第5話 ストーカー

 つかさという少女は、あどけない表情をして、晃弘に質問をしてくるが、その雰囲気は、思ったよりも、重たそうな雰囲気があった。どうしてそう感じたのかというと、自分の中のかすかな記憶が、そう教えるのだ。

「自分の中の記憶」

 つまり、それは、ほのかと付き合っていた時の記憶であった。ほのかも、あどけない表情から、いろいろな質問をしてきたが、その表情に理由などなく、それだけに、重たさ軽さなどを感じなかった。

 唯一重たさを感じたとすれば、別れが近づいてきた時、何となく感じた程度で、それも、それまでに感じたことのないものだったことから、感じたものだったのだ。

 つかさに対しても、最初から感じていたのかも知れないが、徐々に大きくなっていたようで、質問に答えていくうちに、余計に感じるようになった。その質問も、まるで小学生がするような感じで、

「好奇心の塊のような質問」

 というイメージが湧いてきたのだった。

 そんなつかさに、

「どうしたんだい?」

 と聴いてしまった。

 つかさが、どんどん質問をしてくる時にはできなかったが、さすがにいずれは、質問が途切れてくるのはわかり切っていることだ。

 その隙をついてということであったが、晃弘は、つかさの表情から、

「何か、触れてほしいことがあるのではないか?」

 と思ったのも事実だった。

 どこまで話してくれるかは分からなかったが、触れなければいけないことであることに間違いはないようで、そのことが本当に分かっているのか、自分ではピンとこなかった。

 しかし、つかさを見ていると、

「何か、物欲しげな表情は、触れてほしいということに違いない」

 と感じさせるのだ。

 だから、声をかけたのだが、つかさの表情は、一層暗さを増してきたようだ。

 一瞬、

「しまった。余計なことをしたかな?」

 と思うほどの、表情の暗さがあったが、つかさの表情に、昔のほのかを思わせるところがあったのだ。

 それは、一瞬の面影であり、つかさとの共通点を、いまさらながらにいっぱい見つけた気がしたのだ。

 つかさという女の子は、

「まだ大人になり切れていない、少女の雰囲気があった」

 と感じる。

 それだけに、思い出の中のほのかを彷彿させられて、

「放っておくわけにはいかない」

 と感じるのだった。

 そう思って声をかけると、

「おじさん」

 と言って、一オクターブくらい低い声になったつかさは、

「私、どうやら、ストーカーに狙われているようなの」

 というではないか。

 さすがに、先ほどの甘えのある声が消えていることから、一オクターブほどの低さであっても、言葉の重みが結構大きいのだった。

「ストーカーというと、結構シビアな話になるんだけど、その男性に心当たりあるのか?」

 と、晃弘がいうと、つかさの表情が少し寂しそうになった。

「ええ、実は、前に付き合っていた人なんだけど、別れを告げると、それまでに見せなかった表情になって、絶対に別れないと言って、嫌がらせ的なことをしてきたのよ」

 というではないか。

 そういえば、晃弘にも、男の気持ちが分からなくもないという思いもあった。

 自分が今までに付き合ってきた女性たちのことを思い出すと、特に大学時代の、ほのかと別れてから付き合った数人に対しては、ストーカーとまではいかないが、

「納得がいかない」

 と言って、かなりしつこく付きまとったことがあったりした。

 その理由は自分でも分かっている。

 というのは、それまでほのかと付き合っていた時は気づかなかったが、

「俺は結構、気にしていないつもりでも気になるタイプで、特に後になって考える方なのかも知れない」

