徳川家康
奥平家の寝返りから半年以上が過ぎた天正2年(1574年)5月
遠江国の浜松城郊外に馬を進めて鷹狩りを楽しむ一行がいた
その中心にあって鷹を愛でるのは中肉中背で歳のわりに老けて見える男
彼の名は徳川家康
後にこの乱世を鎮め、江戸幕府を成立させる男だがこの頃は三河の大半と遠江の半分ほどを治める大名に過ぎず、同盟を組む織田信長に翻弄されているような状態である
「おー、よしよし」
鷹を撫でる彼の歳に相応しくない顔の皺はこれまでの苦労を感じさせて余りあるものだ
「さて、そろそろ城に戻ろうか」
家康が側近を連れて浜松城に戻ろうとして後ろを振り向くと、城の方向からある男が単騎、駆けてこちらへと近づいてくる
「殿ー!!」
「おお、誰かと思えば元忠ではないか」
家康のことを呼びながら馬を走らせる男は
徳川家の家臣であり家康とは小さい頃から共に過ごした仲である
「殿っ、、はぁっ、はぁっ・・・」
彼は息を荒らげながら馬を降りると、何かを伝えようとするが息が整わず話せない
「元忠、まずは落ち着け」
家康は落ち着くように促し、彼は深呼吸を重ねてようやく息を落ち着かせた
「元忠、何かあったのか」
「はい。偵察からの知らせで・・・武田が攻めてきます」
「・・・」
家康は黙り込む
信玄死去との噂が届いてからというもの武田軍に目立った動きはなく、また「三年間じっとして国力を高めよ」という信玄の遺言があったことも伝わっていたことから、しばらくの間武田軍の活動はないだろうと家康は踏んでいたのだ
「分かった。急ぎ城に戻る」
家康は元忠の後を追うように馬を走らせ、浜松城に帰城
本丸に入るやいなや息つく間もなく緊急の軍議を開いた
「武田軍は長篠城に攻め込むとみて間違いないかと」
重臣の筆頭格である
その一方で家康と同い年の
しばらくして議論は尽き、長篠城に援兵を送り奥三河を重点的に守るとの考えで一致した
こうして、長篠城には元からの奥平勢500に加え援兵1000が送られ、万全の体制が取られたわけだが・・・
「殿!大変です、武田軍は二俣城(今の浜松市天竜区)より南東に向かい、
偵察の者が浜松の徳川本陣に飛び込んできて知らせたのは、遠江の要衝である高天神城(今の掛川市下土方)の名であった
「なに、敵は二俣城から西進し長篠城(今の新城市長篠)を目指すのではなかったのか!?」
家康は驚きを隠せない
高天神城は守りが堅く、かつては武田信玄の攻撃も防いだ城である
しかし、現状徳川の兵力は奥三河近辺に集中しており、高天神城はかなり手薄な状態であった
(しまった、また武田軍の動きに欺かれた!!)
家康の脳裏に思い起こされるのは2年前の年末、侵攻してきた武田信玄との戦いである
あの時、信玄は大軍を率いて遠江へと侵入
しかし、武田軍は浜松城に目もくれず三河に向けて西進したため、家康は武田軍の背後を突く作戦を採り出撃した
だが、武田軍を追って浜松城の北方にある三方ヶ原に辿り着くと眼前には整列し指示を待つばかりの大軍が
そう、あの時、待ち伏せを受けた徳川軍は壊滅し、命からがら逃れてきたのだ
(あれからというものの、武田軍の赤備えを見るだけで背筋が凍る・・・)
家康は武田軍恐怖症に陥っており、それは勝頼に代が変わっても同じことであった
(高天神城はそう持たない。ならば救援に向かう必要があるが、あるのだが・・・!)
家康は徳川軍単体で武田と戦う勇気が出ず、織田信長に救援を頼むことに
酒井忠次に命じて信長のいる岐阜に急使を送った
果たして、織田信長は救援に乗り出すのであろうか・・・
※人物紹介
・徳川家康:後に江戸幕府を開くが当時はまだ小さな大名であった。三方ヶ原の戦いでは武田軍の猛攻に完敗し、家臣が自ら身代わりとなって家康を逃したという。また、この時家康は恐怖のあまり敗走中に脱糞し、帰城後にしかめ像を描かせて自身への戒めとした
・鳥居元忠:家康と若き日をともにした家臣。後に伏見城の戦いで奮闘の末、戦死した
・酒井忠次:徳川四天王の筆頭格、信長との外交を担当した
・平岩親吉:徳川家重臣。豊臣政権の時に秀吉から家康の重臣数人に黄金を密かに渡されたが、平岩親吉だけが家康という主君がいることを理由にそれを辞退し家康から更なる信頼を得たという
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