3-1

 校内に午前の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、お昼時間となった。

 自分の席でいつも通り母の作ってくれたお弁当を広げていると、横から宮野がいそいそとやって来てくる。「一緒に食べようぜぇ」などと言いながら、前の空いている席に座る彼女。最近は定番の流れ。

 指定席と化している後ろの鞄置き場に座る由羅の反応を一応窺うが、彼女は特に気にする様子もなく欠伸などをしている。私が買ってあげた白のワンピースを着てくれていることに、思わずにんまりしてしまう。

 改めて見ると、やはり可愛らしい。あの後、母に買ってもらって贈った白のサンダルも夏らしくて涼やかだ。本当に美女は何を着ても似合う。それが置物のようにちょこんと座っているものだからズルい。

 基本的に由羅は世の物事に無関心で、何事もなければ意外とじっとしているのが好きらしい。毎晩私が寝るときも勉強机の椅子に大人しく座っているし、大概朝目覚めるまでそのままの姿勢だ。

 やはり九百年以上も生きる存在は、私達人間のようにせかせかしていないのかもしれない。人間が鼠を見て忙しなく思うのと同様、由羅は人間の日常が慌ただしく見えるのだろう。

「伊田は今日もお弁当なんだぁ。いいねぇ」

 宮野が持参したコンビニ袋を広げながらそんなことを言った。彼女はいつも、登校途中でパンを買ってくるらしい。

「別に、普通だよ。宮野のお母さんはお弁当作ってくれないの?」

 意識が完全に由羅に向いていたので内心焦りつつ質問を返すと、宮野はパンをもしゃもしゃ食べながら首を横に振った。

「んにゃ。ウチのお母さん、朝は寝てるから」

 なんとなく察した。どうやら宮野の母親は夜の仕事をしているらしい。まあ、夜の仕事といっても色々あるからあまり深入りしないでおこう。工場とか病院とか警察にだって夜勤はあるだろうし。

 別に嫌ではないけれど、どうして私なんだろうと思わなくもない。つい最近までイジメていた相手と、教室で一緒にいる気まずさはないのだろうか?

 考えてみたが、恐らく宮野も私と同じであまり友達はいないのだ。いつも戒田らと三人でつるんでいた不良娘。そんな彼女に気さくに話しかける同級生なんてそう多くはないらしく、二人と離れたばかりでやや孤立している様子だった。

 私は別にひとりでいいけれど、多くの女性はそうではないのだろう。皆の前で独りでいることは、敵陣で丸腰アピールするようなもの。だから宮野は反応の薄い私に愛想尽かすこともなく、毎日やって来るのだ。


 放課後、まだ高い空の下を由羅とふたり並んで家路に向かう。周囲は青々とした水田が広がり、休耕田に咲く向日葵ひまわりが夏を感じさせる。

 人の姿はほとんど見られず、車も滅多に通らない安閑とした世界。遠くからかすかに聞こえる蝉の鳴き声は心地良いBGMであった。

 この時間、私たちはほとんど会話をしない。同年代の女子はひっきりなしに何か喋って笑い転げたりしているけれど、私はそういうノリが苦手。だから、由羅の落ち着いた感じには心底救われる。

 無理して喋らなくていい気楽さ。反応を急かされることのない安心感。改めて、どうして自分が由羅に惹かれるのか分かった気がする。

 彼女は基本的に、こちらが何か望まない限りは干渉してこないのだ。私を周りと比べることもないし、優劣を押し付けたり否定することもない。ただ黙って側にいてくれる。

 全てを受け入れてくれるような、居心地の良い相手。裏を返せば、こちらが望まなければ何も変化しない関係性とも言える。私はどうしたいのだろう?

