1-5

 翌朝、私は学校へ行った。

 家から徒歩十五分ほどの距離。延々と広がる水田と農家に囲まれた、なんの面白みもない公立中学校。

 病院のイメージが白だとすると、ここは紛れもなく灰色だ。外壁は経年劣化によるひび割れや黒ずみが目立ち、平坦な周囲を睥睨へいげいするようにポツンと佇むコンクリートの塊。校舎内の淀んだ空気をそのまま形にしたような、現代美術の失敗作。

 もう二度と来ることはないと思っていた。もちろん突然大雨が降ったりして自殺自体延期する可能性はあったから、絶対にもう来ないと決意していたわけでもない。ただ、当たり前のようにまたここに来てしまったことに若干の寂寞を覚える。

 今さら考えても仕方ないと気持ちを切り替え、周りの生徒たちと視線がかち合わぬよう俯き加減に校門をくぐる。すると、後ろを付いて歩く由羅が対照的に辺りをキョロキョロ見回しながら背を叩いてきた。

「ここは凄いわねっ! みんな本当に同じ服を着ている。カッコいいわねっ!」

 昨日とは打って変わり、入学初日の新中学生のようなはしゃぎっぷり。いったい何が面白いというのか、彼女のテンションが謎である。

 夏服の制服に身を包んだ生徒たちの群れの中で、下駄を履いた鮮やかな着物姿がひとり。卒業式ならまだしも、普段は相当な注目を浴びそうだ。

 やたら目立つ格好と態度が心配になってしまうが、やはりというか他の人間からは姿が見えないらしい。すぐ側を坊主頭の男子生徒が追い抜いていったけれど、真横からまじまじと視線を送る由羅に一瞥もくれることはなかった。

「由羅って、どうして他の人から見えないの? 透明なんですか?」

 さすがに気になったので、立ち止まって尋ねてみる。

 由羅は園庭スペースに佇む背丈ほどの磨かれた黒石に興味を惹かれたらしく、そちらへ向かって駆け出すところであった。近付いて確認し、それが単に校歌を刻んだ歌碑だと知ってつまらなそうに戻ってくる。

「え? なにか言った?」

 由羅が普通に聞き返してくる。一連の行動を見ていると、彼女が古の大妖怪だとはとても思えない。

「だから、由羅はどうして他の人から見えないのかなって」

 至極当たり前の疑問を投げかけると、なぜかニヤリと自慢げな笑みを返された。

「それは他者の無意識を操っているからよ。お前以外の人間はアタシのことを見えてはいるけれど、脳が認識できていないの。だからそんなに声を潜めなくても、アタシの声も匂いも他人に影響を与えたりしないわ」

 先ほどから周りを憚って小声の私に当てつけるように言う。

「ああ、なるほど……」

 一瞬納得しかけたが、それは「由羅は」であって、由羅と喋る「私は」容赦なく他人から認識されるのだと気付く。油断したら、周りから盛大に独り言を続ける怪しい奴だと思われてしまう。

 結局、由羅はいまいち信用できない。妖怪だから当然といえば当然だけど、一般人の社会常識とかけ離れ過ぎているのだ。言っていることというより、存在そのものが。

 例えば、彼女は昨日から着替えていない。恐らく風呂にも入っていないはずだ。私の入浴時はどこかに姿を消していたし、部屋に戻ると当たり前のようにそこにいた。

 夜は私の勉強机の椅子に座ってじっとしていたけれど、寝るところは見ていない。先に眠ってしまった私が朝目覚めたとき、そのままの姿勢で椅子に座っていたのには戦慄すら覚えた。

 そんな一日が過ぎた後なのに、由羅はくたびれた感じもなく臭くもない。むしろ近付いたらお香のようなほんのりとした良い匂いがする。髪は常にサラサラで、いつも綺麗にまとまっている。

 とことん謎の存在だが、妖怪はそういうものだという漠然とした先入観が違和感を生じさせない。アニメとかでも大概いつも同じ服着ているし、食べず眠らず何百年も生きるものだろうから。

「なあに?」

 今度は遠くのグラウンドで朝練している野球部を発見して小躍りしていた由羅が、私の視線に気付いて小首を傾げつつ向き直る。もはや、少女というよりは幼女だ。

「由羅。あなたの知識って偏り過ぎてません? 言葉遣いとかは現代的だけど、一般常識とか無縁そうだし」

「それは仕方ないでしょう? 知識は魂を共有しているお前の記憶頼りだし、実際に目で見たわけではないからやはりどれも新鮮なのよ」

「なるほど。たしかにそれじゃ仕方ない――」

 ……ん? 何やら聞き捨てならない言葉があったような。

「えっ、ちょっと待ってください。ひょっとして……あなたは私の記憶が見えるの?」

 恐る恐る尋ねると、由羅はなぜかこちらの背に回り、肩に顎を乗せながら耳元で囁いた。

「言ったでしょう? アタシとお前は魂を共有しているって。お前の記憶は全てアタシの記憶でもあるの。例えばお前が何歳まで寝小便をしていたかとか、最後にアレをしたのがいつかとかも――」