 と感じるようになっていた。

 だから、ほのかとの別れを、その時は、

「大人の対応」

 として受け入れたのだが、別れてからというもの、その別れに対しての後悔の念が、どんどん沸き起こってくるのだった。

「こんなことなら、もっと自分の気持ちに正直に、粘っておけばよかった」

 と感じたのだ。

 というのも、

「ほのかに対して」

 というよりも、別れたことに対しての後悔が強かったのだ。

 だから、次に付き合うことになった女性と知り合うまでに、そんなに時間が掛からなかった。どうかすれば、

「まだ、ほのかとの別れに対して、ショックが残っていた時期だったからだ」

 それを思うと、

「ひょっとすると、その時が、自分にとって、唯一のモテキだったのかも知れない」

 とも感じた。

 だが、そんなことは、後になって思い出して感じたことで、その時はわからなかった。

 だから、余計に、

「ほのかとの別れ」

 というものに、後悔があったと、後から思うようになったのだ。

 ほのかが、自分と別れてからどうなったのかということは、分からなかった。

 別れを後悔しているわりに、彼女のその後を知るのは怖かったのだ。

 だから、他の女の子に視線を向けて、敢えて、忘れようとしたのだが、そうなると、彼女ができるという、複雑な心境となることになったのだ。

 悪循環と言ってもいいのだろう。気持ちの整理ができる前に彼女ができるのだから、できた彼女とうまくいくはずもない。

 それを思うと、大学時代というのは、往々にして、

「歯車が狂ってしまっていた時期だった」

 と言ってもいいだろう。

 高校生の頃までは、そこまで感じたことがなかったが、感じたことがなかっただけで、今から思えば、やはり、何かがずれていたような気がする。

 自分の学生時代は、どこかから何かがずれてきていて、それが大きな波となっていたのではないかと思うのだった。

 それが、30歳くらいまで続き、30代の末期くらい、中年という言葉が頭に浮かんでくるようになると、自分の中で、落ち着いてきたような気がしたのだ。

 ただ、20代の後半くらいは、人生の歯車がかみ合った時期があったような気がしてきた。

 それが仕事に対しての感覚であり、20代の後半というと、自分の仕事にも慣れてきて、しかも、ちょうど、第一銭という現場中心の仕事だったので、その成果が結果という形で現れる時期でもあった。

 だから、

「頑張れば頑張るほど報われる」

 と感じたのだ。

 給料に直接反映するというわけではないが、一生懸命に頑張ったことが、結果となって現れ、上司からもそれなりの評価がもらえることは、自分の中で、

「お金に換えることのできない充実感であり、満足感だ」

 と思っていた。

 上司というのは、その頃は、

「部下に命令だけして、楽な立場だ」

 と思っていた。

 しかし、実際に自分が、今度は、中間管理職と言われる立場になると、

「本当にこれでいいのか?」

 と思えてきたのだ。

 それまでは、自分が第一線でしていた仕事は、

「やればやるほど結果が出た」

 というわけで、やりがいがあったのだが、今度の、

「中間管理職」

 というのは、

「今までやっていたことを、人にやらせてなんぼ」

 というものだったのだ。

 ということは、今までと、180度違った形になるわけであって、それを思うと、

「仕事をしていても、やりがいとなる成果が生まれてこないではないか?」

 ということだった。

 そもそも、やりがいというものが、結果だけだと思い込むことがおかしなわけで、ただ、最初に結果が出る仕事をしていたことから、そう思うのだから、しょうがないことなのだろう。

