ゆらり、ゆらゆら

由上春戸

1-1

 不気味なほどに静まり返った夜の森が、どこまでも果てしなく続いている。時折吹く生温なまぬるい風が木々をざわつかせ、いよいよ自分が触れてはいけない禁断の領域に踏み込みつつあることを予感させた。

 夜の山は冷えるかと思っていたが、六月後半ともなると普通に蒸し暑い。ブルゾンとジーパンという装いにリュックまで背負っているので、身体の熱が逃げ場をなくして服の間で滞留しているようだった。

 肩まで伸びた髪先が、先ほどから首にこすれて煩わしい。私は不快感に耐えかね、いったん立ち止まった。懐中電灯を持った手の甲で額の汗を拭い、天を仰ぐ。

 空は墨汁を垂らしたような漆黒を湛えており、星の瞬きさえ見えない。前々から調べていた通り今宵は新月。まとわりつくような暑さは想定外だったが、それ以外は概ね順調である。

 計画が着々と進行していることに満足を覚えつつも、一向に気分は晴れなかった。当たり前だ。私はこれから自殺しようとしているのだから。そのために地元の人間でも滅多に立ち入らない鎮守の森に、わざわざ真夜中に忍び込んだのだ。

 胸がキリキリと痛む。死が怖いわけではない。もう長い間、ずっとこの刺すような痛みに苦しめられている。

 起きている間はずっと、勉強している時も、食事をしている時も、トイレに入っている時だってこの苦痛から解き放たれたことがない。あいつらのことが心の片隅にあるというだけで。

「もう、ウンザリ」

 私は苛立ち紛れに地面に落ちていた小石を拾い、近くの木に向かって投げつけた。石は木の幹にかすりもせず、深い闇の中に消えていった。

「どうして私ばっかりこんな目に遭うの? あいつら、絶対に許さない! 呪ってやる! 死んで復讐してやる!」

 猛烈な悔しさが込み上げてきて、絶叫しながら手当たり次第に石を拾っては投げつける。だが、とうとう一度もクリーンヒットすることはなかった。まるで私の人生のように。

「はあ、はあ、はあ……。ちくしょう」

 馬鹿らしくなり、自然と汚い言葉が零れた。心臓が早鐘を打っている。息が続かず軽く眩暈めまいがする。ついには吐き気まで催してきて、たまらずその場にしゃがみ込む。

 そんなに標高は高くないはずだが、心なしか辺りの空気が薄い気がする。私は膝に手を付いてどうにか立ち上がると、改めて周囲の闇に懐中電灯の心許ない光を向ける。

 鎮守の森に入ってから三十分近く歩いてきたところだろうか。聖域とされ猟も禁じられている深い森は、どちらを向いても似たような木々と草が茂っている。当てもなく彷徨い続けていたので、とっくに方角すら分からなくなっていた。

 ――もうどうだっていいや。どうせ死ぬんだし。

 私は自嘲気味に笑い、再び覚束ない足取りで歩き出した。

 ただ死ぬだけなら自宅マンションの屋上から飛び降りたって、電車に飛び込んだっていい。だけど、それでは意味が無かった。目的は死そのものではなく、復讐なのだ。あいつらに対する。

 私の命が無駄だったとしても、死までは無駄にしたくない。なんとなく、そんな使命感にも似た何かが私を突き動かしていた。


 鎮守の森のことを知ったのは、ひと月ほど前のことである。

 その日の放課後、気まぐれに訪れた学校の図書室の片隅。ほとんどの生徒が素通りする地域情報の棚で目に付いた、『郷土の歴史』という本にその森のことが書いてあったのだ。

 ハードカバーの表紙は色褪せ、うっすら埃まで被っていて触るのを少し躊躇させた。ページにも抜けが目立ち、発行日を確認したらどうやら戦前に刊行されたものらしい。

 なぜその本を手に取ったのか自分でも分からない。私は別に歴史オタクでも地域情報探求家でもない。ただ、その古めかしさがどこか神秘的で、ファンタジー映画に出てくる古文書を彷彿とさせた。

 内容もまた、「歴史」と称するにはあまりに突飛なファンタジー。

 時代は鎌倉時代の末期。この辺りでは原因不明の疫病が流行し、多くの人間が犠牲になったそうだ。都から派遣された陰陽師が原因調査に当たったところ、どうやらそれは、近くの森に棲まう妖狐の呪いによるものだと判明する。

 さっそく陰陽師と近隣の侍達によって、数か月にわたる妖狐の討伐が行なわれた。深い森に巧みに身を潜め、妖術を使って攻撃してくる妖狐との戦いは熾烈を極めるが、ついに深手を負わすことに成功する。

 窮地に立たされた妖狐は一計を案じる。この地に今後、疫病が流行らないようにする代わりに、自分のことを助けてほしいと申し出た。医学の発展していなかった時代である。人々は協議の結果、その申し出を受け入れ、命を助ける代わりに妖狐をその森に封じることとした。

 こうして、この地では疫病が起こることがなくなり、地元の人間は代々、畏敬と恐怖の念を持ってその森を鎮守の森として守り続けてきたそうだ……。

 私は最初、ありきたりな眉唾物まゆつばものの伝承だと思った。だって妖狐とか陰陽師とかどう考えても胡散臭い。中学生にもなってそういった話を素直に信じられるほどピュアなわけではない。

 だが、ふと最後の一文が妙に心に引っかかったのだ。

 『――なお、鎮守の森で死んだ者の魂は、妖狐の念が宿って強力な呪いを生むといわれている。』


「……まさか、ね」

 私はふいにおかしさが込み上げてきて、声を上げて笑った。

 自分は何を考えているのか。精神的に追い詰められ、頭がおかしくなっているのかもしれない。だって、こんな幼稚な作り話に影響され、これから自殺しようとしているのだから。人を呪うならという先入観のみで、わざわざ新月の夜を見計らって。

