3-2
長い沈黙が続いていた。
日曜日の朝。義務感のように家族と朝食を食べ、そそくさと部屋に退散した後は何もすることがなかった。
予定が一切ないことも、退屈なのもいつも通り。だけど今日の憂鬱の原因はそれではない。明日は自称陰陽師の子孫である篠塚が告げたタイムリミットなのだ。
彼は「一週間待つ」と言っていた。要するに明日、由羅を退治するために再びやって来るのだ。
私は床に座ったまま、ベッドに横たわる由羅に目を向けた。彼女はリラックスした様子で布団に包まっており、すぐそこに死が迫っている危機意識は感じられない。
「ねえ、由羅。本当に大丈夫なの?」
ここ数日、何度も繰り返している問い掛けに対し、由羅は目を閉じたまま頷いた。
「大丈夫よ。まあ、なんとかなるでしょう」
本当だろうか。とてもそうは思えない。
でも、由羅はいつも曖昧にはぐらかすばかりで、まともに答えてはくれない。何か秘策はあるのだろうか。もしあるのなら話してくれてもいいのに。
私は由羅が目を閉じているのをいいことに、少しだけ恨みがましい目で睨む。彼女は私に何も教えてくれない。いつも高いところにいて、どこか遠くを見ている。
篠塚は勘違いしていたが、私は決して脅されてもいないし洗脳もされていない。ただ本心から一緒にいたいのだ。だから、由羅も私を頼ってほしい。もっと私を見てほしい。
そこで由羅がパチリと目を開けたので、私と目が合ってしまう。
「あ、その……」
感情を見透かされた気がしてたまらず顔を背ける。
そのまま体育座りの格好となり、自分の膝小僧をぼんやりと見つめる。
もし明日、篠塚が現れたら由羅を殺そうとするだろう。彼の目は本気だった。由羅が死んだら私も死ぬらしい。それは仕方ないと思うけれど、でも。
――このままじゃダメだ。
私は意を決して立ち上がると、由羅に真っすぐ向き直った。
「由羅、今日は一緒に出かけない?」
訪れたのは電車で一時間ほどの距離にある遊園地だった。
たしかここに来たのは小学校の遠足以来だ。入園ゲートをくぐって最初に飛び込んできたのは、溢れんばかりの人波。日曜日ということでどちらを向いても家族連れとカップルが目立ち、賑やかな歓声と陽気なBGMに軽く吐き気を催す。
「大丈夫? 具合悪そうだけど?」
通路の真ん中で突然立ち止まった私を振り返り、由羅が小首を傾げる。
――ああ、そうだ。私には由羅がいるんだ。
私は群衆の波に呑まれてパニックを起こしそうになったが、彼女の姿を見てどうにか落ち着きを取り戻した。そもそも自分から誘っておいて、やっぱり帰るなんてシャレにならない。
「ううん、平気。由羅こそこういう所大丈夫なの?」
「アタシは大丈夫よ。むしろ楽しみだわ。一度来てみたかったのよね」
由羅は子供のように無邪気な笑顔を浮かべ、こちらの手を取って早く行こうとせがむ。
こういうギャップが可愛らしいと思う。普段は達観していて人間を超越している感じなのに、現代文明に触れたときだけ子供のように夢中になる。普通の人間と付き合っていたら絶対に味わえない感覚だ。
由羅は私があげたワンピースの裾をふわりとなびかせながら、先へ先へと進んでいく。私は繋いだ手の温もりに目を閉じ、胸に去来する不安に蓋をした。
――明日のことは分からないけれど、今日は目いっぱい楽しもう。
最初にやって来たのは、この遊園地の名物ともなっているジェットコースターだ。広大な池の上を縦横無尽にレールが走っており、近くから見上げるとやはりちょっと怖い。
ここは一番人気のアトラクションだけあって、順番待ちの長い行列ができていた。仕方なく列の最後尾に並んで待っていると、数分おきに頭上のレールを赤い車両が猛スピードで滑走していく。その度に乗客の悲鳴が聞こえてくる。
「なんか、凄い迫力だね?」
「そうねえ。早く乗りたいわ」
由羅は車両を目で追いながら、うずうずしている様子だ。そういえば以前、自転車の後ろに乗せたとき、やたらスピード上げさせたがっていたことを思い出す。彼女はこういうスリル系が好きなのだろうか?