 それでも、やりがいがあって、うまく仕事ができているのであれば、それでいいのだが、そのやりがいが分からなくなると、次第に、会社にいても面白くなくなってくる。

 そうなると、余計に、

「歯車が狂い始めた」

 と思うものだろう。

 そう思って、人によっては、

「転職」

 というのを考えるようになるが、逆にいえば、

「どこに移っても、この考えが変わるわけではない」

 と言えるだろう。

 だから、晃弘はその時、転職を考えることはなかった。

 だが、不思議なことに、やりがいということを少し考えるのを辞めると、考え方が変わってきて、仕事をするのが嫌ではなくなった。

 会社の人に言われたことがうまくいかなかったわけではなく、何とか仕事ができるようになってきた。

 それは、きっと、

「慣れなのだろう」

 と感じるようになった。

 それまでは、

「実績と結果がすべてだ」

 と思っていたが、

「人にやらせる」

 ということで、出てきた結果は、

「すべてが、現場の人間の成果だ」

 と思ったからで、それは、

「自分がそれまでに感じたことを否定したくない」

 ということの表れだったに違いない。

 だが、少し冷静になって考えると、

「後輩が残した成果」

 というものは、自分の操縦術から来るものであり、それが中間管理職の仕事だと思うと、今度は、上司から降りてきた案件をまとめることもできるようになってきた。

 つまり、

「上司からの案件を、現場にいかに分かりやすく伝授するか?」

 ということであり、それができるかできないかで、大きく仕事が別れてくるというものであった。

 それは、

「部下の仕事が、モノを作るという、工場の過程であり、自分たちの仕事が、その設計図を作る」

 というものだとすれば、

「設計図がまともにできないと、すべてが瓦解する」

 と考えると、自分たちの仕事がどれだけ大切かということも分かる。

 それが、係長や主任の仕事であった。

 そこから、今度は、部長、課長クラスになると、その設計図を係長がうまく作れるようになるための。

「企画、立案」

 が仕事となってくるのだ。

 もし、顧客からの依頼があって、それを最後に納品するところまでであれば、まずは、相手との折衝が必要になり、設計する際の、必要な要件が問題になってくる。

「どのようなものを使って、いかに進めていくか?」

 ということである。

 そのためには、問題はさらに大きなところが絡んでくる。

 というのも、

「お金の動きが発生する」

 ということだ。

 つまりは、会社のためになるものとして、最終的に、

「利益」

 というものを生み出すことが必要だ。

 ということになるわけだから、当然、

「必要経費」

 という問題も絡んでくる。

 実際に、かかる経費と、売り上げ見込みを考えて、そこからの損益を考える必要が生まれてくるということになる。

 そんなことを考えていくと、

「社会の仕組みがどのようなものなのか?」

 ということが、次第にのしかかってくるのが、課長以上で、会社でいうところの、いわゆる、

「管理職」

 というところであろうか?

 たとえが悪いかも知れないが、相撲などの番付でいえば、

「三役以上」

 というところになるのかも知れない。

 そこから、部長以上が、

「大関クラス」

 であり、取締役ともなると、

「横綱クラス」

 と言ってもいいかも知れない。

 ただ、番付という意味での発想なので、それがどのように影響してくるかということは、それぞれの立場からしか分からないところなので、下手をすれば、

「交わることのない平行線」

 を描いていくだけのことになるのであろう。

 そんなことを考えてみると、

「俺にとって、出世って何なのだろう?」

 と思える、

「慣れ」

 というものだけで、役職をこなしていけるほどではないだろう?

 もちろん、相撲界だって、弱肉強食の世界。

 ケガもあれば、スランプもある。

 さらには、

「運」

 というものも影響してくることだろう。

 それを思うと、

「いかに頑張ればいいのか?」

 ということになるに違いない。

 さて、そんなことを思い出していると、目の前のつかさが、

「ストーカーに怯えている」

 と聞くと、自分も、まだ今のように、

「ストーカー」

 なる言葉が流行ってくる前の状況を知らなかったことを思えば、

「結構、それに近いことをしていたかも知れないな」

 と思った。

 相手が、急に連絡を取ってくれなくなると、不安になって、彼女の大学や働いているところの影に隠れて、出てくるのを待ち伏せしていたものだった。

 今では一発でアウトなのだろうが、その頃は、まだストーカーなる言葉が、世間一般になっていなかったことだっただけに、

「果たして、どう考えればいいのか?」

 ということだったのだ。

 そういう意味で、相手の女の子は、当然、

「気持ち悪い」

「怖い」

 と、今の女の子のようなことを感じていたのだろうが、男の方とすれば、

「相手が連絡を取ってくれないのだから、どうやってでも、会って話をするしかない」

 と思うことのどこが悪いというのだった。

 だから、

「話ができるまで、いつまでも待つ」

 と思うのだし、相手が、

「そんなに私のことを思ってくれているんだわ」

 と感じてくれれば、このような行動も報われるのだろうと勝手な思い込みをしているに違いなかった。

 それを思うと、

「男と女の感じ方はまちまちだった」

 ということになるのだろうが、それ以上に、

「今から思えば、明らかなストーキングをしていた自分が、怖く感じてしまう」

 というのが、怖かったのだ。

 だが、それを思うと、つかさが、

「私、ストーカーされているみたいなの」

 という言葉に、いかに反応していいのか分からない。

 昔の自分を棚に上げて、

「そうだ。ストーカーというのは、犯罪なんだ」

 と言ってもいいのだろうか?

