1-8
生徒用玄関を出た私は、校内の隅っこにある校舎裏にまで連れてこられた。
ここには室外機や錆び付いた用具入れが校舎の壁際に置かれているくらいで、滅多に人は訪れない。加えて高い塀と植樹に囲まれており、曇り空を抜きにしても薄暗くジメジメしている。まさに悪いことをするにはうってつけの場所だ。
今にも雨が降ってきそうなくらい空がどす黒く淀んでいる。ここに来る途中でチャイムの音が聞こえたから、もう六時間目の授業が始まっているはずだ。このような天気の中、授業をサボってまで私を連れ出すということはよほど頭に来ていたのだろう。
ここまで無言で腕を引っ張って来た戒田は私を引きずり倒すように地面に座らせると、正面で腕を組んで仁王立ちになった。その両脇を三尊像のように横地と宮野が固めたので、私はなんとなくその場で正座をする。
「お前、とりあえず土下座しろよ」
戒田はドスを利かせたつもりなのか、随分と低い声で言った。左右の二人もこちらを見下ろしたまま頷く。なんて汚い三尊像だろう。
私は寄る辺を求めて由羅の姿を探す。だが、どこを見回しても灰色の壁と雑草まみれの地面とやたら背の高い木しか見えない。自分の力のみで戦えということなのだろうか。
「どこ見てんだよ」
横地が肩を蹴ってきて堪らずよろめく。私は地面に手を付き、頭を下げそうになる自分を必死に抑えて彼女に目を向けた。
図らずも睨んだ格好になった私に激高し、横地が「なに睨んでんだよ、てめー!」などと喚いて私の頬を叩いた。その際、彼女の爪が私の口元を引っ搔いてわずかに血が舞った。
先ほどから心臓が高鳴り続けアドレナリンが放出されているせいか、不思議と痛みはあまり感じなかった。ただ叩かれたという事実が衝撃で目に涙が浮かぶ。
「おい、なんか言えよ」
今度は戒田が私の制服の襟を掴み、強引に引っ張る。ボタンが外れ、ブラジャーの肩紐が露出する。
そこで戒田は何を思い付いたのか、ニヤリと下卑た笑みを浮かべる。
「そうだ。こいつ裸にして写真撮っちまおう」
おおよそ女子中学生とは思えない最悪の提案。
「いいねえ。こいつの裸写真ネットにばら撒いて、もう二度と学校来れないようにしてやろうぜー」
隣の横地が同調し、私の制服を乱暴に掴んでくる。瞬間、生まれて初めて言いようのない感情が込み上げてきて――。
「やめてよ!」
私はこの学校に入って初めてじゃないかというくらい大声を出して拒絶し、私のワイシャツに手を掛けた横地を両手で突き飛ばした。
予想外のことだったのか、彼女は目を丸くしたまま背中から派手にすっ転んだ。
――私がやったの……?
私は自分の行動に理解が追い付かず、しばらく目をパチクリさせながらこちらを見上げている横地を呆然と見下ろしていた。
「なっ、何すんだよ、てめーっ!」
みるみる顔を赤くした横地が猛然と起き上がり、レパートリーのない台詞を叫びながら首を絞めてきた。私は彼女の手を振り払おうとするが、後ろから戒田に羽交い絞めにされて身動きが取れない。
息ができない。苦しい。
こんなことは前にもあった。そう。鎮守の森で自ら首を吊ったときだ。
――フンだ。あのときのほうがよっぽど怖かったわ。
誰もいない真夜中の森の奥、ひとりぼっちで死ぬ恐怖に比べたらこんなのなんでもない。
私は遠のきそうになる意識を必死に保ちながら、どうにか声を発する。
「や……」
「や?」
続きを聞こうと横地の手がかすかに緩む。
「やれるものなら、やってみなさいよ!」
私は最後の力を振り絞って言ってやった。死ぬのなんて怖くない。これからこいつらの言いなりで生きていくより百倍マシだ。
だが、私の人生初の啖呵に応えたのは戒田でも横地でも宮野でもなかった。いつの間にかすぐ側に立っていた由羅であった。
「良い子ね、茜」
「うわあぁっ!」
その瞬間、なぜか三人とも悲鳴を上げて大きく後ずさる。どうやら由羅は姿を消すのをやめたらしい。
……ていうか今、初めて名前を呼んでもらえた?
