1-2

 目覚めると、私は見慣れた自分の部屋のベッドに横たわっていた。

 窓から爽やかな日差しが白いレースカーテン越しに差し込んでいる。何も変わらない、いつも通りの朝。

 肩まで布団を被っているので定かでないが、上はブルゾンの中に着ていた白いシャツ、下はジーパンのまま裸足になっていることが感触で分かる。

 あれは夢だったのだろうか。どうやってこの部屋まで戻ってきたのかがまったく思い出せない。確かに昨日の夜、自分は意を決して鎮守の森に入り、そこで首を吊ったはずなのに……。

 とりあえず今の状況を確認しよう。今日は日曜日だから学校はない。慌てる必要はない。

 私はまだ判然としない意識のまま、おもむろに身体を起こす――。

「あら、お目覚めかしら?」

「うわああああっ!」

 視界を過った影に唐突に呼び掛けられて、思わず身を縮めて絶叫してしまう。

 恐る恐る目を開けると、ベッドの縁、ちょうど自分の脛辺り。赤い着物を着た見知らぬ女が腰掛けていた。

 やや着崩しているが、花柄の刺繡の施された色鮮やかな和服姿。どう見ても勉強机やテレビの置かれた簡素な洋室からは浮いていた。まるで別々の写真を切り抜いて合成したような違和感。

 裸足の足を寛いだ感じでプラプラさせている様を見ると、私が目覚めるかなり前からここにいたということだ。背筋に空寒いものが走る。

「だ……だ……」

 誰と尋ねようとしたが、先ほど叫んだ際に喉に激痛が走ってほとんど声が出せなかった。この痛みはまさに、森の中で首を吊った時に感じたものだ。目に涙が滲む。

 腰辺りまで伸びた絹のように繊細な黒髪。前髪は眉の辺りで上品に切り揃えられ、癖も跳ねもないよくある日本人形のような髪型。

 髪と対比するように雪のように白くなめらかな肌。硝子のように冷たく無機質な赤い瞳。絵に描いたような美少女……いや、絵の中にしか存在し得ないような意思を持った造形物は、首を抑えてうずくまる私を涼しい顔で見つめていた。

「いきなり大声を出さないでちょうだい。びっくりするじゃない」

 表情そのままの、冷たく透き通った声。

 いきなり「ケケケ!」とか叫んで襲ってこないことに少し安堵しつつ、それでも状況が判然としないことに変わりはない。

「ど、どういう、こと?」

 わけが分からず、どうにか声を振り絞って尋ねる。

 聞きたいことはたくさんあったが、喉も脳も半分痺れていてうまく機能してくれない。結果、漠然とした問いになってしまう。

 まあ、実際聞きたいことはその一言で集約できた。「あなたは誰?」とか、「どうしてここに?」とか、「なんで私はここにいるの?」とか、そういった諸々を含めて「どういうこと?」なのだ。

 そんな私の意を汲んだのか、ベッドに座ったまま上体だけこちらに向けていた女が目を細める。

「愚かな子。もう忘れてしまったの? お前はアタシと契約したのよ。自分の望みと引き換えに、アタシの宿主になると」

 改めて聞くと、少女の見た目以上に大人びている物言いだ。まるで女王様というかお姫様というか、要するにやや尊大な口調だった。

 突然のことに頭が混乱しているせいか、それとも寝起きのせいか、彼女の発言がまったく理解できない。契約って何? 私は必死にか細い記憶の糸を手繰り寄せる。

 そういえば鎮守の森にある不気味な樹で首を吊ろうとしたとき、奇妙な人影を見た気がする。それはまるで現実離れした美しさで、そう、まさに目の前の女と同じような……。

 そこでハッとした。そうだ。彼女とは森で出会っている。私はそこで殺されかけたのだ。

「あなた、あの時のっ……。よくも――」

 私はベッドに座ったまま後ずさりした。首に絡み付く縄の先に佇む、女の美しくも冷酷な眼差しが脳裏にフラッシュバックする。

「――よくも?」

 ふいに女の瞳が妖しく煌めいた。次の瞬間、全身がドクンと大きく脈打ち、自分の右手が意思に反して勝手にグルングルンと動き始めた。

「な、なになにっ?」

 何が起こったのか分からず必死に動きを止めようとするが、どんなに力を込めても右手は持ち主の言うことを聞かない。それどころか、やおら左手の人差し指を掴み手の甲へ向かって捻り始める。

「いたたっ、痛い、痛い」

 指の関節が激痛を伴いながらミシミシと音を立てる。自分の握力とは思えない凄まじい力である。このままでは骨が折れてしまう。いや、指がもげてしまうかもしれない。

 恐怖のあまり再び叫び声をあげそうになったところで、ようやく右手が自分の意思を受け入れて左手をパッと解放した。きつく握られていたため、人差し指は赤黒く変色していた。