「お次のお客様どうぞー」
二十分ほど待って、いよいよ私たちの順番になった。
にこにこ笑顔を振りまくスタッフのお姉さんに誘導され、ジェットコースターに乗り込む。
「お二方は一番前の席へどうぞー」
車内は二人ずつ並んで座る形式となっており、私と由羅は最前列となった。そう、彼女は今日は姿を消していないのだ。由羅が私以外の一般人から普通に話し掛けられるのが、なんだか不思議な感覚である。
胸の前に安全バーが下ろされ、それを興味深そうにペタペタと触っている由羅。その横顔に愛おしさが込み上げてくる。もっと色々教えてあげたい。もっと側で見ていたい……。
迷いはあったが、やはり今日はここに来て正解だったと思う。
普通の人なら明日に備えて何か対策を講じたり、準備を整えたりするものなのかもしれない。だけど私は普通ではないし、由羅も焦ってはいない様子だった。ならば、今できること、したいことをするべきだ。
明日どうなるか分からないなら、残された今日を楽しむ。前向きなようで極めて怠惰な発想に至ったのは、私の生来の気質だから仕方ない。そして、今したいことは由羅と色々な思い出を作ること。
決して口にできない欲求は、やがて動き出した車両によって霧散した。
ジェットコースターは弄ぶようにゆっくりと坂道を登っていき、視界がどんどん高くなっていく。まだ登るの? もういいんじゃない? と、こちらの不安が最高潮に達したところで、糸が切れたように頂上から一気に加速して坂を下っていく。
右へ左へと急カーブが連続する。その度にバーにしがみつき、遠心力で外に投げ出されそうになる身体を必死に支える。想像よりずっと怖い。
私は悲鳴を上げることすらできず、ただ歯を食いしばって隣の由羅に目をやる。彼女は実に愉快そうに笑いながら両手を上げ、全身でこのスリルを楽しんでいるようだ。
子供のように純粋な笑顔。それが見られただけで私は満足だった。
その後、レストランで一緒にオムライスを食べた。食後のデザートのアイスを幸せそうに食べる姿が可愛らしかったので、私の分もあげた。
動物との触れ合いコーナーに行ったら、羊もアルパカもなぜか由羅を見たら声を上げて逃げ出して、係員のおじさんが慌てていた。
全てが愛しく、尊い時間だった。
日が少しずつ傾き始めた頃、私たちは最後に観覧車に乗ることにした。
ゴンドラに乗ってゆっくりと天へ向かって進み出すと、さっきまでの喧騒が嘘のように
今日は楽しかった。すごく楽しかった。だからこそ、改めて分かった。私は由羅と離れたくない。ずっと一緒にいたい。
――言わなきゃ。
ふたりきり、誰にも邪魔されない今だからこそ、伝えなくてはならない。
私は深呼吸して、由羅の顔をまっすぐ見つめる。
「由羅」
「なあに?」
いつものようにこちらをのんびり振り返り、にっこりと小首を傾げる由羅。胸がチクリと痛む。心臓を甘噛みされたような、切ない痛み。
「……私は、由羅に死んでほしくない。由羅が過去にどんなことをやったのかは知らないし、誰かに恨まれたり追われたりしてても構わないよ」
不思議そうに私の目を見つめる由羅がもどかしく思える。どうして気持ちってうまく言葉にできないのだろう。
私は唇の震えを抑えるよう、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。
「由羅、私と一緒に逃げようよ。私は世界がどうなったっていい。由羅は私を救ってくれた。たとえあなたが妖怪で、大昔に大勢の人間を殺したのだとしてもいい。私はずっとあなたと一緒にいたい」
顔が赤くなるのを自分でも感じた。全身が熱くて視界さえ覚束ない。
ゴンドラの窓から差す西陽がやたら眩しくて目を塞ぎそうになる。ダメだ、由羅が見えなくなる。そんなのは嫌だ。
気が付けば私の両目から涙が零れていた。そんなつもりじゃなかったのに、どうして?