私はしばし地面にへたり込んで咳込んだ後、天を仰ぐようにゆっくり由羅を見上げる。彼女は相変わらず美術品を思わせる美しい顔をしていて、少し小首を傾げて私を慈しむような優しい表情をしていた。
――そんな顔、してくれるんだ……。
泣きそうになる。初めて他人から優しくされたような気がする。
呆けたように見つめていると、その顔が徐々に近づいてきて――。
「ちょっ、なに――?」
言い切る前に、由羅の唇が私の唇の端に触れた。
……正確には、横地に叩かれたときに切れた傷口だろうか? 彼女の生温かい舌が、まだちょっと血が出ている私の傷口を優しく撫でる感覚がした。
「んふっ。おいしっ」
――なに? なんなのっ?
わけが分からず、すっかり縮こまってしまう。自分でも真っ赤になっているのが分かるくらい顔が熱かった。そんな私をよそに、由羅はゆらりと三人を振り返った。
「お前たち、覚悟はいいかしら?」
「なんだよ。なんなんだよ、お前っ」
突然艶やかな着物姿の女が現れたことに狼狽し、戒田らは悲鳴にも似た詰問をしてくる。
だが、由羅はそんな一同の声を無視し、悠然と首だけを動かして一人ひとりに顔を向けている。
最初のターゲットを選んでいるんだ――。
私が察すると同時に、由羅は先ほどまでの緩慢な動きが嘘のようにヒュンと動き、一番手前にいた横地のすぐ目の前に距離を詰めた。
ほとんど予備動作なんて見られず、物理法則を無視した動きに皆が呆気にとられる。
いきなり眼前に見知らぬ女が迫って来た横地は、まるで幽霊でも見たかのように「ヒヤアアア!」と言葉にならない悲鳴を上げる。
「五月蝿い」
由羅は冷たい表情で言い放つと、目にも留まらぬ速さで横地の首を掴み、そのまま片手でひょいと吊し上げた。
横地は女とはいえ背は私より高く、女子相撲をやっていたくらいだからそれなりに重さもあるはず。それを片手で持ち上げた?
分かってはいたけれど、やはり目の前の少女は妖怪なのだ。そうした事実をまざまざと見せつけられ、安堵とも恐怖ともつかぬ不思議な感情が胸に渦巻く。どうするつもりなのだろう。
「ちょっと、やめてよ! 離してよぉ!」
苦悶の表情で足をばたつかせている本人が喋れないと察したのか、少し離れたところで宮野が代わりに懇願する。この場面だけを切り抜けば、誰もが理不尽な暴力に晒される哀れな女の子のように見えるだろう。
由羅は無表情のままその『女の子』に一瞥をくれると、そちらに向かって横地を投げつけた。正確には手を払ったら横地が勝手にワイヤーアクションのように吹っ飛んだ感じなので、投げつけたという言い方は間違っているのかもしれないけれど。
「きゃっ」
宮野はこれまた女の子のような可愛らしい悲鳴をあげ、両手で顔をガードする。そのガードの上から横地が衝突し、そのまま地面の下敷きになる。
……強い。というか、違う。格というか規格というか、次元が。
ボクシングの試合を挑んできた連中に対して、空爆で決着をつけるような一方的かつ理不尽な戦い。勝利でも完勝でもなく、いわば制圧。
そのような爆心地にひとり取り残された戒田は泣きべそをかいていた。
耳を真っ赤にし、もう降参と言わんばかりに地べたにうずくまったまま泣きじゃくっている。命乞いも難詰もせず、ただ時折嗚咽を漏らすだけ。
私はゆっくり立ち上がり、深呼吸してこの場を見渡した。
薄暗く窮屈な校舎裏。地面に仰向けに折り重なっている横地と宮野。どちらも目を閉じ微動だにしないが、特に怪我している様子はないので多分生きているだろう。意識を失っているのか死んだふりなのかは分からないけれど。
戒田は迫りくる恐怖から身を隠すように縮こまり、肩を震わせしゃくり上げている。こう見ると物凄く恐ろしい存在に思えたこいつらも、ただの女子中学生に過ぎないのだと痛感する。
痛みや苦しみから逃れ、嫌なことから目を逸らし、戦うこともせず卑屈に自己の安寧を求める。そうした意味においては私と同じ。要するに怖いのだ。
だが、妖怪である由羅はそのような感傷に浸ることを許さない。
ツカツカと戒田に歩み寄ると、彼女の茶色みがかった髪を掴んでぐいと持ち上げる。
「痛い、痛い」
当たり前の感想を述べるが、抵抗もせず立ち上がる戒田。そんな彼女を掴んだまま、由羅は私のほうを向いてそれを戦利品のように見せつけた。
「さて、どうしてほしい?」
「へ?」
質問の意図が分からず、間抜けな返答をしてしまう。
「だからあ、どう殺してほしいのか聞いているの」
由羅は場違いに屈託なく笑って言った。そして、戒田を掴んでいるのとは反対の手をこちらに向け、人差し指を立てる。
「その一。このまま首をへし折って一瞬で殺す」
「は?」
私の代わりに戒田が唖然とした表情で声を上げる。いかに不良とはいえ、中学生の身で命のやり取りまでは想定すらしていなかった感じだ。
「その二。重しを付けて海に突き落とす」
顔面蒼白で唇を震わす戒田を無視し、二本目の指を立てた由羅が続ける。そしてすぐさま三本目の指を立てる。
「その三。素っ裸にして蜂蜜を塗って――」
「もういい。ストップ、ストップ」
私は由羅に駆け寄り、慌てて遮った。このままだと想像するのもおぞましい地獄絵図が脳内に描かれそうだったから。
だが、彼女は人差し指を口元にあて、不思議そうにこちらを見ている。
「どうして? それが望みだったのでしょう?」
「――ッ。そっ……そう、だけ、ど……」
由羅の真っすぐな視線を前にして言い淀む。
確かに私は復讐を望んだ。自らの命と引き換えにして、私を追い詰め苦しめた三人に復讐してもらうことを願った。でも、具体的にどんな?