 すぐに目の前の女の仕業だと確信した。

 私は生唾を呑み込み、何度も右手をグーパーさせる。……なんともない。

 その後、ゆっくりと彼女に視線を向ける。

「人間の分際でこのアタシに文句など言えると思って? 次また分不相応な言葉を遣ったら、今度は本当に指をもいであげる」

 女は足組みをしながらいたって平静な口調で言った。

 「人間の分際で」という発言から察するまでもなく、どうやら彼女は人間ではないらしい。しかもどういう仕掛けか分からないけれど、人を操る力もあるようだ。

 私は蛇に睨まれた蛙の如く縮こまる。

「お前、見たところ随分若そうだけど、歳はいくつ?」

 こちらが黙っていると、女が幾分表情を和らげて尋ねてきた。

「……十四歳です」

 素直に答える。

「十四? ホッホッホ。可愛らしい『べいびい』ちゃんねえ。そんなべいびいちゃんが九百年も生きているアタシを前にしているのよ? もっと敬いなさい」

「九百歳……? そうは見えませんね」

 私は放心したまま、そんな場違いな返答をしてしまう。九百歳という年齢があまりに現実離れしているため、適当な感想が思い浮かばなかったのだ。

「そう? ありがと」

 女は満更でもなさそうに微笑んだ。

 実際、彼女はどう見ても十代後半の容姿である。私と違ってスタイルは大人っぽいけど。と、着崩された着物から覗く豊かな胸元をつい見てしまう。

「あの、幾つか質問してもいいですか?」

 恐る恐る尋ねると、女は意外にもあっさりと頷いた。

「ではまず……あなたは何者なんですか?」

「アタシは、かつて人間どもから妖怪などと呼ばれていたわ」

 薄々勘付いてはいたが、やはりである。

「ということは、あなたが大昔に陰陽師に封印されたという妖狐?」

「まあね。でも実際のところ、アタシは妖でも狐でもないわ。どちらかといえば神に近い存在よ。だって、姿形も変幻自在で、人間よりも賢いのだから。もともと狐だったというだけで化け物扱いされるのにはもうウンザリ。それを言うなら、人間だって元々は猿じゃない?」

「はあ……」

 分かるような分からないような理屈である。

 まあ、確かに狐には見えない。目は切れ長ではあるけれど、狐面のように糸目ではないし。漫画でよくあるような狐耳もない。見た感じ尻尾もなさそうだ。そうと言われなければ誰がどう見ても普通の人間である。普通の定義は分からないけれど。

「それじゃあ、あなたはどうしてここにいるんですか?」

 再び機嫌を損ねぬよう、慎重に言葉を選んで尋ねる。見た目は華奢で可愛らしい少女なのだが、その高慢な態度や得体の知れない能力は下手に触れられないものであった。さながらいつ爆発するか分からない時限爆弾だ。

「何度も言わせないでちょうだい。お前がアタシの宿主になると誓ったからよ。深い森の獄に囚われていたアタシを、お前が救い出したのでしょう?」

 身に覚えがなかった。いや、あったか。

 少なくとも教会の中で、大衆に見守られながら宣言するような誓いはしていない。署名捺印もしていない。

「私が?」

「そうよ。頭の悪い子ね。アタシが封じられた聖樹の元で、お前は命を投げ出した。その空いた器がアタシを受け入れたからこそ、こうして森の外に出ることができたのよ。お互いにね」

 妙に気になる言い方であった。空いた器が意味するものといったら、ひとつしかない。

「ちょっと待ってください。それってつまり……私は死んだってことですか?」

 慌てて尋ねると、女はごく当たり前のように頷いた。

「そうよ。おめでとう。それが望みだったのでしょう?」

「いや、えっと、まあ……」

 再び混乱しそうだったので、自分の腕や全身の感触を手で確かめながら答える。

「でも、生きている」

 未だに首や指は痛むが、どこにも大きな傷はない。手のひらに血がべったりなんてこともない。

 胸が相変わらず薄いのは無視するとして、ちゃんと心臓の鼓動を伝えている。もちろん、布団をめくって足があることも目でしっかりと確認した。

「いいえ。お前はあの時、確かに死んだ。死んだお前の身体にアタシが命を分け与えたのよ。それによってお前は生き返り、お前と魂が繋がったアタシは、朽ちかけの樹の呪縛から解放されて自由の身となった」

 また難しいことを言う。

 要するに私は妖狐が眠る樹で命を絶ち、彼女の憑代となる代わりに命を吹き返したということらしい。たぶん。

 あまりに人知を超えた展開である。伝承を読んで予備知識があったからなんとなく理解できたけれど、普通の人はちんぷんかんぷんだろう。いや、普通の人はそもそもあんな森に行かないか。

 あと聞きたいことといったら……。

「最後に……えっと、名前を教えてもらえませんか?」

 何はともあれ、まずは呼び名がなくては不便で仕方なかった。ずっと『あなた』と呼ぶのも気持ち悪い。

「アタシは由羅」

 女はそう名乗った。即答した。

 意外にも人間っぽい、愛嬌ある名前だ。

「ゆら、さん? 素敵な名前ですね」

「おべっか使うのは百年早いわよ」

 女の表情が再び険しくなったので、私は慌てて手を振った。

「ち、違います違います。決して変な意味ではなく、本当にそう思っただけなんです」

 女はしばらくこちらを見つめた後、そっぽを向いて小さくため息を吐いた。

「やれやれ。ようやく宿主を見つけたと思ったら、こんな頼りないお嬢ちゃんだとは。やむを得ないこととはいえ、我ながら情けない」

 女はそこで、じろりとこちらに目を向ける。

「それから、『由羅さん』と呼ぶのはやめてちょうだい。『さん』とか『はん』とか、京の忌々しい陰陽師の口調を思い出していやだわ。由羅でよい」

「は、はあ。それじゃ、由羅。えっと、私は伊田茜といいます。これからその、よろしくお願いします……?」

 私は彼女との関係性をどう捉えていいのか分からず、曖昧な挨拶をする。

 対峙する自称九百歳の少女と、自殺未遂なのか既遂なのかよく分からない女子中学生。客観的に現在の構図を想像したら言いようのないおかしさが込み上げてくる。

 ひょっとしたら未だ夢を見ているのではないか。半ば本気でそんなことを思い、私も彼女に倣って大きく息を吐いた。

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