2-2

 私は静かな時間が好きだ。

 人によっては退屈だとか、暇を持て余すとか思うかもしれないけれど、私は何もせず静かに時を過ごすことが大好きだ。

 だから、入浴時間は私にとって数少ない楽しみのひとつ。

 誰にも邪魔されず、穏やかに時を過ごすことができる。温かくて、程よく靄がかかっているのがことほか良い。なんだか、自分や世界の嫌な部分が覆い隠されている感じが好き。

 夕食を終えた私は全身の疲れを流すようにシャワーを浴びながら、改めて激動の一日を思い返してみた。

 学校へ行き、戒田、横地、宮野の三人に絡まれ、当初の願い通りに彼女らに復讐を果たした。

 ……あれは復讐と言っていいのか分からないけれど、まあ制裁は科した。

 本来ならそれで私の人生は終わったのだ。私は復讐と引き換えに命を投げ捨てたのだから。大願成就。ハッピーエンド。めでたしめでたし。

 …………。

 なんとも言えない寂しさのような空しさのような、とにかくモヤモヤした感情が込み上げてくる。

 この世の全てだと思っていたものを乗り越えても、その先にも延々と世界は続いているのだ。止めどなく問題は降り注ぎ、永遠に時間は続いていく。小説や漫画のような「結末」なんてなくて、人間は文字通り死ぬまで舞台から降りることを許されない。

 ――私は何がしたかったのだろう?

 思考の袋小路に迷い込みそうになり、慌ててシャワーの栓を閉めた。

 今は考えるのは止そう。とにかく疲れた。今日はすぐに寝て、明日改めて考えればいい。生来の怠惰な性分に背中を押され、私は浴槽に足を踏み入れた。

 乳白色の心地良いお湯が全身を包み込む。まさに至福の時。私は湯船に浸かり、足を伸ばして大きく息を吐く。

 どんな一日であっても、お風呂だけはいつも変わらず寛げる。温かくて、静かで、ひとりっきりで……。

「ご一緒してもよろしい?」

 突然外の脱衣所から声を掛けられ、びっくりした拍子に足を滑らせる。そのまま頭から湯船に突っ込み、軽く溺れたようにもがいてどうにか浴槽に手を付いて顔を出す。

 ――え? なに? ご一緒に?

 すりガラス状になっている風呂場のドアに目を向けると、すでに素っ裸になっているらしい若い女性のシルエットがぼんやり浮かんでいる。考えるまでもなく由羅だった。こちらが同意する前に入る気満々なところがいかにも彼女らしいけれど。

 しかし……と、しばし思案する。

 たしか昨日、由羅は風呂にまでは付いてこなかった。私はひとりで入ったし、彼女も特に不都合はなさそうだった。

 だけど、さすがに若い女性(に見える妖怪)を何日も風呂に入れないのは可哀想だし、由羅がひとりで入っているところに母や父が鉢合わせたらどうなるのか。さすがに狭い風呂場で湯浴みしている由羅が認識されない保証はない。それに……。

 もう一度、すりガラス越しに映る肌色に目をやる。

 そういえば由羅はいつも同じ和服姿だから、普段と違う姿に興味がないといったら嘘になる。別に変な意味はないけれど。

 そもそも女同士なんだし、一緒に風呂に入ることなんて普通のことだ。たぶん。

 それに、すでに服を脱いだ女性に対し、もう一度着ろと言うのは申し訳ない。これは善意であって、決して変な意味ではない。

 この間五秒くらい。自分でも不思議なくらい速やかに論理が完結し、ドアに向かって声を返す。

「ど、どうぞ。鍵は掛かって、あいや、開いてますので」

 なぜか異常に緊張し、たどたどしい返事になってしまった。

 湯船に肩まで浸かり、おずおずと来訪者を見守る。

「それじゃ、失礼するわね」

 こちらの葛藤を知る由もなく、由羅が平然とドアを開け入室してくる。

「わっ、えっ」

 思わず間抜けな声が出てしまった。

 分かっていたけれど、やはり由羅は一糸まとわぬ姿だった。

 陶器のように滑らかで白い肌。ムダ毛なんて存在しないのか、絵本に描かれる天女の如く神々しい裸体。それを惜しげもなく晒してくるものだから、見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。

 由羅は後ろ手にドアを閉めると、長い黒髪を揺らしながら一切迷いなくこちらに近付いてくる。

 表情を見る余裕はない。私の視線はただ彼女のふくよかな胸元と、スラリと伸びた長い足を行ったり来たりしている。こういうとき、どこを見るのが自然なのだろう? 脳がショートしているのか、何も考えが浮かばない。

 由羅はそのまま私の目の前で立ち止まると、何も言わず足を大きく上げた。

 ――ちょっ! 見え――っ!

