1-3

「――茜、起きてるの? 朝ごはん出来てるわよお」

 ふいに廊下を隔てた先にある居間から母の呼ぶ声がしてドキリとした。そして、咄嗟にある問題が頭を過る。もしこのまま母と由羅が対面したら、いったいどうなってしまうのだろうか。

 由羅は見た目には私とそう歳も違わない少女だが、文献に残る程度には凶悪な妖怪。このまま母と会ったら口封じに……なんてことになりかねない。どうしよう。

「茜? ごはん冷めちゃうわよ。早く来なさい」

 しばらく逡巡していると、再び母から催促の声。

 これ以上待たせると、部屋まで覗きに来るかもしれない。

「……誰か呼んでいるわよ? 行かないの?」

 由羅が忙しなく目線を泳がせる私を覗き込み、まるで他人事のように尋ねる。いったい誰のせいで悩んでいると思っているのか。

「あの、由羅……」

「なあに?」

 こちらを弄ぶようなゆったりとした返事に苛立ち、つい早口になってしまう。

「私はこれから食事をしてくるので、ここで待っててもらえますか?」

 なんとしても母に会わせるわけにはいかないのでお願いしてみた。正直、母をそこまで大切に想っているわけではないが、やはり自分のせいで傷付けられるようなことは避けたい。

「いやあよ。アタシとお前は一蓮托生。ずっとお側を離れないわ」

 由羅は演技がかった様子でベッドにへたり込み、よよよと袖で目元を拭う仕草を見せる。もちろん涙は一滴も見られない。

「なんですか、それ。ひょっとして、今後一生私たちは離れられないってこと?」

 狼狽して尋ねると、由羅は小さく笑みを浮かべて首を左右に振る。

「それはそれで『ろまんちっく』だけど、安心してちょうだい。アタシとお前は命を共有しているだけで、必ずしも常時一緒にいる必要はないから」

 それを聞いて少し安堵する。

「じゃあ、なんで付いてきたいんですか?」

「だってアタシ、七百年も聖樹の檻に囚われていたのよ? 孤独恐怖症なの。誰かの側にいられないと死んじゃうの」

 なぜか猫撫で声になった由羅がいきなり身体を寄せてきて、上目遣いでこちらを見てくる。

 兎かよ。妖狐のくせに。危うく口に出かかってどうにか抑える。

 いったいこの妖怪は、どこからが冗談でどこまでが本気なのかまるで分からない。雲を掴むようなやり取りに混乱の度合いが増していく。

「――茜。いい加減にしなさい」

 反応がなくて痺れを切らしたのか、母が廊下を近付いてくる足音がする。絶体絶命のピンチだ。

「あっ、あ、ど、そのっ……」

 私は咄嗟に立ち上がったがどうすることもできず、半ばパニックになりつつ廊下に通じるドアを凝視する。

 そして、無慈悲にもそのドアが勢いよく開け放たれる――。


 一瞬の空白。

「……茜。あなた……」

 ドアの前に立った母は驚いた顔をしてこちらを見つめている。

 ――お母さん。どうし。言い訳。由羅。あぶな。やめっ――。

 様々な言葉にならない感情が怒涛の如く脳内を駆け巡る。だが、それに反して私の身体は微動だにしない。まるで全身の時が止まったかのように冷たく硬直していた。たぶん表情も凍り付いていたと思う。

 そんな私をよそに母はしばしの沈黙の後、いつものように呆れたような顔をして言った。

「何ボーッと突っ立ってんのよ? 聞こえてるなら返事くらいしなさいよ」

「えっ、あの……はい」

 私はなぜか敬語で答え、部屋から去っていく母の後ろ姿を見送った。

 そのまま首だけぐるりと動かして、未だ悠然とベッドに腰掛けたままの由羅に目を向ける。

「……どういうこと?」

 私の質問に由羅はいたずらっぽく目を細めた。

「アタシの姿は、アタシが見せたいと思った相手にしか見えないわよ。今ここで騒がれても面倒だし」

「……なるほど」

 何も納得できなかったが、それ以上聞く気も起きなかった。正直昨日から超常現象の連続で、常識という感覚が麻痺しているのかもしれない。もはや脳の許容量をとっくに超過していたのだ。

 私は朝食をとるため、部屋を出ていつもの食卓へと向かった。その後ろをなぜか嬉しそうに付いてくる由羅。彼女が何を考えているのかまったく分からない。

 疑問は次々と生じてくるが、とりあえず食事を取ってから考えよう。私はもやもやする気持ちを、豆腐の味噌汁とともに腹の奥へと嚥下した。


「本題に入ろうかしら」

 朝食を終えて部屋に戻るなり、食事中はずっと黙っていた由羅が唐突に口を開いた。飾り気のない物言いは、さながら用件のみを一方的に伝えるマフィアの女ボスみたいだ。

 私はぎょっとして彼女に向き直る。

「えっ、本題?」

「そうよ。アタシは願いを叶える対価として、お前の中に宿らせてもらったわ。やや不本意だけどね。でも――」

 そこまで言って、由羅はこちらの眼前に人差し指を突き立てた。

「まだお前の願いを聞いていない」

「私の願い……」

 言いながら昨晩の森でのやり取りを思い返す。たしか由羅は、「身体を差し出すならどんな願いでも叶えてあげる」と言っていた。

 そこでふいに、昨日自殺するつもりだったという事実が滝のように頭から降りかかる。その冷たい圧力に全身の感覚が流され、私はその場にへたり込んでしまう。

 願いを問われたら理由に行き当たる。復讐を望んだ理由。

 嫌な記憶が蘇る。辛い過去だ。普段は見ないようにしている自分の中のどす黒い感情が首をもたげる。「なんで今ここにいるの?」と意地汚く己を責め苛む。

 床にうずくまったまま声なき声を上げている私を冷たく見下ろしながら、由羅が口元だけにこりと微笑んだ。

「……ふぅん。なるほどね」

 彼女は得心した様子でしゃがみ込み、顔を私の側に近付けた。

「復讐ね?」

 私は両目から涙が溢れ、無言で何度も頷いた。

 死を前にした圧倒的な恐怖と苦痛と絶望。その先に在ったものは黄泉の国ではなく、いつも通りの日常であった。そのことが残念だったのか嬉しかったのかは自分でも分からない。でも、あいつらに復讐したいという気持ちだけは変わらず確かにあるのだ。

 こんなの間違っているって分かっている。恐らく自分が幼稚なことも。だけど、それ以外の望みなんてなかったし、現状を引きずってまで生きていたくなかったのが偽らざる本心。

 人に道徳は必要かもしれないけれど、道徳のために生きているわけではない。私は誰かの為にではなく、自分のエゴのために復讐を願う。自分の望みが叶うなら、自分自身でさえどうなったって構わない。

「人間って、七百年経っても変わらないものねえ」

 ふいに肩を竦めて呟やかれ、ついムッとしてしまう。なんだか私の覚悟を馬鹿にされた気分だ。

「あなたに何が分かるの?」

 言った瞬間ハッとしたが、由羅は特に立腹するでもなく虚空を眺めていた。

「分かるわよ。人間がアタシに望むことなんて、富と快楽と復讐って相場が決まっているの。お前のような人間は今まで掃いて捨てるほど見てきたわ」

 由羅はおもむろに立ち上がると私に背を向け歩き出し、通りに面した窓を開けた。初夏の穏やかな風に彼女の長い黒髪がふわりと舞い、妖狐というよりは天女の如き神々しさをまとって見える。

 人間ではないのだから当たり前かもしれないけれど、その佇まいに歴然とした差を感じて胸が痛くなる。種族とか年齢とかというより、存在そのものの重みや尊さがまるで違っていた。

 私は凡愚な人間。そんなこと自分でも分かっている。頭も大して良くなくて、運動なんてからきしダメ。外見だってなんの特徴もない地味なタイプで、男子から告白された経験なんてない。クラスメイトにイジメられても自分でやり返すことすらせず、死んで呪おうとするダメ人間だ。

 ――こんな私でも誰かに頼れば……超越した存在の力を借りることができれば、願いを叶えられる?

 私はやや眩しげに遠くを見つめる由羅の美しい横顔を見つめたままそっと歩み寄り、その世界との調和を崩さぬよう静かに声を掛ける。

「復讐したい人がいるんです。叶えてくれますか……?」

 あまりにも卑屈。嘲笑でもされるだろうか。私は不安になって腹に力を込めた。

 だが、こちらを振り返った由羅は、まるで純真な子供のように溌溂とした笑顔をしていた。

「ええ。御安い御用よ」

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