1-6
その後、いつも通りの朝のホームルームが終わり、一時間目の歴史の授業となった。内容は奇しくも鎌倉時代後期について。その頃といえばちょうど大妖怪として恐れられた由羅が封印された時代だ。
どのような表情をしているのか気になり後ろを振り返ると、彼女は教室奥の鞄置き場に座って教師の話に熱心に聞き入っていた。中年の男性教諭による退屈な授業のはずなのに、まるで演芸を観覧している客のように目を輝かせている。
「――えー……であるからして……元寇、いわゆる蒙古襲来をきっかけとして、各地に幕府に対する不満が広がったわけだ」
「まあっ、蒙古。懐かしいわねぇ。この辺りは戦場にはならなかったけれど、日本がどうなるかみんな心配していたのよ?」
由羅は教師の発する歴史用語にいちいち感想を言ってくるので、途中から面倒になって相手にするのをやめた。一番後ろの席とはいえ、何度も教師に背を向けるわけにはいかないし。
「――その後、足利尊氏や新田義貞らが鎌倉幕府を打倒する」
それを聞いた途端、それまで嬉々として授業を聞いていた由羅がぴたりと動きを止める。
なんとなく空気の変化を感じてちらりと目を向けると、彼女の表情に僅かな陰が差していた。目を伏せ眉間に皺を寄せ、どこか悲痛な面持ち……。
私はなぜか見てはいけない気がして慌てて目を逸らす。常に泰然自若としている由羅の弱々しい顔を初めて見て、思わずドキドキしてしまった。
長く生きているんだろうし、きっと色々あったんだろうなあ。頬杖をつき、漠然とそんな空想をしてみる。もっとも、具体的なイメージは何も湧いてはこない。それくらい自分にとって鎌倉時代というものは遠く、現実感を欠いていた。
そして間もなく、授業の終わりを告げるチャイムの音が教室内に鳴り響いた。
午前の授業が終わって昼食時間となった。
私はガヤガヤとうるさい教室内の隅っこでひとり、母の作った弁当を広げる。今日は焼鮭と卵焼きとキュウリの漬物入りだ。
「あら、おいしそうね」
弁当箱を覗き込んだ由羅がにっこりと微笑む。そういえば彼女は一度も食事を取ってなさそうだけど、大丈夫なのだろうか?
「た、食べます……?」
気になって顔を見ると、由羅はフフンとなぜか胸を張った。
「心配ご無用よ。アタシはお前から生命力を吸収しているから、お前が死なない限り飢えて死ぬことはないわ」
「それって要するに、私の寿命を貰ってるってことですか?」
よくある話である。悪魔と契約した主人公が、望みと引き換えに自らの寿命を売るのだ。私も恐らくはそんな状態なのだろうと思って尋ねると、由羅は首を横に振った。
「違うわ。そもそも寿命なんてあるかどうか分からない未来のものを貰うことなんて、アタシにはできないもの。アタシが貰っているのはお前の精気。俗っぽい言い方すれば、お前が摂取した栄養分ということかしら?」
「ちょっと待ってください。それじゃ、私が食べたご飯はあなたが食べたことになるの?」
「概ね半分はね。よかったじゃない、『だいえっと』になって。どんなに食べても半分しか太らないと思えば、どこぞの貴婦人が泣いて羨ましがるほどの厚遇よ?」
まただ。想定外のことをいきなり言われて驚いて、でもすぐに言いくるめられてしまう。由羅と話しているといつもそう。私って流されやすい。
昨日から食事を取ってもあまり食べた気にならなかった理由が分かり、由羅に恨みがましい目を向ける。だが彼女は気にせず、楽しそうに周りの生徒の弁当などを見て回っている。盗み食いするんじゃないだろうな?
