奥平貞昌

 その若者、涙を吞んで気を吐く


 自らの決断、それを信じて


 もう後戻りはできない

家臣、領民、そしてこの城を守るために戦う


 それしか道はなかった



 

 時は戦国

人と人とが殺し合う弱肉強食の時代


 奥三河おくみかわの山中、二つの河川が合流する地点にある長篠城


 その本丸櫓の上に、彼はいた


 名前を奥平貞昌おくだいらさだまさ。櫓から遥か先の海をも見渡して、彼は思いを巡らせる


 (我が妻よ。愛する家族よ。君たちのためにも、この決断を意味のあるものにしてみせるからな・・・)


 彼は人質になっていた妻や兄弟と娘、息子たちを失った

理由は奥平家が離反したからである


 先日まで、奥平家は奥平貞能おくだいらさだよしを当主として武田勝頼に臣従していた

甲斐国を本拠とする武田家は信玄の代にその隣国、信濃しなの(今の長野県)や駿河するが(今の静岡県中部)を統一し、この奥三河(今の愛知県東部の山間部)をも影響下に置いた

 その武田信玄も半年ほど前に病没し武田家を継いだのが武田勝頼であり、奥平家の旧主君だ


 武田家も名将信玄が病没したとはいえ十分な戦力を持ち、優秀な重臣も控えている

ただ、貞昌は武田家の寿命が長くないことを悟り、聞き入れられないのも覚悟して父である当主貞能に離反を持ちかけた


 「さ、貞昌!今、武田家にはお前の妻子を人質に取られている。もし離反でもしたら人質全員命はない。その覚悟はあるのか」


 貞能は貞昌の予想に反して息子の説得に耳を傾け、覚悟を問う


 「はい。確かに人質全員の命はなくなります。ただ、このまま武田に従っていても武田と共々に滅ぼされるだけだと考え、覚悟の上で父上に申し上げております」


 貞昌は目をそらすことなく真っ直ぐに父の顔を見て覚悟を伝えた


 「分かった」


 「は・・・ぁ?」


 「だから分かったと言っておろう。実はわしも武田はそう持たないと考えておった。だが、人質の件もあってお前に言い出せずにいたのだ」


 貞能さだよしは膝を軽く叩いて立ち上がると、退出際に中庭を眺めながら息子に語りかける


 「かつて、わしはこの東海一帯を制する今川家いまがわけに仕えていた。その当主、義元よしもとは稀代の名将であり東海三国を手中にしていた。だが、一瞬の隙を突かれて尾張おわり一国の織田信長に敗死してからの今川家は悲惨なものであった」


 「その時、今川家は当主が死んだのみで重臣などは健在であったが、義元の力が絶大であったためにその空白を埋められず、滅んだ。わしには信玄亡き武田家にも同じ匂いを感じるのだよ」


 貞能はかつての経験を踏まえて、密かに離反を考えていたのだ

ただ、貞能が離反を躊躇していたのには他にも理由がある


 現状、奥三河は信濃から伸びる武田家と三河の大半や遠江とおとうみを治める徳川家に挟まれている

 離反して徳川家に鞍替えすると奥平家が本拠とするここ長篠城は対武田の最前線となり、武田軍の攻撃を一手に受けてしまう

 よって、貞能は離反の時期を武田家の旗色が悪くなってからと考えていたのだ


 しかし、息子である貞昌の説得により考えが変わった


 貞能はすぐに離反すると決意し、徳川家康に向けて使者を飛ばすよう配下に命じる

そして使者は徳川家の居城、遠江の浜松城へと向かい、徳川方から条件を提示された


 それは貞能を隠居させた上で人質として浜松城に留め置くということであった


 当主である貞能に隠居させて人質にするというのは酷な話に思えるが、貞能はその条件を快諾し浜松へと向かうことに


 必然的に貞昌が当主となり、長篠城を守ることになった


 貞能は家臣、領民、そして長篠城を貞昌に託して城をあとにする

なぜ、貞能は自らの考えを改めて離反の時期を早めたのか?


 その答えは次の話にて


 ※人物紹介


 ・奥平貞昌:長篠城主、貞能の後継者。子孫は後に江戸幕府で譜代大名となる

 ・奥平貞能:貞昌の父

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