改めて考えるとよく分からない。代償に命を捧げるくらいなのだから、恐らく私は戒田、横地、宮野の死を望んだのだろう。それは偽らざる本心だ。でも、いざ目の前で殺人の裁可を促されるのは勝手が違う。
それに、目の前でこんなに弱々しい姿を晒している三人を見ていると、不思議と憐れみに似た感情が芽生えてくる。もちろんこいつらを許すつもりはないし、大嫌いなことに変わりはない。だが、なんだかもう済んだことのように感じてしまうのだ。
――この三人は私だ。
図らずも哲学的な言葉になってしまったけれど、率直にそう思った。
圧倒的な暴力の前に成す術もなく、抵抗もせずただ泣くばかり。そんな相手を責めることは、結果的にかつての自分を責めることに繋がらないか?
よく分からないけれど、なんだかそんな気がする。もちろん復讐を望んだ私が正義や道徳なんてのたまうつもりはない。ただ、自分の望みのためだけに率先して悪になれるほど、私は自分大好きでもダークヒーローでもなかったのかもしれない。
「もう、いいよ……」
なんだかこっちが泣きたくなってきて、俯きながら答えた。
なんの回答にもなっていなかったが、私はそれ以上何も言えなかった。更に口を開けばきっと声が震えてうまく言葉にできないし、やり場のない感情を誰かにぶつけてしまいそうだったから。
由羅は終始釈然としない様子だったが、特に反発も詮索もしなかった。掴んだままの戒田をつまらなそうにポイと投げ捨て、手を軽くはたく。それだけでもう終わりだった。私の復讐も、死んだ意味も。
――これでよかったんだ。
未だ晴れ間は見えないけれど、幾分雲の薄くなった空を見上げて小さくため息を吐く。
あんなに恐ろしかった三人の醜態は存分に拝めたし、由羅がお仕置きはしてくれた。それだけで十分だ。そう思おう。無理にでもそう思おう。
私は地面に座ったまま泣きじゃくっている戒田を一瞥し、くるりと背を向けた。たぶん今後彼女らが私に絡んでくることはないだろう。あったとしても、なぜだか少しも怖くなかった。……由羅がいるし。
歩き出しながら横目で見ると、由羅も私の真横にぴったり並んで歩き出した。手が触れ合うほどの距離感に思わずドキリとする。
「意外と大人なのねえ、茜」
褒めているのか嫌味なのか分からないが、由羅が目を細めながらそんなことを言った。
反応に困ってそっぽを向くと、彼女の細く華奢な手が私の頭にポンと乗せられた。
「えっ?」
目を丸くして立ち止まる私に構わず、由羅の繊細な手のひらが私の頭頂部を優しく撫でた。
「お前みたいな人間は、結構好きよ」
「……好き?」
他人から言われたことなどなかったので、その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。と、同時に、「どうして?」とか、「どこが?」とか、疑問が次々と浮かんでくる。
ひとりで悶々とする私をよそに、由羅がさっさと歩き始めてしまったので結局聞くことはできなかった。食い下がって聞くにはなんだか自意識過剰みたいで気恥ずかしいし。
私は少し速足で由羅を追いかけた。
彼女のお陰で復讐は一応、曲がりなりにも成し遂げられた。というか、本当はそんなものどうだってよかったのかもしれない。
私は求めていたのだ。由羅のような存在を。
この先どうなるか分からないけれど、なるようになる。そう思えるような、思わせてくれるような存在を。きっと。
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