3-3

 その日、いつも通りに学校へ行き、いつも通りの授業を受け、いつも通りの帰り道。

 青々とした水田の合間の道を、由羅とふたり並んで歩く。遮るものの無い青空から降り注ぐ陽光が、用水路の流れに合わせてキラキラ踊っている。

 こんなに穏やかな日なのに、朝からずっと気が重かった。理由はもちろん、篠塚がいつ現れるか不安で仕方なかったからだ。今のところ姿を見ていないが、できたらこのまま現れないでほしい。

 隣を歩く由羅も今日は思うところがあるのか、最初に出会ったときに着ていた着物姿である。彼女の下駄の響きに懐かしさを覚える。

「由羅、本当に大丈夫なの?」

 くどいとは分かっていても、聞かずにはいられない。もう不安でどうにかなってしまいそうなのだ。今日一日が終わるまでこの胸の鈍痛からは解放されないだろう。いや、たぶん篠塚との問題が解消されない限り一生それは続くと思う。

「ふふ。心配?」

 由羅は地面を見て微笑んだまま、そんなことを言う。

「当たり前でしょう?」

 ついカッとなって声を上げてしまう。どうして私の想いを分かってくれないのと、詰ってしまいたくなる。

 すると由羅は私の手を握り、こちらを見据えた。

「だったら信じなさい。信じて、願いなさい」

 久しぶりに聞く、毅然とした声音。怒らせてしまったかと一瞬不安になったが、由羅はまっすぐ目を見て諭すように続けた。

「言ったでしょう? アタシは人の願いを叶える神だと。神は何も望まないの。人が神に望むの。だから、茜が望んでくれさえすればアタシはなんだってできる。だけど、お前がアタシを信じず不安になっていたら、望みは叶わないわよ?」

「由羅……」

 胸が熱くなって言葉にならなかった。

 昨日、観覧車の中で言われた由羅の言葉の意味がようやく分かった気がする。篠塚も信仰がどうたらと言っていたが、神は人の信じる心が力の源なのだ。

 由羅が実際神かどうかはよく分からないが、私が信じないでどうする。そうだ、私は由羅を信じる。皆が由羅のことを妖怪だ悪魔だとそしっても、私だけは信じる。

 私は腹の底に渦巻く不安を塗り潰すように決意を新たにした。


「……来たわね」

 ふいに由羅が険しい顔をして呟いた。

「え?」

 ハッとして振り返ると、一瞬自分の目を疑った。

 なんと周囲に広がっていた水田も水路も唐突に消え失せ、辺り一面が深い森となっていた。

「え? ここ、どこ?」

 どこかの山だろうか。どちらを向いても青々とした木々と雑草が生い茂り、ついさっきまで歩いていた田んぼ道も無くなっていた。代わりに、私たちの周りの半径二十メートルくらいの間だけ草木が生えておらず、地肌がむき出しとなっている。

 ひょっとして、鎮守の森だろうか。でも、少なくとも由羅が封じられていた場所とは違う。だって、私たちのいる開けた空間は木々の間に渡されたしめ縄で仕切られており、こんな異質な場所は見覚えがない。

「ようこそ、俺の世界へ」

 森の中から高らかな声が響き、思わず身構える。

 声のしたほうへ目を向けると、しめ縄の間からヌッと人影が現れた。

 案の定というか、声の主は篠塚之影であった。ただし、今日はスーツ姿ではなく、神社の神主のような黒の装束を着ていた。烏帽子は被っていないが、以前よりもよほど陰陽師らしい格好である。

