駆けず引かずの長篠合戦

武田伸玄

序章

 カラスの叫び声が虚しくも響く設楽原


 犠牲となった兵たちの赤い魂が川に流れ出てはるか海へと消えていく

戦場には既に誰一人もいない


 勝者である織田、徳川の連合軍は沈みゆく太陽を背に追撃戦を敢行していたのだ



「我は馬場美濃守信春ばばみののかみのぶはる!お前らの首を挙げて冥土の土産に致さんっ」


 武田方は退却の最後尾を担う殿軍でんぐん(しんがり)の大将馬場信春が最期の名乗りを挙げる


 まもなく太陽が沈み暗くなるところで敗走すれば生き残れるわけだが、彼は逃げて生き恥を晒すような男ではなかった

 

 信春は数少ない手勢と共に敵軍うごめく中へと突入

数名を討ち取ったものの最期は槍を十数本受けて血しぶきを浴びながら絶命した


 その信春を含め戦場で攻防戦を繰り広げて散っていった数多くの犠牲者の魂は後世の人たちによって慰霊されるべきものなのだが、果たしてそれはなされているのだろうか―





 僧侶らの経文を読む声が耳を抜けて静かに消えていく


 戦場で散った同志を悼み、武田勝頼たけだかつより以下重臣らが皆、手を合わせる


 長篠の敗戦から2年が経った天正5年(1577年)、甲斐国かいのくに(今の山梨県)にて行われた戦死者を供養する三回忌法要


 当主武田勝頼は無念の敗戦、その残像を脳裏に浮かべて祈る


 (どうか、後世にあの敗戦が正しく伝わり、その奮戦を讃えられ、未来永劫に供養されますように・・・!)


 気丈に振る舞っていた勝頼もこの時ばかりは武田家の滅亡を予感し、敗者の歴史が後世にまで伝えられることを祈った

 彼は自らが死んで家が滅亡することを覚悟してあの敗戦から生きており、現実に戦況は悪化の一途である


 後世に伝えられる歴史は通常、勝者の歴史であり勝者がいかようにも捻じ曲げられるものだ

 その不変の法則に抗うことを仏に祈る、彼にできることはそれしかなかった


 しかし、その願いが叶うことはなく、遂に武田家を滅ぼした勝者の織田、徳川は真実を捻じ曲げていく

 そして徳川家康が江戸幕府を成立させる頃には、事実とかなり異なる話が流布されていた


 町人らが街角で話し合う


 「この本に書いてあるけど、武田軍っていうのはまったくの馬鹿だな」


 「ああ。あの鉄砲が並ぶところを避けずに、むしろ突っ込んでいくなんてな」


 「そんな馬鹿な敵が多かったんじゃ、賢者たる将軍様が日ノ本を治めるようになるのは当然だな」


 町人らは皆、武田軍が何も考えない猪武者の如く鉄砲隊に突入して撃たれていったと噂する

 

 勝頼の願いに反し、武田兵は馬鹿な猪武者として捉えられてろくな供養や称賛もされることなく、本年を迎えた


 天正3年(1575年)5月21日に行われた長篠の戦いから449年

よって今日(2024年5月21日)は450回忌にあたる


 本作は長篠の戦いに後世に残らぬ攻防があった事実を様々な登場人物を交えて綴っていき、勝頼や戦死者らの無念を晴らしていく


 戦場で散った者たちへ贈る。これが長篠・設楽原したらがはらの戦いの真実ぞ!


 

 ※人物紹介


 ・馬場信春:普段は冷静沈着であり堅物な武将でもある。生涯傷を負ったことがほとんどなく、不死身の鬼美濃と周囲に評された

 ・武田勝頼:甲斐国の名門武田家の20代目当主。偉大な父の後を継ぎ一時武田家を最大版図にもした

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