私はため息を吐き、箸で卵焼きを掴んだ瞬間――。
「おい、伊田」
真横から槍で突かれるような鋭い声がして、ビクンと身体が硬直する。この世で最も聞きたくない声のひとつ。心臓が破裂しそうなほど高鳴る。
油の切れたロボットのようにぎこちなく声のしたほうを向く。そこにはやはり、戒田、横地、宮野の三人が憮然とした表情で立っていた。彼女らはいつも一緒にいて、いつも私に意地悪をしてくる連中。私が命と引き換えに復讐しようとした相手。
「なっ……なに?」
目を逸らし、震える自分の手元を見ながら返事をする。無意識のうちに卵焼きは箸でボロボロになっていた。
「なに、じゃねーよ。昼は必ずうちらにパン買ってこいって言ったろーがよ。なにひとりで飯食ってんだよ」
三人の中ではリーダー格の戒田が顔を近付け凄んでくる。
色黒の彼女は地毛と言い張っている茶色みがかったボサボサの髪をしており、眉毛もほとんどないので昔のヤマンバギャルを想起させた。
「ごっ、ごめんね。あの、その……忘れてた」
恐怖と怒りと屈辱でしどろもどろになる。目に涙が浮かぶ。顔が熱い。あれ、私は何をしようとしてたんだっけ――?
「忘れてたじゃねーよ、殺すぞ? さっさと買ってこいっつってんだよ」
横地が机の脚を蹴り、思わず「ヒッ」と悲鳴をあげてしまう。
彼女は胸も腹も顔も、ついでに声もでかい。同級生の男子よりよほど体格が良いので、小学生のときは女子相撲でたしか優秀な成績を収めていたような気がする。
「うっ、うん。買ってくるね。ごめんね。その、あの、お金は……?」
反射的に席を立ちつつ尋ねると、三人から般若のような形相で射竦められる。
「えぇーっ、お金ぇ? ごめぇん、忘れちゃったぁ。後で返すから貸しといてくれるぅ?」
三人の中では一番まとも……と言っていいのか分からないが、一番華奢で女の部分を捨ててなさそうな宮野が適当なことを言う。
彼女はやたら語尾を伸ばしてギャルっぽい喋り方をする。同じ不良でも他二人のように喧嘩とかするタイプではなくて、どちらかといえば援助交際とかするタイプだ。本当にやっているのかは知らないけれど。
「そうそう。罰として金は自分で払うのが礼儀だろ?」
「当たり前だよなあ? うちら腹減って死にそうなんだけど。誰かさんのせいでさあ」
三人から口々に罵られ、もう何も言えなかった。周りに目を向け助けを求めるが、皆がまるで私など存在しないかのように顔を背け仲間たちと談笑している。いつの間にか由羅もいなくなっていた。
私はいたたまれなくなり、教室を飛び出した。
元々薄暗い廊下が更に暗くなった気がする。胸が苦しい。世界から光が零れ落ちて、冷たく萎んでいくようだった。
私は思考が散漫になったまま、ふらついた足取りで歩を進める。
――三人にパンを買う……。購買に行く……。お金は私が立て替える……。
理由も意味も無く、ただ戒田ら三人の言いつけを脳内で繰り返す。また怒られるのは嫌だ。乱暴されるのはもっと嫌だ。
購買部は一階にあり、昼時はカウンター前の長机にクリーム色の番重が並べられ、その中にパンやサンドウィッチやおにぎりなどが敷き詰められている。当然、数に限りがあるので毎日多くの生徒でごった返す。
私が辿り着いたときにはすでに人波は薄れ、品数もまばらになっていた。来るのが遅れたせいだ。とりあえずメロンパンやクリームパンなど、彼女らから文句を言われないよう無難なチョイスをする。
あれこれ悩み、三人分のパンとコーヒー牛乳とミルクティーを選び終える。いざお会計しようと顔を上げたとき、息がかかるほどの至近距離に由羅の顔があった。
「きゃっ」
驚いて悲鳴をあげ、手に持った商品を机上の番重に落とす。そういえば由羅の存在をすっかり忘れていた。彼女は不作法にも店員のおばさんを背にする形でカウンターに腰掛け、こちらに身を乗り出している。