 そう言って、スカート越しに私の太ももに手を伸ばす。

「ああああああああああああっ!」

 思わず大声を上げてしまい、ギョッとした周りの生徒が一斉にこちらを凝視する。

 最悪だ。私は顔が真っ赤になるのを感じつつ、周囲の視線から逃れるように走って生徒用玄関に飛び込んだ。最悪だ。最悪だ……。

 人を呪わば穴二つというが、今の私はすぐにでもその穴に入りたかった。まさか自分の記憶が筒抜けになってしまうなんて、個人情報漏洩なんてレベルではない。

 下駄箱に自分の上履きがちゃんとあることに安堵しつつ履き替え、窓が北側に面しているため常に薄暗い廊下を速足で進む。もう周囲の注目からは解放されたが、心が浮き立って焦らずにいられない。

 そのままの勢いで二階にある二年一組の教室前まで辿り着いた。

 恐らく玄関から教室までにかかった時間の最短記録ではないだろうか。タイムは計っていないけれど。それくらい軽く息があがっていた。

 いつもの如く教室後方にある白い引き戸に手を掛け、小さく深呼吸する。さすがに玄関や廊下と違い、教室内に入るのは少し勇気が必要だった。ここは私を常にイジメてくる戒田、横地、宮野の教室でもあるのだ。まあ、彼女らはたいてい時間ギリギリにやってくるので、私より先にいることは稀なのだが。

 そういえばと来たほうを振り返って由羅の姿を探す。まだ始業時間よりだいぶ早いので、廊下内にはほとんど人影がない。彼女の姿も見られないし、追ってくる物音もしない。

 まあ、いいか。私はグッと腹に力を込め、建付けの悪い戸を開ける。

 教室内は案の定、数名の生徒がまばらに座っているだけであった。みんな黙々と読書していたり寝ていたりで、飛び交う会話のない静謐な空間となっている。

 これこそ私が朝早くに登校する理由だ。この時間なら誰からも注目されないし、戒田らと鉢合わせることもない。決して真面目な学校大好きっ子というわけではないのだ。

 私は忍び足ですぐ目の前にある自分の席に着き、いつものようにそのまま机に突っ伏す。そこで改めて由羅から言われたことを思い出して顔が熱くなる。

 いったいどこまで知られているの? 他に知られて困ることは? 無意識に記憶から遠ざけていた過去の黒歴史が次々に浮かんでくる。

 幼稚園児の頃、体操の時間にどこに行けばいいのか分からず、みんなが戻って来るまで教室でひとりで積み木遊びをしていた記憶。私がいなくても誰も気付かなくて、先生ですら探しに来なかった。

 小学生の頃、遠足の班決めで誰からも誘われなくて、まったく話したこともない子達のグループに入れられた記憶。当日も私は一言も喋らず、ただ黙々とみんなの後を付いて歩くだけだった。

 そうした負の歴史が、自分以外の誰かに覗き見られるのだ。

 赤面して悶えていると、いつの間にかすぐ隣にやって来た由羅の宥めるような声がする。

「そう恥ずかしがることないわ。アタシは人間のそういう部分を別に蔑んだり嘲ったりしないし、なんならアタシでよければ相手してあげてもいいし」

「なんのことですかっ――」

 ついまた声を張り上げそうになり、慌てて口を両手で抑える。ていうか、相手してあげるって何?

 由羅は着物の胸元をちらりとめくって妖艶な笑みを浮かべている。

「あれ、違ったかしら? てっきりアレのことで悩んでいるのかと思ったのだけれど。ひとりでするのは物足りないだろうし」

「ちっ、違います。いつもそんなこと考えてるわけじゃないし――」

 言いながら、なぜか視線は彼女の胸の谷間に釘付けになる。私、女なんだけど。

「だっ、だいたい不公平ですよ。魂を共有とかいっても、私は由羅の記憶なんて見れないし」

 首を強く振って邪念を払いつつ、小声で抗議する。だが、由羅は悪びれる様子もなく平然と言った。

「当たり前じゃない? 確かにアタシとお前は魂を共有しているけれど、命はアタシが分け与えているの。言うなればアタシがお前の主人。主人は使用人の部屋に出入り自由だけれど、使用人は許可なく主人の部屋には入れない。それが掟」

「それを言うなら、その部屋の所有者は私じゃないですか? 脳も記憶も私の身体にあるんだから」

「お前の肉体はアタシのもの。まだ分からないの? ……まあ、いいわ。とにかくアタシだって、いたずらにお前の内面に干渉するつもりも理由もないから安心しなさいな」

 私は朝からぐったりしてしまい、再び机に突っ伏してしばし考える。

 この先ずっと自分のしたことや感じたこと全てが由羅に筒抜けになる。それは恐ろしいことだ。だけど、考えてみたら彼女は人間ではないのだ。私が犬の交尾を見ていちいち動揺しないのと同様、彼女も何も感じないのかもしれない。

 そう納得してしまう自分も大概おかしいのだろうなと思うけれど、不思議と由羅と一緒にいることに苦痛は感じないのだ。魂を共有しているからなのか分からないけれど、彼女が側にいてもあまり違和感を覚えない。

 そういえば誰かと喋りながら登校したのは何年ぶりだろう? 由羅は得体の知れない恐ろしい存在だけど、彼女と話していることで登校時間の憂鬱を一時忘れられたことも事実なのだ。

 ――私は誰かとお話したかっただけなのかもしれない。

 私は窓に映る薄靄のかかった空を横目で見やり、小さく息を吐いた。

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