2-1

 壮絶だったような、呆気なかったような、自分でもよく分からない復讐劇は終わった。一応。

 学校での嵐のような一日を終えた私は家に辿り着くと、そのまま薄暗い自室のベッドに倒れ込んだ。制服を脱ぐ気力すら湧かず、布団に顔を埋めたまま大きく息を吐く。

 全身が重く、あらゆる関節が鉛のように固い。反面、心だけがふわふわと落ち着かず、胸の中心に大きな空洞が空いているようだ。

 ――いったいなんだったんだろう……?

 私はうつぶせのまま顔だけ横に向け、レースカーテン越しの窓に目をやった。空はすっかり茜色から紫色に変わり、部屋の影を色濃くしている。

 まるで現実感が湧かない。このまま自分の存在さえ闇に溶けてしまいそうな気がして、たまらず左手を顔の正面まで持ってくる。身体は確かにあった。

 自分が消えていないことに安堵しつつ、ゆっくりと人差し指を自分の唇に当てる。そのまま左になぞっていくと、唇の端にかすかに刺すような痛みが走った。

 やっぱり切れているらしい。横地に叩かれた時に僅かに血が舞ったことを、断片的な記憶で思い出す。あれから鏡を見ていないから分からないけれど、もう血は止まっているから痕には残らないと思う。

 ぼんやりと傷口を撫でていると、痛みとは別のなにやらゾクッとするような感覚が芽生えてくる。

 由羅の慈しむような優しい顔。ゆっくりと近付いて、触れる唇。別の生き物のように傷口を優しくなぞる舌。温かく、艶めかしい吐息……。

 急に恥ずかしくなってきて私は慌てて身体を起こした。さっきまでの気怠さが嘘のように胸が早鐘を打っている。

 なんなんだろう、この気持ちは。なんなんだ。なんだかイケナイことを考えているみたいだ。

 私は心を落ち着けようとベッドの上で正座をし、目を閉じて何度か深呼吸をした。

 スー、ハー。スゥー……ハァー……。

 よし。落ち着いた。

 ゆっくり目を開けると薄暗い視界の先、勉強机の椅子に座った由羅がじっとこちらを見つめていた。

「きゃあっ!」

 思わず女の子みたいな声をあげてしまった。……いや、女の子なんだけど、今までこんな可愛らしい悲鳴あげたことなかったと思う。

 暗がりの中に浮かび上がる赤い瞳と着物はちょっとしたホラーである。

「なによう、その幽霊を見たような反応は」

 由羅はこちらの反応が心外だったのか、目を細め唇を尖らせている。妖怪相手ならあながち間違ってはいないと思うけれど。

 相変わらず口調はゆったりしているので、本気で怒ってはなさそうだ。

「ごっ、ごめんなさい。そういえばいたんですね」

 物心付いた頃からこの部屋に家族以外の誰かが来ることはなかったので、つい自分ひとりだと思って油断していた。というか、由羅と一緒に入室した覚えがないのだが、いつもどうやって入って来るのか謎である。

「とことん失礼ね。まあ、いいけど」

 由羅はやれやれといった感じで立ち上がると、おもむろにベッドまでやって来て私の正面に座った。

「えっ、なに?」

 膝が当たるほどの至近距離にドギマギし、私は視線を左右に揺らしながら尋ねた。

 由羅はそれには答えず、ただにんまりとしている。そして、いつぞやのようにやおら顔を近付けてきて――。

 私は咄嗟に目を瞑った。急展開過ぎて思考が追い付かない。

 何されるか分からず、緊張で息を止める。唇を固く結び、なぜか少し顔を上げて。

 目玉が潰れんばかりにきつく閉じた瞼越しに由羅の影を感じる。甘い香りを漂わせ、彼女の長い髪が頬をさらりと撫でる。

 だけど、いつまで待ってもあの感触がやってこない。唇に、あの――。

「何を期待しているのかな、茜?」

 耳元で囁かれ飛び上がる。

 上体を逸らしてパッと目を開けると、由羅は愉快そうに肩を揺らしている。ひょっとして、からかわれた?

「なっ、なにしてるんですかっ」

 ムッとして抗議すると、由羅はすまし顔で「ほほほ」と笑いながら言った。

「なにしてるはこっちの台詞よ。さっきから見ていたけれど、部屋に帰ってからのお前は青くなったり赤くなったり忙しなくてね。ちょっと気になったのよ」

「そっ、あっ、赤く?」

 たまらず両頬を手で覆う。手のひらに確かに熱を感じる。胸の内を見透かされているような気がして、顔から火が出る思いだった。

 逃げ出したい衝動に駆られて腰を浮かしかけたとき、引き留めるように由羅が私の手を取った。何事と思い顔を向けると、彼女がいじわるく微笑みを浮かべる。

「この前の続き……する?」

「この前の続きってなんですか! なんですかぁっ!」

 もはや悲鳴に近かった。

 とにかく由羅が色々な意味で凄すぎて、彼女と出会ってからの私は翻弄されてばかりだ。

 川の激流を流される石ころのように、もはや自分の居場所も分からぬままこの身をすり減らしていく。

 私はこれからどうなっていくんだろう?

 漠然とした不安は、母の夕飯を告げる声で途切れた。

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