「もういいや、どうだって」

 私はひとしきり笑った後、前を見た。懐中電灯に照らされた視界の先、かすかに開けた空間の中ほどにひと際大きな樹が目に留まった。なぜかその樹だけ葉が茂っておらず、両手を広げても端まで届かない太い幹にはボロボロのしめ縄が回されていた。

「あそこにしよう」

 私は独り言を呟き、ゆっくりとその樹に向かって歩き出した。これ以上森を彷徨さまよい歩く体力は残っていなかったし、何より足が痛い。

 近くで見ると、なんとも不格好な木であった。

 高さは私の倍の倍はありそうだけど、途中で二股に分かれた幹は朽ちかかっているのか、地面に向かってだらしなくこうべを垂れている。ざらざらした樹皮はどす黒く、魔女の森にありそうな禍々しい雰囲気。まさに呪いの力を得るにはうってつけのロケーションだ。

「お父さん、お母さん、さようなら。私は死にます。もしこの森の魔力で怨霊となることができたら、まっ先に奴らに復讐してやります」

 遺書代わりにと、誰にともなく大声で言った。あるいは鎮守の森そのものに告げたかったのかもしれない。もはや頭が混乱しているため、自分でも己の行動に説明が付かなかった。

 垂れ下がった幹に足を掛け、慎重に登っていく。体重をかけると一瞬大きくしなってビクッとしたが、思いのほか簡単に二股に分かれた幹の付け根まで到達することができた。

 木登りなんて初めてするけど、意外と私にはセンスがあるらしい。死の間際に自分の隠れた才能を発見したが、別にそれはどうでもいいことであった。

 幹をまたいで座り、リュックから縄を取り出して近くの太い枝に結び付ける。いよいよそのときが来たのだ。

「……結構高いな」

 さすがに下を見ると恐怖心が込み上げてきた。目の前に迫る死。今まで散々怖い目に遭ってきたが、これは別格である。なにせ他人から強いられているのではなく、自らが招いた状況なのだから。

 思えば私の人生ってなんだったんだろう? 私は本当に死にたいのだろうか? 本当に呪いなんてあるのだろうか? お母さんとお父さんは悲しむかな?

 いざ死を目の前にすると色々と考えてしまう。やっぱり日を改めようか。いや、しかし……。

 首に縄を掛けたまましばし逡巡しゅんじゅんしていると、突然耳元で女の声がした。

「早く飛んじゃいなさいよ」

 ――え?

 驚いて顔を上げた拍子に体勢を崩し、自分の身体が宙に投げ出される。

 空中で制止した刹那、先ほどまで自分が立っていた幹の元に、赤い和服を着た女が佇んでいるのが見えた。素足に下駄を履き、胸元の開いた鮮やかな着物姿。どう見ても登山客ではない。

「えっ……なっ――?」

 見ていられたのは一瞬だけだったのに、その人間離れした美しさに思わず息を呑んだ。人形のように艶やかで長い黒髪。赤く輝く瞳。

 いったい何が起こったのか考える間もなく、落下の衝撃で首に縄がガチっと食い込む。そのまま恐ろしいほどの圧力で頸椎を締め上げられる。

「ぐっ……がっ……」

 想像を絶する激痛。喉を鉛で塞がれ、眼球を外に向かって絞り出されるような感覚。視界が歪み、世界が灰色に明滅する。

 もがき苦しむ私の耳に、再び先ほどの女の声が聞こえてきた。

「どう? 苦しい?」

 声を出せないため、心の中で必死に頷いた。首吊りが一番楽な死に方って何かに書いてあったけど、絶対嘘だ。とっくに気を失っていてもおかしくないはずなのに、なぜか苦痛だけを残して意識は鋭敏としていた。

「久しぶりの人間だもの。しばらくアナタの悶え苦しむ様を見ていたいものだわ。だけど、アナタが対価を支払うなら、助けてあげないこともない……」

 女の声は続いた。木の上でしゃがみ込み、わざと焦らすような緩慢な口振り。明らかにこちらが苦しんでいるのを楽しんでいるようだった。

「アタシをアナタの中に宿らせてちょうだい。この忌々しい呪縛を断ち切るためには、新たな宿主が必要なの」

 ――えっ、なに。意味が分からない。意味が分からない!

 苦しみでそれどころではない私をよそに、女は続けた。

「この樹はすでに朽ちかけている。早く他の宿主に移らないと、アタシは死んでしまうでしょう。アナタが必要なのよ」

 どうやら彼女はこの大樹に封印されている人外の者らしい。ということは、自分に話し掛けているのは伝承にあった妖狐。そんなまさか。

「さあ、どうする? アナタはアタシに願いがあって此処まで来たのでしょう? 身体を差し出すならどんな願いでも叶えてあげる。それとも、三日三晩その地獄の苦しみを味わいたいかしら?」

 息ができないはずなのに、意識は残酷に覚醒を続けていた。縄が肉に食い込み、骨がギリギリと軋む。このままでは首が千切れてしまいそうだ。

 ――お願いします。なんでもするから、助けてください。

 私は気が狂いそうになりながら、心の声で懇願した。この苦しみが三日も続くなんて耐えられない。

「ふふ。いい子ね……」

 その声とともに、突然縄がブツリと切れる小気味良い音がした。私は自分の身体が解放され、重力によって地面へと落下していくのをまるで他人事のように感じていた。

 薄れゆく意識の中、幹から見下ろす女の不敵な笑みが、網膜に焼き付いて離れなかった。

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