 ゲスな妄想が脳内で形を成すより早く、由羅が勢いよく私の隣に着水してきた。

「ぶっ」

 派手に水飛沫みずしぶきを浴びせられ、咄嗟にのけぞって後頭部を壁にぶつけてしまう。

「いたた……」

 頭をさすりながら涙で滲んだ目を開けると、こちらに向き合う形でちょこんと座っている由羅がいた。彼女は満足そうに微笑みながら、だいぶ減った湯を掬って自らの肩に掛けている。

「あったかいわね」

「そ、そうですか……」

 私はそれ以外言えず、視線から逃れるように水面に目を落とす。入浴剤で濁った湯からは彼女の美しい裸体を望むことはできず、少し残念だった。……残念だった?

「お風呂なんて久しぶりだから気持ちいいわあ。少し狭いけれどね」

 由羅がそう言いながら大きく伸びをする。彼女の足が私の腰に触れたけど、努めて反応しないようにした。

「由羅もやっぱりお風呂とか入るんですね」

 さすがに無言のまま裸で向き合うのは気まずい。私は緊張をほぐそうと、視線を泳がせつつ声を掛ける。

 実際、由羅が風呂に入ってきたのは意外だった。なんとなく妖怪は老廃物とか排泄とか、人間の生理現象とは無縁かと思っていた。

「そりゃあそうよ。アタシだって女の子なんだから」

「いや、そういうのじゃなくって……」

 本気で言っているのか冗談なのか判別がつかず、曖昧な苦笑いを返す。

 由羅はそこで質問の意図を察したらしく、濡れた髪先を弄りながら言った。

「別に必要というわけじゃないけれどね。アタシは神であってこの世の理の外にいるのだから。単に趣味みたいなものよ。神様だって意外とお風呂好きなものよ?」

「はあ。そうなんですか」

 まあ、そういうものなのだろう。例えば私が不老不死になったとして、じゃあ一生お風呂に入らず食事も取らないかといったらそんなことはない。それらは汚れを落として栄養を摂るためだけの行為ではないのだ。

 人はしたいことをするために生きている。いきなりそんな哲学的な話に飛躍するのもどうかと思うけれど、ふとそんなことを考える。

 私は復讐をするために死を選んだ。だが、結果的に復讐はまあ果たせたが、一応は生きている。ではこれからどうすればいいのだろう?

 今まで復讐と死ぬことしか考えてこなかったから、この先のことが分からない。自分が何をしたくて、どう生きるべきなのか。

 そう思ったら急に不安が込み上げてきた。浴室を漂う靄が濃霧となって全身を覆い尽くす。熱い湯に浸かっているはずなのに、全身が底冷えするように寒い。

 何もない空白に取り残され、自分の存在すら消失してしまう気がした。たまらず縮こまって自身の両肩を抱くと、その手の甲にそっと触れるものがあった。

 ハッとして顔を上げると霧は消えており、目の前に優しい笑みを浮かべる由羅の姿があった。

 彼女は私の手をぎゅっと握り、諭すように言う。

「茜は茜よ。過去のことなんて関係ないし、今後のことはこれから考えればいい」

 ――なんでそんなに優しいの?

 聞こうと口を開きかけたが、声を出したら泣いてしまいそうだったからやめておいた。

 初めて会った時は首吊り状態で弄ばれて、その後は指が変色するほど捻られ、約束を勝手に変えられて戒田らと対峙させられた。そんな彼女がなぜ?

 考えてみたら恐らく深い意味はないのだ。自称神である由羅にとって人間の迷いや苦悩なんてどうでもよくて、単なる気まぐれなのだろう。貴族が奴隷にプレゼントを贈るような、思い付きの善意。

 そう思うと少し頭が冷静になってきた。感動も薄れた反面、不安もどこかへ消えていった。ようやくまともに口が開けそうだったので、気になっていたことを尋ねてみる。

「由羅は、これからどうするんですか?」

 私は由羅に復讐を依頼したが、それを果たした彼女が今後どうするのか、そしてどうなるのかまったく見当が付かなかった。私の身体を心身共に乗っ取るのか、それとも……。

「アタシ? アタシはそうねえ……会いたい人がいるわね」

「会いたい、人?」

 心底意外だった。由羅は人間には興味なさそうだったし、七百年も封印されていた彼女に存命中の人間の知り合いなんているはずない。

「それは、誰ですか?」

 続きを促すと、由羅はいじわるく微笑んでこちらの唇に人差し指を当てた。

「うふふ。内緒」

「まったくもう……」

 私はため息を吐きつつ、そんな軽口が自然と言えたことに満更でもない気分だった。

 由羅のことはよく分からないけれど、慌てて全て理解する必要なんてないのだ。これからのことはこれから考えればいいし、なるようになる。

 由羅の身勝手さが感染したのか、私もだいぶ楽天的になったような気がする。

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