「ちょっと、ここはどこ? どうして私たちがこんな所に?」

 私はわけが分からず篠塚に詰問する。彼は冷たい目でこちらを一瞥してから、小さく首を横に振った。

「その様子だと、俺の忠告は無駄だったようだな」

「質問に答えて」

 私は恐怖心に身を竦ませながらも、必死に声を振り絞った。こんなわけの分からない状況に陥って、好き勝手されるのは御免だった。

「ふん。ここは俺の作った結界だ。ここなら誰にも邪魔されることはないから、お前たちにご足労願った次第だ」

 すると、由羅が一歩前に進み出た。

「アナタが勝手に呼んだのでしょう? 『れでぃ』に対してはもっと丁重にお誘いするのが『まなあ』ではなくて?」

 この状況にも関わらず、由羅はまったく動じていない様子だった。その姿に少しだけ安堵する。

 挑発された篠塚がじろりと由羅を睨む。

生憎あいにく、妖怪に対する礼儀は持ち合わせていないものでね。貴様こそ辞世の句くらいは考えておいたか?」

「ワタクシ、そのような文学的な趣味は持ち合わせておりませんの。なにせ『妖怪』に過ぎませんから。アナタこそ、お仲間は呼ばなくてよろしいのかしら?」

 たしかに周りを見回してみても、他に人はいないようだ。てっきり今日は篠塚が仲間を引き連れてくるのかと思っていた。

「ふん。妖怪の分際で口だけは達者だな。残念ながら、もはや我が一族に妖怪退治ができるのは俺しかいない。だが、お前一匹程度、俺ひとりで十分だ」

 篠塚は露骨に不愉快そうな顔をしている。やはり現代社会において、陰陽師はそう大勢いるわけではないらしい。

 一方、由羅はますます余裕そうに続ける。

「あらあら。それじゃあせっかくだし、ゆっくりお話しましょうよ。アナタ、なんだか陰陽師っぽくないわね。喋り方とか」

「我が一族はお前の封印を監視するため、京からこの地に移り住んだ。もはや京との繋がりはほとんどない」

「あら、そう。だったら監視役は失敗ね。だって、アタシはこうして自由の身になっちゃったんだもの。あと、その髪色はなによ?」

 痛いところを突かれたのか、初めて篠塚が「ぐっ」と呻いた。

「監視役といっても、数百年も欠かさず二十四時間監視できるわけがないだろう? いきなり小娘がひとりで森に入って、封印を解くなんて思いもしなかったからな。髪は俺の趣味だ。悪いか?」

「似合わないわね」

 ストレートに罵倒され、篠塚が堪える様子が見て取れた。狼狽えつつ髪をしばらく弄った後、ハッとしたようにこちらに向き直る。

「おのれ、妖怪っ。それが貴様の手口だということは知っているぞ。こうして精神を揺さぶり、自らの術中に陥れるつもりだな」

 真剣なのは分かるが、どこか滑稽なやり取りに思えた。本当はこの男は、私達を殺すつもりなんてないのではないか。

 だが、そんな淡い期待は次の瞬間、脆くも崩れ去った。

 篠塚は胸元から護符のような物を数枚取り出し、何やら呪文のようなものを呟きながらこちらに放ってきた。

 護符はたちまち光り輝き、矢のような速さで由羅を貫いた。

「がはっ」

 由羅は口から血を吐き、その場に跪く。

「由羅!」

 私は悲鳴をあげて呆然と由羅を見つめる。やっぱり勝てそうにないではないか。

「どうした、妖怪? そんなものか?」

 篠塚はナイフを取り出してツカツカと歩み寄ると、そのまま由羅の胸元を掴んでぐいと顔を寄せた。

「妖怪に命じる。今すぐその娘を解き放て。さすれば命までは取らん。もう二度と復活できぬよう、地中深くに封印してくれよう」

「やめて!」

 私はたまらず声を上げる。由羅を封じるなんてあんまりだ。

 お風呂に浸かって幸せそうな顔をする由羅が、杏仁豆腐を頬張って笑顔を浮かべる由羅が、プレゼントをもらって喜ぶ由羅が、今まで接してきた由羅の姿が脳内を駆け巡る。

 たしかに由羅は過去に酷いことをしたのかもしれない。でも、少なくとも私と一緒にいる間の彼女は何も悪いことはしていない。どうして責められなくてはいけないの?

 復讐を果たしたのは私の願いを叶えてくれただけだし、裁かれるのなら私だけでいい。由羅は何も悪くない。

「女。お前は洗脳されているようだな。安心しろ。すぐにこの妖怪から解放してやるからな。そしたら元の日常に戻れるんだ」

 ――元の、日常……。

 ドクンと胸が高鳴る。

 クラスメイトに罵倒され嫌がらせされ、大人たちから無視され否定され、いつもひとりで学校と家を往復し、休みの日は一日中部屋にこもり、何も喋らず何も感じず何もせず何もないまま過ごす日々。そんな日常が、マタハジマルノ……?

 全身を激しい衝動に突き動かされ、私は駆け出していた。そのまま篠塚に体当たりする。

「おっ、おい?」

 さすがに細身の女の体重では倒すまでには至らなかったが、篠塚が少しよろめいてこちらに顔を向けた。その刹那――。

 由羅が掌底を突き出し、篠塚の胸を突き飛ばした。彼の身体はそのまま宙を舞い、しめ縄の境界となっている樹に叩きつけられた。

「ぐはっ」

 篠塚は地面に転がり、のたうち回っている。陰陽師とはいえやはり生身の人間らしく、痛みは感じるらしい。

「油断……したわね」

 由羅は荒い息を吐きながら、ゆっくり起き上がった。彼女の着物には血が滲み、足元には血だまりができていた。

「由羅、無理しないで。死んじゃうよ」

 私はどうすることもできず、その場で立ち尽くす。

「茜、ありがとう。でもね、アタシとあなたは一心同体。決して死なせたりはしないわ」

 立っているのがやっとという感じの由羅が絞り出すように言う。

「かつてアタシに願い事をしてきた人間は大勢いたわ。この地に疫病をもたらすことを願ったのも人間。神が人間を創るのではない。人間が神を創るのよ」

 初めて知らされた由羅の過去。私は無言で頷き、その続きを聞く。

「だが、人間は願いを叶えただけのアタシを恨み、討伐しようとした。そのとき、陰陽師から命を奪われそうになったアタシを救ってくれたのが、ひとりのサムライだった。名前は由良ゆら具滋ともしげ

「由良……?」

 その名を聞いた瞬間、私の中に経験したことのないはずの鮮烈な記憶が呼び起こされる。

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