 そんな風に考えてしまうと、何も言えなくなりそうで、怖かったのだ。

 だが、

「何とか話ができるようになった」

 と言ってもいいのだが、彼女の話を聴いていると、

「前に付き合っていた彼氏」

 だということなので、

「自分に似ているけど、モノが違う」

 と思うのだった。

 自分の場合は、今から思うと、

「彼氏と呼ばれるところまでは行っていなかった」

 と思うのだった。

 だから、相手は、

「自然消滅」

 を狙ったかのように、

「フェイドアウト」

 を考えたのだろう。

 もし、

「元カレ」

 という状態であれば、フェイドアウトというわけにはいかない。

「相手を納得させる」

 ということが重要だということになるのだろう。

 それを考えると、

「俺とは違う」

 ということになる。

 元カレということは、付き合っていたという意識が彼女にあるわけで、当然、キチンと別れたという気持ちがあるにも関わらず、追いかけられるから怖いのだろう。

 そう思って、

「その元彼とは、ちゃんと別れたんだよね?」

 と聞くと、

「ええ、そうです。話し合って別れました」

 というではないか。

「それなのに、しつこく付きまとってくると?」

 と聞くと、

「ええ、そういうことになります。私怖くて怖くて」

 と言いながら、二サイズくらい小さくなったように見える彼女の震えているその姿が、少し気の毒に見えるくらいだった。

「大丈夫なのだろうか?」

 と、まるで、雨に濡れ放題で、震えている子猫のように見えて、その目がうつろに見えることから、

「俺が何とかしてやりたいな」

 と、晃弘は感じるのだった。

 そして、実際に、

「何とかしてやろう」

 という言葉が出かかったのも事実だった。

 それでも、声にできなかったのは、勇気がなかったからで、勇気を出すには、何か、背中を押してくれるものがなければ難しいように思えたのだ。

「相談できる友達とかはいるの?」

 と聞くと、

「親友がいるんですけど、なかなか、相手も忙しくて。それに……」

 と少し言葉を濁したので、

「それにとは?」

 と聞くと、少し恥ずかしそうに、モジモジしながら、

「私、精神疾患の病気を持っているんです」

 という。

「どういう病気なの?」

 と聞くと、

「双極性障害であったり、パニック障害。それに、自律神経失調症の気もあると言われたの」

 というではないか。

 一つ一つの病名は聴いたことはあったが、それらが、一つの身体に存在しているということを考えると、怖くなるのだった。

 一つであれば、まだ何とか大丈夫なのだと思うけど、いくつもあるとなると話は変わってくる。

 少しショックというよりも、思ったよりも病気が多いことで、余計に、

「自分に何かできることはないのか?」

 と感じたのも事実だった。

 と言ってお、晃弘は、別に

「勧善懲悪」

 というわけではない。

「昔好きだった人に似ているから」

 というのが大きな理由で、

「あの時に、できたかも知れないことを、彼女にしてあげられればいいな」

 という思いもあった。

 さらに、

「俺は彼女のことが好きなのかも知れない」

 と思って接していると、

「お慕いしています」

 というようなことを、こちらが、

「助けてあげたい」

 という態度に出ると、口にして言い出したことで、有頂天になってきたのも、悪かったのかも知れない。

 そして、それから二人は急速に、接近していって、付き合っているような気分になっていた。

 それは、晃弘の側には言えることであったが、果たして、つかさの方が、どう感じていたというのか、正直分かっていなかった。

 一つ気になったのが、

「自分がマインドコントロールされているのではないか?」

 と感じたことだった。

 しかし、以前に、マインドコントロールされて、

「これはまずい」

 と思った時のことだが、

「また同じようなシチュエーションになった時、同じことを繰り返すのではないか?」

 と思うと、

「繰り返すんだろうな」

 と感じたことだった。

 それは、自分では、

「悪いことだ」

 とは思わないので、

「やっぱり、同じことを繰り返すことを悪いとは思わない」

 のだった。

「それはそれで仕方がない」

 ということであり、それを考えると、最初はそうでもなかった、つかさという女の子が、いとおしく見えてくるのだった。

 その時の自分に、

「独占欲」

 というものがあったのかどうか、正直分からないのだった。

 だが、今までの恋愛経験から、

「独占欲」

 というものが存在し、その思いが、

「ついたり離れたりする」

 という感覚に、大きな影響を与えているということを分かっていた。

 やはり気になるのは、彼女の中にある、

「精神疾患」

 であった。

 しっかりと、寄り添っていきたいという気持ちがあるのは間違いないのだが、それ以上に、

「自分には、精神疾患の人の相手をしたことがないので、どう寄り添っていけばいいのか分からない」

 という気持ちがあることだった。