 隣を歩く由羅にちらりと目を向ける。彼女はいつの間に捕まえたのか、大きなアゲハチョウを指に留まらせ羽をツンツンと弄んでいた。

「ねえ、由羅」

「なあに?」

 由羅は蝶を楽しげに愛でたまま、気のない返事をする。

 声を掛けておいてなんだが、何を話そうかなんてまったく考えていなかった。今日は暑いね? その蝶どうしたの? 違う違う。そんなことどうだっていい。

「あのさ」

「うん?」

 言い淀む私を不審に思ったのか、由羅が立ち止まってこちらに目を向けた。

 やっぱり綺麗だ。その整った顔をまっすぐ向けられてしまうと、まるで自分の醜さを突き付けられているようで恥じてしまう。

「由羅はさ、どうして私なんかと一緒にいてくれるの?」

 いきなり何を聞いているんだ、私は。思い付きで口から出た言葉に自ら狼狽うろたえる。

 すぐに取り消そうとするが、ぐっと堪える。たしかに唐突ではあったかもしれないが、以前から心の片隅に燻っていた疑問ではあるのだ。

 私は経緯はどうあれ、森の奥に囚われていた由羅を解放し、その見返りとして復讐を叶えてもらった。だが、その後も共にいる理由はない。

 魂が繋がっているらしいので、私が死んだら由羅も死ぬとかなんとか。分かるような分からないような理屈だが、だったら私の身も心も乗っ取ってしまえばいい。少なくとも私が由羅ならそうすると思う。

 出会ったばかりの頃、彼女は私を使用人に例えた。だが、特に命令したり抑圧することもなく、私をいつも自由でいさせてくれる。どうして?

 すると、先ほどまで気のない反応だった由羅が手を掲げ、蝶を空へと解き放った。

 雲ひとつ無い青空に向かって羽ばたいていくアゲハ蝶。綺麗だなあとその飛跡を目で追っていると、それを遮るように由羅が正面に立ちはだかった。そのままこちらに身を寄せ、私の手をぎゅっと握りしめる。

「言ったでしょう? お前とアタシは一心同体だって。常に一緒にいるのが当たり前じゃない?」

「ちょっ、えっ、近い」

 由羅のキリっとした両目に射竦められ、心臓が激しく鳴動している。

 主人に叱られた子犬のような心細さと、守られているような安心感。複雑な感情が絡み合ってうまく整理できない。

 たまらず視線を落とすと、由羅の赤く色付いた唇に目が留まる。柔らかく、儚げで、繊細な唇……。

 ――触れてみたい。

 自然に込み上がってくる原始的な情動に身を任せるように、顔を上げる。目を細め、口を閉じ、吸い寄せられるようにゆっくりと唇に近付いていく――。

「そこまでだ」

 いきなり由羅の背後から男の声がして、咄嗟に後ずさる。

 ――私、何をしようとしていた……?

 胸の高鳴りを抑えつつ目を向けると、数メートル先に全身黒いスーツをまとった赤髪の男が立っていた。

 背は高く、年の頃は二十代半ばから三十代前半くらいだろうか。そういえば先日、ショッピングモールで見掛けたのもこの男だった気がする。

 誰もいない田んぼ道の真ん中で仁王立ちした彼は、なぜかこちらに刺すような視線を向けていた。

「な、なんですか?」

 私は身を縮め、こちらを向いたままの由羅に隠れるように尋ねる。

 まだ日は高いが、辺りに人影はない。しかも相手はなんだか目付きがおかしい。明らかに攻撃的だ。ひょっとして変質者だろうか。

 だが、男は私には一瞥もくれず、再び口を開く。

「お前ではない。そこの妖怪に言っている」

「えっ――?」

 心底驚いて男を、そしてその視線の先にいる由羅を見る。

 由羅はおもむろに振り返り、じろりと男を見据えた。それは初めて彼女と森で出会った時に見た、氷のように冷たい視線だった。


 心なしか、急に日が陰って気温も一気に低下したような気がする。周りの稲の青葉がざわざわとさざめき、不思議と蝉の鳴き声も聞こえなくなっていた。

 先ほどから由羅と赤髪の男は睨み合ったまま、互いに一言も発しない。

 じりじりとした緊張感。痺れを切らしたのか、赤髪の男が再び口を開く。

「人間を装っていても俺には分かるぞ。お前は妖狐だな?」

 よく通るが、重みのある声だ。戦士が戦場で敵に問いかけるような、覚悟を持った男の声。

 由羅は一陣の風に髪をなびかせながら、その問いに答える。

「ご明察。いかにもアタシは人間が妖怪と蔑む者よ。そういうアナタは誰かしら?」

 口調こそはいつもとそう変わらなかったが、声に温もりといったものは皆無であった。敵意のような怨嗟のような、何か因縁めいたものがあるような。

「俺は篠塚之影しのづかゆきかげ。かつてお前を封じた陰陽師の子孫だ。我が一族は代々この地でお前を監視してきた」

 それを聞いて驚いた。てっきり陰陽師とはもっと古式ゆかしき格好をしているものだと思っていたが、篠塚と名乗るこの男はまるで違う。髪色や服装もそうだが、強面なのでやはりホストにしか見えない。

「口上といい思考といい、随分と時代錯誤ねえ。『れでぃ』に対してそんなに不躾な態度ではモテないわよ?」

 篠塚に対し、由羅が小ばかにするように嘲笑う。確かに見た目は派手だが、口調はやたら前時代的。それが余計に違和感を生じさせる。

 すると、篠塚が顔を赤くして声を荒げた。

「ばっ、馬鹿にするな! 今ここで貴様を退治してやってもいいんだぞ?」

「えっ?」

 その言葉に思わず声を上げてしまう。

 退治。確かに彼はそう言った。それって殺すってこと? 由羅を?

「あらまあ恐ろしい。でも、できるのかしら? アナタのような小童に?」

 由羅は動じる様子もなく、更なる挑発をしている。いや、やめて。

「ふん。森に封じられたとき、お前の力もほとんど失われたことは知っている。聖樹の獄が破られたと知ってからお前を捜し出し、殺す機会をずっと窺っていたが――」

 そこで初めて篠塚がこちらに目を向けた。私はビクッとして、咄嗟に由羅の背に隠れる。

「どうやらその娘にまとわりついて、人質にしているようだな。恐らく、お前を殺すとその子も死ぬ。そういう呪いを掛けたのだろう?」

 唖然として由羅の背を見つめる。彼女は否定も肯定もせず、黙ったままだ。

「そこの娘。悪いことは言わん。その妖怪と縁を切れ」

 篠塚は私を見つめたまま、更に続けた。

「心の弱みに付け込まれて言葉巧みに騙されているのだろうが、その妖怪は実体を持たん。お前が縁を切りたいと心から願えば、その呪いからは解放される。お前は自由になれる」

 ――え。なに言ってるの? だって由羅は私を助けてくれて……。

 一方的にまくし立てる篠塚に対し、由羅が割って入る。

「勝手なこと言うのはやめてちょうだい。アタシに用があるのでしょう? アタシに話しなさいな」

 由羅の髪は意思を持ったかのように妖しくうごめき、ほのかな赤い光を放っていた。

 背中越しで表情までは分からないが、こんなに怒っている彼女を見るのは初めてである。

「……まあ、いい。今日は警告に来ただけだ。考える時間をやろう」

 由羅の迫力に気圧された……のかは分からないが、篠塚はそう言うとくるりと背を向けた。

「一週間やる。それまでにその妖怪との関りを絶て。話しかけず、声も聞かず、徹底的に存在を否定しろ。そうすればお前と妖怪との繋がりは無くなり、お前は自由。あとは俺がそいつを退治する――」

 言い終わらないうちに、由羅が一瞬でその背に距離を詰める。

 あっと声を上げる間もなかった。

 由羅は手を大きく振りかぶり、篠塚の無防備な背中に振り下ろす――。

 が、手が触れる刹那、彼女の身体は弾かれたように跳ね飛ばされ、そのまま私のすぐ側の地面を転がった。

 私は何が起こったのか分からず、ただその場で立ち尽くしていた。由羅も意味が分からないようで、その場にうずくまったまま呆然としている。

「愚かだな」

 篠塚がゆっくりと振り返り、スーツの胸元から何やら護符のようなものを取り出して見せた。どうやらそれが彼の身を守っているらしい。

「古の大妖怪も、信仰を失った現代では有象無象の存在でしかない。貴様を今殺すのは容易いが、俺とて無垢な少女を道連れにするのは忍びないのだ」

 最後に「逃げても無駄だぞ」と言い残し、その場を去っていく篠塚。

 その後ろ姿を呆然と見送りながら、私たちは互いに一言も発することができなかった。

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