の考えにフィルターをかけてしまうとても怖いものだと思える。普段だったら断る誘いも、テンションが高かったその日は謎に乗ってしまっていた。
踊る人。暴れる人。叫ぶ人。吐く人。歌う人。
飲む人。食べる人。喋る人。笑顔の人。
様々な人間がいる中で、私と貴方は出会った。
お酒の入った洒落たグラスを片手に、高い腕時計を付けこなす貴方を見た。
自然と、それが当たり前のことかのように、その上品で妖艶な動作に見惚れてしまっていた。
貴方に直接、ずっと関わり続けると身が持たない。危ない。触れてはいけない。
出会った時からそう感じていた。
それなのに、当たり前のことかのようにお互いが傍に居続けてしまった。
愛し合って、付き合うまでにそう時間はかからなかった。お酒が入った状態での初対面は、堅苦しくなかったから。
でも、素をお互い曝け出しているはずなのに、普段から仮面をつけている私はそれを外すのがやっぱり怖かった。
本音を言うのが、どうしても怖かった。
「普段は俺も仮面を付けてるよ。でも、今は、
今だけは、君は俺と同じだって思えたから外してみたんだ。」
貴方はそんな言葉を簡単に口にしてみせた。
「同じ境遇の人って、何となく分かるよね」
その言葉を飲み込んだ私は、意図も容易く貴方に流された。
恋とか恋愛とか、みんな「楽しい」「モチベになる」ってポジティブ思考で、第三者として見ているだけなら全然応援できる。
けれど愛の本質は、その人の意志を鈍らせてしまう催眠術。
その人の個性を殺してしまう。
危険なもの。
好きな人が出来たら、好きな人のタイプになろうとする。
ロングだった子がベリーショートに。
ズボンしか履かなかった子がスカートを。
恋人が出来たら、自分の趣味なんか後回しにして、どんどん相手に依存していく。
貴方と言葉を交わしてしまったあの日。
私は死んだ魚となって、貴方という川に流され始めたの。
貴方に流されて、岩にぶつかって傷付いて、また流されて。
その繰り返し。
簡単に流されて、簡単に自分の思う通りになって、貴方は随分と楽しかったことでしょう。
私もそれが楽だった。それでも同時に、ストレスも溜まった。
別れた時は、ありがとうって思ってしまった。
それなのに、貴方にすっかり依存していた。
複雑で矛盾ばかりの自分の心が嫌で嫌で仕方がなかった。
気持ちに答えようと貴方を忘れようと、何人かと付き合ってもみた。でも、無理だった。
どうしても、何回でも、思い出すのは、貴方。大好きで堪らないと思っていた男と激しい行為をしていても、貴方だったら頭を優しく撫でてくれていたと。
優しい男に抱きしめられても、貴方の方が暖かかったと。
かっこいい男に口説かれても、貴方の方が心地好い声だったと。
些細な行動で思い出すのは貴方。
貴方以外の男に興味は無い。
私の傍にいられるのはこの世で貴方だけ。
そう気づいてからは、とっくの昔からどこにも逃げられないでいたのだと知った。
ずっとずっと、貴方のせいで喉が、体が、暑かった。まるでアルコールが身体中を駆け巡っているみたいで。
貴方依存性なんだと開き直ってから、誰一人として付き合っていない。
依存して何が悪い。
セフレとも、足に使っていた男とも、財布という名前の男とも、私から連絡を断った。
男に縋る人生は辞めた。
元々無理に決まっていた、貴方を理由に使って貴方を忘れる恋をするだなんて。その時点で忘れようとしていない自分が丸裸で、恥ずかしい。
だから私の周りに貴方以外の男は必要なかった。
私が求めているのはたった一人だから。
「運命ってあるものだね」
目の前の男はそう言った。
少し色落ちしたシルバーの髪を靡かせながら、ヒールを鳴らしてショッピングを存分に楽しんでいた。
貴方が来るまでは。
私の足を止めさせた貴方はケラケラと軽く笑った。
私は、その笑顔が死ぬ程好きだった。
初めて会ったのはどっかの小さなクラブ。
DJが音楽をガンガンに鳴らして鼓膜を揺らし
お酒やら香水やら煙草やら、色々な匂いが充満して濁った空間。
目に痛いライトが宙を舞い、服の色を変えさせるカラフルな一部屋。
ブランド品で身を固めて、赤リップで強い女を演じた私。
近寄り難い雰囲気を醸し出していた私にスルスルと笑顔で近づいてきて、キツく腰を抱いてきた貴方はまるでアナコンダの様だった。そうそう私に向けられることの無い、獲物を捕えた絶対的な眼差しに、初めて酔ってしまった。
お酒でも煙草でも滅多に酔えない私が、たった一人の男の立ち振る舞いだけで酔ってしまったのだ。
あれから何年も経ち、ショッピングモールで何の雰囲気も無しに貴方と再会して。
「貴方とやり直す気はない」。
そう言葉にしたかった。それでも、「貴方との日々をもう一度過ごせるとしたら」って考えが頭に過ぎってしまった。
白くて透き通った部屋で朝目を覚まして、おはようと言い合って、微笑んで、朝ご飯を一緒に食べる。
他愛もない話をしてご馳走様と手を合わせる。食器は貴方が洗って、洗濯物は私が干す。
お互い手が空いたらソファに並んで座って、テレビを見る。
数十分したら貴方はテレビに飽き、ベランダに出てお気に入りのセブンスターを吸い始める。その重い煙と香りが癖だとか何だとか。
ジッポを開いて火をつける軽やかで綺麗な音が、私の鼓膜にまだ響いている。
なかなか貴方が戻ってこなかったら、寂しくなって私もベランダによく出てた。
貴方が微笑みかけてくれるのが嬉しくて、口に含んだ煙を顔にかけてくれるのが色っぽくて、貴方の吸いかけも喜んで口にした。
私が吸うと貴方は少し苦笑いをして新しい煙草に火を付けてた。揺れ動くライターの火が灯る度、私の恋心に激しい炎が燃え広がっているなんて、貴方は知らなかったでしょう。
私の心全体にはお酒がかかっていて、ライターのせいですぐ火が燃え上がってしまう。
貴方のせいで慣れてしまった煙も、耐性がついてしまった肺も、全部全部、私のものなのに貴方のものみたいだった。
私の内蔵ひとつひとつが、貴方でできていて、貴方だけのものだった。
私が貴方なしでいられないように、貴方も私が居なかったら生きていけなくなればいいのに、なんて最低なことを思っていた。
依存するのは良くないってどっかの有名な人も言っていたはずなのに、そんなもの、雪が地面に叩きつけられる極寒の雪国でマッチを擦り続ける様に意味が無いの。
実際離れてもそれは変わらなくて。
「また貴方との生活が戻ってくる」、そう考えるだけで涙が止まらなくて、自然と私は、その筋肉質な体で抱きしめてくる貴方を拒むことはできなかった。理性は、全力でこの男はダメだと否定してきたけど、体は嫌なほど正直だから。
どうか、こんなにも哀れな私を許して欲しい。
朝意識が浮上すると、セブンスターの香りはしなかった。代わりに、おはようという声が出せなかった。
昨日の夜。貴方とキスをひとつ。深い深いキスをひとつしただけなのに、どうしてこうも体が熱っぽいのだろう。
隣で眠っている貴方の黒くて長いまつ毛を眺めながら必死に考えていた。
「何考え事してんの」
眠っていると勝手に思い込んでいた貴方に、突然言われて驚いた。けれど、澄ました顔で、別に何も考えてない、考えれない。貴方のことなんか考えてない。そう言おうと思ったけど、声が出ないんだった。
「あーあ。お前は昔からそうだったね。俺を求めすぎて、俺に酔っちゃうんだよね」
なんて罪な男だろう。
可哀想にと憐れむ貴方の妖艶な表情の裏側には、きっと馬鹿な女というレッテルが貼られているのだ。
この顔をみて思い出すのは、昨日の夜散々求め合って、激しく身体をぶつけ合った光景。
体がどうも熱っぽいのは、このせいか。
唇に触れた貴方は、まるで度数の高いお酒。だからきっと、私の心はお酒でびちゃびちゃなんだ。でも、貴方はお酒みたいに綺麗な色をしていない。もっとどろどろで、ぐちゃぐちゃしている色。
私にはわかる。貴方は何にも囚われない。何色にも染まらない。唯我独尊、高嶺を愛する人。
でも、それでも。もっともっと、私色に染まってくれないとダメ。私は我儘な女だから。
貴方が最初に私に近づいてきたのなら、最後の最後まで責任取ってくれないと私が困ってしまう。
どちらかが死ぬまで、責任を果たして欲しい。
私のお気に入りで、よく飲むスピリタスは貴方みたい。貴方がスピリタスなのかも。
貴方をお酒に例えていると、いつの間にか水を取ってきてくれていた。一口飲むと喉に冷たい感覚が伝わってきて、喉から胃、胃からお腹に流れ込むのが分かった。
空っぽだった体内を水が冷やして、ぶるりと全身が波打つ。
私を楽にしてくれる人は貴方だけだけど、私を苦しめるのもいつも貴方だけ。こんな関係がいつまでも続いてしまえばいいのに。
私も貴方も、いつまでもこの水に溺れていれば、ずっとずっと一緒なのに。
なんで時って経つんだろう。時計なんて、時間なんて、溶けてなくなってしまえばいいのに。二人で抱きしめあっているのに、ひとつになっているはずなのに、越えられない境界線の隙間から二人で過ごしたい未来が零れ落ちていくみたい。
そう思っているのも、きっと絶対、私だけなんだろうな。
水の入ったグラスを傾けると、沢山の差し込んでくる朝日が屈折してキラキラと眩しくなる。
お風呂場に響く水の音。私と貴方の匂い。
いくら香りの強いボディーソープにしても、貴方の存在が私の体から消えてくれなかったの。
貴方の「愛してる」って言葉を信じたかった。心からそう思っていたのに、信じようと頑張ったのに、信じられない自分が大嫌いだった。
身体を許した後、友達との飲みでネタにされるかも。セフレがいるのかも。
その言葉が嘘かどうかなんて貴方にしか分からない。だから当然、私には分からなかった。
だから事実だけ、あなたの匂いが私の体に着いているってことだけ受け止めた。でも、私は嬉しいはずなのに、人間は貪欲な生き物だから、自暴自棄になって欲しいものさえも自分の手で振り払ってしまうの。
私は貴方を振り払おうともがいていたの。
矛盾だらけの行動や思考も、恋だからと一括りにしてしまえばいいのかもしれない。
自分勝手な女だと言って、貴方が私を嫌ってくれるかもしれない。でもそうしたら、貴方の傍に居られなくなってしまう。あ、また矛盾。
どうしたら貴方の愛を受け取れる?
どうしたら私の愛を伝えられる?
わからないことだらけだった。
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