 それは当たり前のことで、本人にしか分からないことがあるのは、誰であっても同じだが、

「寄り添ってくれている人が、自分の気持ちを分かってくれるのかどうか分からない」

 ということであれば、どうすればいいのだろうか?」

 いや、晃弘には、それ以上に気を病んでいるものがあった。

 それが、前述の、

「独占欲」

 であり、特に相手から、

「お慕いしております」

 であったり、

「大好きだ」

 などと言われて、自分の気持ちが盛り上がってしまった時など、

「どうしていいのか分からない」

 という気持ちになるというものだ。

 確かに、

「相手に精神疾患がある」

 と言われると、自分がなったことがなかったら、

「相手にはかなわない」

 という思いから、ほとんどの人は、

「君子危うきに近寄らず」

 と考えることだろう。

 しかし、

「放ってはおけない」

 という、晃弘のような人間には、結構寄ってくるというもので、それを考えると、

「同じシチュエーションになっても、また同じことをするかも知れない」

 と思うのだ。

 さらにもう一つあるのは、

「晃弘という男は、嫉妬心が強い」

 ということであった。

「独占欲」

 であったり、

「嫉妬心」

 が強いということであったりすれば、どういうことになるのかということも目に見えてきそうな気がする。

 精神疾患に対応するように、なるべく怒らせることがないようにするのは、何とか自分を自制することでできると思うのだが、相手が、誰かの話を聴いたり、先に進もうとして、誰かを頼ったりするのを見るのは、耐えられるものではないということである、

 それだけ嫉妬心が強いということで、しかも、他の人に頼っているということは、

「何も俺じゃなくてもいいんじゃないか?」

 と思うことで、実際に耐えられなくなるのではないか?

 と考えることだった。

 彼女が元々、自分に惹かれたのは、

「同じ趣味を持っている」

 ということが彼女には見えたからであった。

 晃弘は、あまり自分から趣味のことを人に話したりする方ではなく、年齢ということからも、

「プロになるのは、諦める」

 と思っていたのだ。

 晃弘の趣味は、学生時代から変わっておらず、小説を書くことだった。

 だから、つかさには、晃弘が、

「趣味で小説を書いている」

 というのが分かったのだろう。

 つまり、趣味で書いている小説であるのだったが、晃弘の場合は、

「俺は、もうこの年だから、別にプロになりたいという感じはないのだ」

 ということであった。

 しかし、つかさは違っているようだった。

 まだまだ若いということもあって、

「これから、自分の作品を書いて、そして、ブランディングをすることで、プロとしてやっていく」

 という目標があった。

 それはそれでいいのだが、晃弘には複雑な気持ちだったのだ。

 晃弘が一番ネックだったことに、

「自分が、彼女の病気を分からないのではないか?」

 ということであった。

 確かに、いろいろネットで検索して、いろいろ見たりしたが、言葉が難しくて、何がいいたいのかが分からない。

 一生懸命に勉強しようという意思はあるのだが、それが空回りすることが、本人としては、苛立ちに繋がるのだった。

 しかし、そうは言っても、彼女と付き合っていく以上、

「こちらが腹を立ててはダメなんだ」

 という気持ちから、なるべく、

「相手が怒らないように考えよう」

 と思っているのだった。

 そして、彼女の言っていることで、気になることがあっても、

「決して逆らわない」

 ということに終始するしかなかったのだ。

 大鬱に入った時などは、

「前の日と、今日とで、まったく違うことを言っている」

 ということもあったり、下手をすれば、

「同じ日でも、辻褄の合わない話をしている」

 ということもあったりする。

 だから捉えどころがないので、こちらも、戸惑うしかないのだ。

 一つビックリしたのは、

「私は、お前って言われるのが嫌なの」

 という。

 最初は、

「病気だからかな?」

 と感じたが、どうもそうではないような気がする」

 というのは、

「さげすまれているように聞こえるから」

 ということで、これは彼女の疾患によるものではなく、単に、

「人から下に見られることを嫌っているということであり、確かに元々の原因は、病気にあるのかも知れないが、そういうことではなく、どちらかというと、プライドが許さないのではないか?」

 ということだと思えてならなかった。

 その気持ちも分からなくもないが、それを精神疾患と同じだと思って見ていると、痛い目に遭いそうな気がする。

 言動や性格を、疾患と切り離して考えなければいけないところは、しっかり見て行かないといけないのだと思うのだった。

 そういう意味で、

「耐えなければいけないところは耐えて、しっかり見なければいけないところは見ないといけないので、その切り分けが難しい」

 ということであった。

 さらに、もう一つの懸念であったが、実はこっちの方が難しいといえるのではないだろうか?