必死に目をこするが、涙は止めどなく溢れてくる。私は嗚咽しそうになるのを堪えるのに精いっぱいで、それ以上何も言えなかった。
すると、由羅がふわりと身体を浮かせ、私を抱きしめた。
目元を拭う私の手を掴んでゆっくり下ろすと、代わりに私の頬にキスをした。そのまま舌で涙を拭い、閉じた目元に再び口付けをする。
全身硬直し、顔から火が出るほどの熱を感じながらただ由羅を見つめる。吐息がかかる距離で微笑む彼女は、いつものように穏やかで清らかで優しくて。
世界から隔絶されたふたりだけの空間で、由羅の甘い囁きが聴こえる。
「大丈夫よ。アタシは人間の願いを叶える神なのだから。茜がアタシと共にいることを願えば、必ずその願いを叶える。だから安心しなさい」
その言葉にどれだけの説得力があったのだろう。私は決して納得も安心もできなかったが、それ以上何も言えなかった。
由羅を失いたくない。だけど、中学生の自分が由羅と共に逃げながら生きていくことなんてできやしない。お金もないし、働くこともできない。全て分かったうえでの諦めに等しかった。
もともと私は死ぬつもりだった。だから死ぬことは怖くない。むしろ由羅と共に死ねるなら本望だ。
もちろんそんなこと言えないし、言うつもりもない。私は自嘲的に笑い、もうすぐ近付いてくる地上に向けてため息を零した。
赤い夕日に染められた帰りの電車内。比較的空いている座席に座ったまま、ぼんやりと今日一日を振り返る。
由羅と一緒に遊園地で遊んだ。文字にするとたったそれだけのことであり、もし私がまだ小学生だったら絵日記にもそう書いただろう。
だが、今日は頭と心が破裂しそうなほど多くのことを考えた。由羅がいなくなってしまう恐怖と、自分自身が死ぬかもしれない不安。
色々なことが頭に浮かんでは消えつつ、でも由羅と一緒に時を過ごすことがとても心地良くて幸せで、できたら明日も明後日もこうしていられたらいいなとワガママなことを思ってしまう。
薄々感じてはいた。呪いで他人に復讐を望んだ自分が本来、おめおめと生き永らえていてはいけないと。私はいずれ裁かれるのだと。
だからそれは仕方ないと思う。でも、由羅と離れ離れになることだけは嫌だ。それは全世界を敵に回しても拒絶する。だって、由羅のいない世界になんてなんの価値も無いのだから。私を唯一救ってくれた存在。彼女が神でも悪魔でも妖怪でも、それは変わらない事実。
私は普通の人間としては生きていけない。友達とお喋りして仲良く遊んで彼氏なんか作って、将来は結婚して子供を産んで母になる。そんな未来になんの意味があるの? 私はなんのために生きているの?
いつもの思考の迷路に陥る。なんだか魂まで抜け落ちそうな疲労感。何も考えず、このまま眠ってしまいたい……。
まどろみの中、電車が揺れた拍子に隣の人の肩に頭がぶつかる。
「あ、ごめんなさい」
反射的に謝りつつ目を向けると、隣に座っていたのは由羅だった。そういえばそうだったか。そんなことすら気付かないほど、私の心はすり減っていた。
「いいのよ。ゆっくり休みなさい」
由羅が私を抱き寄せ、にっこり微笑む。
――これだ。この顔だ。
体内にこびりついた、醜悪な世界の毒素が浄化されるのを感じた。美しい。尊い。温かい。
私は由羅の肩に頭を乗せ、ゆっくりと目を閉じる。
由羅はその存在、その言動全てが、ただそれだけで私の救いだった。掃き溜めに咲いた一輪の花の如く、薄汚い世界で唯一穢れなき私の光。道標。
「由羅……好き……」
無意識にそんな言葉が自分の口から出てハッとする。
聞こえてしまっただろうか。寝言のように自然と口を衝いた言葉の行方に内心焦る。
でも、まあ、いいか。そんなことよりも、この心地良い時間が終わってしまうことのほうがもったいない。
私は由羅に身体を預け、そのまま眠りについた。夢の中で彼女はずっと、私の頭を撫でてくれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます