2-3

 翌朝、いつものように登校すると周りの空気がだいぶ変わったような気がした。

 相変わらず私は誰とも話をしないし孤立しているけれど、その代わりというか誰からも嫌がらせをされなくなった。

 戒田は教室で私を一目見るなり、怯えるような表情を浮かべてすぐに目を逸らしてしまったし、横地と宮野も明らかに私を避けていた。結局、その後も三人から接触してくることは無かった。

 予想外というよりは呆気ない。私が命を秤に掛けてまで思い詰めていたことは、実際こんなものだったのか。私は何事も無くお昼休みを迎え、少し複雑な気分になる。

 机に頬杖をついてため息を吐くと、隣に立つ由羅が声を掛けてきた。

「どうしたの? 元気ないじゃない?」

「そんなことないです」

 答えつつ、横目で由羅を見る。

 相変わらず鮮やかな赤い和服姿は教室内で浮いているが、その存在にも少しずつ慣れてきた。考えてみれば彼女のお陰で私の地獄の日々は終わりを迎えた、のかもしれない。

 そのことに感謝はすべきだと思うし、私も由羅のためにできることがあればいいのだけどと思う。

「うん? なあに? さっきからじっと見て」

 私の視線に気付いたのか、由羅が前屈みになってこちらの顔を覗き込んでくる。

 いちいち距離感が近いのだ。大きく開いた胸の谷間につい視線が吸い寄せられそうになる。

「あっ、いや、その……由羅には感謝してるっていうか、その、ありがとう、ございます」

 自分でも何を言っているのか分からなかったが、どうにか感謝を伝える。そういえば昨日から一度もお礼を言っていなかったことを今思い出した。

「あら感心。ちゃんとお礼を言ってくれるなんて。でもねえ、神に対して礼をするには言葉だけじゃダメなのよ?」

「へ?」

 予想外の反応に目を丸くする。

 由羅は不敵な笑みを浮かべ、私の顎をクイッと上げた。

「人身御供って知っている? 人間が神に願い事をするとき、代償として人間の身体を捧げるのよ。それほど神に頼みごとをするのは覚悟がいるの」

「えっ、だって……」

 私は由羅を呪縛から解き放った。それが復讐の交換条件だったのではないのか……? 目を見開き、迫るような彼女の圧力に晒され、そんな自分の記憶があやふやになる。

 狼狽え視線を泳がす私を見て、由羅が相好を崩す。

「ふふ。冗談よ。茜はアタシを森から解放してくれたのだから、それだけで十分」

 それを聞いてホッとしたのも束の間、突然手を掴まれる。

「ただし、もし感謝の貢ぎ物をしたいというのであれば、拒む理由はない。アタシは茜が欲しい。お前の、血が」

 一瞬意味が分からなかったが、ふと思い出した。そういえば昨日、戒田らと対峙しているときに由羅が私に口付けしたことを。

 あれはキスしたのではなく、口の端から零れる私の血が欲しかったのか。そうか、そういうことか……。

 なぜか胸がチクリと痛くなり、たまらず目を伏せる。

「なんで血が欲しいんです……?」

 落胆なのか安堵なのかよく分からない感情を気取られぬよう、努めて冷静に尋ねる。そうすることがすでにある種の誤解をされそうだけど。

 すると、私の感情などお構いなしと言わんばかりに由羅が目を輝かせて答える。

「魂を共有するお前の血は、人としての実体を持たないアタシに大きな力を与えてくれるのよ。他の人間じゃダメ。アタシは茜の血でないと力が発揮できないの」

「血がエネルギーの源ってこと?」

「そうね。もちろん血が無くても十分人間を圧倒する力を行使できるけれど、血があれば段違いなの」

 妖狐だったら、定番の油揚げとかで力を発揮してほしいものである。これじゃただの吸血鬼だ。

 もちろんそんなこと言えないので、私は曖昧に頷いてまだ手を付けていない弁当を食べることにした。残り時間は二十分ほどしか残っていないので、急がないといけない。

 由羅はまだ話し足りなげだったがそれ以上何も言わず、隣の空いた席に座ってじっと私のことを眺めていた。


 放課後、例によって速やかに下校しようと足早に外に向かうと、まだ誰もいない生徒用玄関で宮野に呼び止められた。

「伊田ぁ!」

 久しぶりに他人から呼びかけられたことと、その相手が宮野であったことに驚きつつおずおずと振り返る。彼女は急いで後を追ってきたらしく、息を弾ませどこか気まずそうな表情を浮かべている。

「……なに?」

 無意識に後ずさり警戒してしまう。宮野がひとりでいることは珍しいけれど、彼女は紛れもなく私をイジメていたグループのひとり。仕返しに来たのか、文句を言いに来たのか、どのみちろくな用事ではないだろう。

「……ちょっと話があるんだけど、いい?」

 宮野はしばしの沈黙の後、かすれるような声で言った。相変わらず化粧をしたギャルっぽい顔をしているが、心なしか顔色が優れないようだ。

「……いいけど」

 一瞬躊躇したけれど、わざわざ追いかけて来たということは何か深い意味があるのかもしれない。少なくともまた乱暴するつもりならひとりでは来ないだろうし、ここで無視しても後々気になって仕方ない。

 私は宮野に続いて玄関を出て、そのまま校門と反対方向へ向かう彼女の後を追った。

 不安になって振り返ると、いつぞやと違って今度は由羅もちゃんと付いてきてくれていた。目が合うと彼女はにっこり微笑んで、こちらに拳を見せつける。果たしてそれは「大丈夫。守ってあげるから」なのか、「今度こそボコボコにしてやるわ」なのか。

 待ち伏せとかされていたら嫌だなと思っていると、宮野は自転車置き場で立ち止まって振り返った。まだ時間が早いためか、他に誰もいないようなので少し安堵する。そもそもここは職員室の窓側に面しているので、まさかここで悪さする生徒なんているわけがない。

「それで、話って何?」

 こちらを睨むように黙り込んだままの宮野に対し、仕方なく話を振る。正直、彼女らとはもう関わりたくないのでさっさと終わらせて帰りたかった。

「あの、さ、伊田ぁ……」

 よほど言いにくいのか、宮野はパーマのかかった長い髪をしばらく弄ったあと、意を決したように口を開いた。

「この前いた、あの女は何者?」

 ああ、そうか。私は得心した。

 要するに宮野は、昨日自分たちを痛めつけた由羅の情報を探るつもりなのだ。ついでに私との関係性も把握して、今後の傾向と対策に役立てようと。

 もし由羅がもう二度と現れないと分かれば再び私に酷いことしようとするだろうし、彼女が私のボディガードだと思ったら別の方法を考えるのだろうか。

「うーん……。ぶっちゃけ、私もよく分からない」

 親切に教えてやる義理も無いので、投げやりに答える。実際、よく分からないし。

 すると、宮野が唖然とした表情を浮かべた。ついでに少し離れて立つ由羅もガーンとショックを受けた顔をしていて、思わず吹き出しそうになる。

 だが、実際吹き出したのは私ではなく、なぜか宮野であった。あれ、ひょっとして見えている?

「なにそれ、意味分かんなぁい」

 冗談だとでも思ったのか、宮野が愉快そうに肩を揺らす。どうやら由羅が見えているわけではないらしい。私も釣られて苦笑いを浮かべる。いや、呑気に笑い合うような間柄ではないのだけれど。

 一通り笑った後、仕切り直しといった感じで宮野が再び口を開く。

「あっ、そのぉ、それは別にどうでもいいっていうかぁ、そのことを言いたいんじゃなくってぇ……」

 相変わらず語尾を無理やり伸ばす緩慢な喋り方である。田舎者の女子中学生が、渋谷のギャルを独断と偏見で無理やり真似ている感じだ。おまけに要領を得ないので、彼女と話すと時間が掛かって仕方ない。

 気付いたら他の生徒たちも続々とやって来て、それぞれ自転車を押して立ち去っていく。私も早く帰りたいのに。

「だからぁ……私、今までのこと謝りたくって」

「え?」

 聞き間違い?

 ようやく触れられた話の核心に耳を疑い、宮野の顔をまじまじと見つめる。彼女は手を後ろで組み、終始目を逸らしたままモジモジしている。その佇まいからはとても嘘を吐いているようには見えない。

 私が黙ったままなので、意図が通じていないことを察したらしい。宮野はひとつ深呼吸をしてから一歩前に出て、私の顔を正面から見据えた。

「今まで、本当にごめんなさい」

 そう言うと、深々と九十度のお辞儀をしてきた。

 私は今までとあまりに違う様に、ただただ面食らってしまった。彼女は戒田や横地と違って暴力的なことはしてこなかったけれど、紛れもなく不良生徒だ。今まで散々私に酷いことしてきたし、正直死んでほしいと思っていた相手だ。

 そんな宮野が私に対して頭を下げている。しかも、そのままの姿勢でずっと静止している。通りかかる他の生徒たちが無遠慮にこちらに視線を投げかけてくる。正直、これはこれで勘弁してほしかった。

「分かった。分かったから、顔を上げて」

 まったく許す気なんて無かったけれど、とりあえず場を収めたかったので声を掛ける。宮野はホッとしたような表情を浮かべてこちらの顔を窺ってくる。そんな態度を取られたら、なんだか許したみたいになるじゃないか。

 私はどうしていいか分からず、由羅に救いを求めるように目を向ける。だが、彼女は愉快そうにこちらを遠巻きに眺めるだけで何も言ってくれない。

 私は観念し、とりあえず話を進めることにした。

「それで、どうして急にそんな話をしたの?」

 極力同情的な態度に見られないように言葉を選ぶ。私は決して許したわけじゃないし、まだ信用していない。

「あのね、私、哲子のグループ抜けようと思ってるんだぁ」

 哲子とはたしか戒田の名前だ。いっつも三人で一緒にいたのに、抜けるとはどういうことだろうか。

 宮野はこちらの疑問に答えるように、再び俯いてポツポツ語りだした。

「うちら三人は幼馴染だからずっと一緒にいたけど、ぶっちゃけあいつらとは最近合わないんだよねぇ。ファッションとか恋愛とかあいつら興味ないし、あたしが男と仲良くしてると露骨に嫉妬してくるし、マジウザいんだよねぇ」

「はぁ……」

 心底どうでもよかった。嫌いな者同士で嫌いあっていればいいじゃんと言いたい気持ちをぐっと抑える。

「それでこの前、伊田の知り合い? の女にあいつらやられたじゃん? あたしもだけどぉ。そん時さ、もうこいつらと一緒につるんでる理由無いなって思ったのぉ。だってぇ、あたしだってあいつら怖かったけど、こんなあっさりやられちゃうんだなって思ってぇ」

 相変わらず聞き取りにくい喋り方だけど、言いたいことはなんとなく分かった。要するに戒田や横地と一緒にいたのは腐れ縁で、最近離れたいと思っていたけど怖くて言い出せなかったということだろう。

 そんなとき、ふたりが由羅にやられるのを見て吹っ切れたというところだろうか。経緯や動機は別にせよ、あいつらの暴力に怯えていたことは私と同じ。

 だからといってシンパシーを感じるかといったらまた別問題だけれど、矛を収めた相手とわざわざ敵対する理由もない。二度とこちらに害を与えないのであれば、許してもいいのかもしれない。

 私はひとつ深呼吸して、宮野に向き直る。

「……気持ちは分かったよ。今までのことを水に流すとかは難しいかもしれないけど、もう別にあなたのことを恨んだりはしてないから」

 この言葉は嘘ではない。実際、もう恨んではいないのだ。

 けれど、自分の中には未だ複雑な感情が燻っており、決してリセットされたわけではないことも事実。とにかくもう二度と私に嫌なことしなければそれでいい。

 すると宮野はこちらの意図をどう汲んだのか分からないが、パッと表情を明るくしてやおらこちらの手を取ってきた。

「よかったぁ。ありがとう! 私達、友達にならない?」

「は?」

 目の前に咲いた満面の笑顔は、人生で最も意味不明な輝きを放っていた。

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