 というのは、こっちの問題は、つかさ側の問題ではなく、

「晃弘本人の問題」

 ということなので、

「自分のことであれば、これほどややこしいものはない」

 ということになるだろう。

 ということは、どういうことが言えるのかというと、

「自分の生活を、相手に合わせなければいけない」

 ということであり、これは結構厄介なことであった。

 相手は、こちらが合わせてやっていることを分からない。下手をすれば、

「合わせてもらうのが、当然」

 とでも思っているのではないだろうか?

 晃弘は、つかさと同棲まではしていなかった。

 彼女が一人暮らしであるということは知っていたが、そのほとんどは、

「つかさの言っていることを、すべて信用して」

 ということだったのだ。

 晃弘は以前、マインドコントロールを受けたこともあったので、その時の気持ちも分かってのことか、

「なるべく疑ってはいけない」

 と思うようにもなっていた。

「全然反省していないではないか」

 と言われるかも知れないが、どうしても、そっちの道に入り込むのは、

「また同じことを繰り返す」

 という心境を物語っているのかも知れない。

 晃弘にとって、つかさと一緒にいる時は、

「俺が何とかしてやる」

 という気概を持って接していた。

 正直、つかさの生活のほとんどを、晃弘が面倒みていた。

 家賃だけは、司が払っているようだが、それは、引き落としなのでしょうがないのだろうが、それ以外の細かいところは、そのほとんどを賄っていた。

 食費であったり、光熱費など、すべてをまかなっていたのだ。

 それなのに、部屋に行くことはあったが、泊ることはなく、つかさは、

「男の人と一緒にいるのが怖い」

 というが、それも本当に病気のせいなのか、怪しいものであった。

 それを考えると、

「俺は本当は騙されているのではないか?」

 とも思ったが、最初に好きになってしまったものの負けと言えばいいのか、

「騙されているとしても、それでいい」

 と思うのだった。

 やっぱり、

「同じシチュエーションになっても、やることが同じだ」

 ということになるのだろう。

 それを思うと、

「俺ってバカなんじゃないか?」

 と思い、

「俺は騙されて、貢がされてるだけなんだ」

 と思うと、悔しくもあったが、これくらいのことで辞められないという思いもあったのだった。

 ただ、晃弘は、そこまでは許せても、それ以上は許せないというところもあった。

 というのは、

「つかさが、小説家のプロになりたいということで、自分をプロデュースしているところまでは応援してあげようと思うのだが、それには、自分の中で許せないところがあるのだった」

 というのも、

「彼女には、プロデュースのための後援者のような人がいて、つかさもその連中を頼りにしているようだった」

 それを見ていると、だんだん耐えられなくなる、晃弘がいた。

 ある時、つかさが、その人たちのプロデュースの元で、

「これから、私はその人たちと頑張っていこうと思う」

 と言った時、晃弘の中で、

「何かが、弾けた気がしたのだ」

 というのは、

 その連中のことをつかさが、

「その人たちに委ねている」

 という言葉を聴いた時だった。

 どうもつかさには、昔からの親友がいて、晃弘と知り合う前は、その人を頼っていたという。

 その人も同じようにつかさが、

「自分の道を掴もうとしているところを邪魔されている気がする」

 と言っていたのである。

 そして、そのプロデュースを行っている人のことを聴くと、

「どうやらプロのようだ」

 というではないか。

 そして、

「その人はつかさの病気のことも知っているのか?」

 と聞くと、

「その人も、パニック障害を乗り越えてきた」

 というのだ。

 そして、つかさが、

「親友に、邪魔されている」

 というようなことを言うと、その男が、

「それは嫉妬からではないか」

 と言ったという。

 晃弘はそれを聴いて、完全に何かが切れた気がした。

 そう、自分だって、同じように嫉妬している。それは、

「自分から離れて、そっちの方に委ねようとしていることに腹が立っているのだ。しかも、生活まで面倒見ているという自負もあるので、完全に裏切られたかのような気がしたのだ」