「ちょっと……脅かさないでくださいよ」
息を整えながら抗議すると、由羅は腕を組み、まるで俗物を見るかのように冷たい目でこちらを見下した。
「哀れね」
その言葉が心臓を貫いた。
哀れ。たしかにその通りだ。私は哀れで惨めで恥ずかしい存在だ。同級生にパシリにされて、それに抗うこともせずせっせとパン選びをしていた自分が脳裏を邂逅する。
全身の神経が溶けて無くなったかのように感覚が無い。私は一言も返すことができず、ただ棒立ちのまま由羅の顔を見つめる。
「アタシとお前は魂を共有していると言ったでしょう? だからお前の痛みがアタシにも伝わってくるのよ。それは甚だ不本意なの。分かる?」
それはなんとなく分かる。私の過去の記憶が読めるのなら、今現在の苦しみを読むくらい造作もないだろう。だけど、何が言いたいのかは分からない。
「そんなこと言わないでよ。仕方ないじゃない。由羅だって私があいつらに絡まれているとき、助けてくれなかったじゃん。どうして助けてくれなかったの?」
由羅は確かに私の願いを叶えると言った。なのに、実際は私があいつらから酷いこと言われているとき姿を消して守ってくれなかった。そんな薄情な妖怪になんで責められなきゃいけないの?
「勘違いしないことね。アタシは復讐を請け負ったけれど、お前の用心棒じゃないわ。お前が死んだら困ることは事実だけど、そうでない限りはお前のためにあくせく働く道理はないでしょう?」
由羅は私が何を言っても平然としている。むしろこちらが言えば言うほど、まるで愚者を相手にするように不遜になっていく。それが悔しい。
私が目に涙いっぱいにして俯くと、由羅はカウンターからひょいと飛び降りた。そして、そっと私の両肩を抱くようにして再び顔を近付けてくる。
「えっ?」
こちらがドギマギしていると、彼女は狐さながらに目を細めて囁く。
「悔しいでしょう? その悔しさをアタシでなく、あいつらにぶつけてごらんなさい? お前もアタシと魂を共有している以上、負け犬であることは許さないわ。どうせなら逃げずに戦ってみせなさい。それが復讐を果たす条件よ」
「ちょっと待ってください。そんなの約束が違う……。あなたは復讐してくれると言ったじゃないですか?」
滅茶苦茶な言い分に抗議する。
私は身体を差し出した。願い事も言った。他の条件を後出しで要求されるなんて理不尽だ。
「復讐はするわ。だけど、どういう条件でするかはアタシが決める。それだけのことよ」
「そんなの聞いてない……」
「残念ね。アタシたち神は悪魔のように契約社会じゃないの。どちらかといえば義理人情で回っているわね。お前もサムライの子孫なら覚悟を見せなさいな」
「私はきっと農民の子孫なんです」
私は力なく答えつつ、もう何を言っても無駄だと悟った。というか、もう全てがどうでもよくなった。
よくよく考えたら私は戒田ら三人に復讐するために命を投げ売ったのだ。なんで未だにあいつらの命令なんて聞かなきゃならないんだ。本末転倒もいいところじゃないか。
要するに由羅は、私に自力でやり返せと言っているのだ。そうすれば手を貸してやると。なんて厚かましく怠慢な呪いだろう。等価交換とは程遠い。
結局何も買わずに購買を出た私の背中越しに、由羅が幾分優しげに声を掛ける。
「心配しなくていいのよ。お前はアタシ。アタシはお前。お前は偉大な神と一心同体なのだから、何も恐れることはないわ」
「どこが」と言いかけて、口を噤む。今のところまったく頼りにはなっていないけれど、一心同体と言われるのはほんの少しだけ心強かった。みんなから疎外されるばかりだった私が、初めて誰かから存在を認めてもらえたような気がする。
私は昼食時間の終わりを告げる予鈴の音を、どこか他人事のように聞いていた。
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