 正直、嫉妬という言葉を口にしたので。

「その人は、本当に医者のいうことを聴いて、克服したのか?」

 と聞くと、

「その人は、医者と意見が合わずに、自分の考えで克服した」

 というではないか。

 話を聴いていると、危険な気がした。

 その男は、自分の経験を誰にでも当てはまると思い込んでいるのではないかと思ったからだ。

 ただ、晃弘にとって、何が苛立つかというと、

「つかさが、自分ではない。しかも、同じ疾患を持った人を頼り出した」

 ということであった、

 これは、正直、

「嫉妬心から来ているやっかみだ」

 ということはわかっている。

 だが、今のままでは、

「つかさは、自分の知らない世界の自分と同類の人の中に入り込んで、手が出せなくなるのではないか?」

 と思うと居たたまれなくなる。

 このような、嫉妬心を抱いてはいけないのだろうか?

 確かに、こちらは年を取っていて、まるで娘と言ってもいいくらいの年齢の女の子に嫉妬するなどというと、

「気持ち悪い」

 と言われることだろう。

 しかし、実際に、彼女から、

「慕っている」

「大好きだ」

 と言われて一緒にいるのだから、

「自分が悪い」

 ということであれば、

「いや、俺は騙されたんだ」

 ということになるのではないかと思うのだった。

 話を聴いているうちに、

「どれが本当の話なんだ?」

 と思ってきた。

 確かに、精神疾患の人の気持ちが分かるわけではないので、それも分かっている。さらに、相手が何を考えているかということも分かるはずもない。

 だから、遠慮気味になるし、相手の話がどこまで信じていいのかが、疑問でしかなのだ。

 そんな相手に、精神疾患の仲間がついてしまうと、

「俺ってなんだったんだ?」

 ということになる。

 しかも、

「多勢に無勢」

 ということであり、一人取り残された気分になるのだ。

 そうなると、

「自分たちの領域を犯した連中が許せなくなる」

 というものだ。

 意識をさかのぼらせると、

「どこまでが本当のことなのか?」

「どこまでが本当の意識なのか?」

 ということである。

 しかし、だから言っても、すぐにつかさを許せなくなるわけではない。

「惚れたものの弱み」

 ともいえるのだが、少なくとも、

「信じよう」

 とした相手のはずである。

 好きになったことには変わりはないのだ。

 だから、確かにイライラしても、嫌いになりかかっても、本当に嫌いになれるのかどうか、自分でも分からない。

 ただ、このまま嫉妬心を抱いていく中で、気持ちを中途半端にしたまま、付き合っていけるのかどうかを考えると、

「もし、今回は何とかなっても、次回にも同じようなことがあると、今回のように耐えることができるだろうか?」

 と考えてしまうのだ。

 つかさが、謝ってくれれば、たぶん、許してしまうだろう。

 しかし、今後も似たような苦しみと、ずっと味わっていかなければならないのかと思うと、

「ずっと、このまま同じことを繰り返すことになるのだろうか?」

 と考えてしまうと、いつまで耐えられるか? という、

「負のスパイラル」

 が生まれてくるに違いないのだ。

「負のスパイラル」

 というのは、螺旋階段のようなもので、

「どんどん、長引けば長引くほど、疲れが増してきて、逃れられない、底なし沼の中に落ち込んでいるかのようだ」

 と思うと、この螺旋階段と似たところがあるのを感じさせるのだった。

 そんな底なし沼には、足を引っ張る妖怪がいる。その妖怪、

「正体は河童なのだろうか?」

 河童というと、可愛らしいというイメージがあるが、実際には、その恐ろしさは、

「生き胆を食う」

 というような話もあったりするではないか。

「河童が魑魅魍魎であれば、自分を苦しめているものの正体は、本当に、魑魅魍魎と言えるような妖怪なのかも知れない」

 と感じるのだった。

 水の中から、脚を引っ張られるというような、怖い夢を、昔見たことがあったような気がする。

 どのような夢だったのかということは、正直分からないが、その恐ろしさは、

「一度入れば抜けられない」

 ということで、今の自分を表しているような気がするのだった。

 それは、

「つかさをまだ愛しているということに変わりはない」

 と思っている自分がいるということだった。


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