第13話 世の中へのハンコウよ

 諸田のベッドは、堂々と稲荷野に占拠されていた。

 稲荷野は仰向けになって、ハンディファンを回していた。

「おかえり。早いわね。男だからそうか」

「見春もそこそこ早かったろ。ていうか、そこどけてくれない? 俺のベットだし。あと、そのミニ扇風機、どこから引き出してきた」

「このベッドの下にあったわ。暇で室内物色してたら見つかったの」

「勝手に物色すんなや。何度も言うけど、人ん家だぞ」

 稲荷野の奔放さに打つ手無く、その所在なげな両手で頭を抱えて、呆れ返るばかり。

 ベッド下には、諸田の性生活を豊かにする資材が押し込まれている。

 物色が本当ならば、確実に目を通している。 

 いくら無神経でも、そこまでプライバシーの草の根をかき分けてくるのは間違っているだろ。

 諸田は弱って崩れて、座布団を枕にして寝そべった。

「ワレワレハウチュウジンダ」

 小さなプロペラで変声させて戯れる稲荷野。くだらなすぎて、諸田は耳に通すだけでも恥ずかしくなる。

「なあ見春。なんで案山子なんか作ってんだ? そんで、どうしてビキニ姿なんだ?」

 稲荷野への警戒心が薄まってきた頃合い、諸田は一番の気がかりを尋ねる。

「世の中へのハンコウよ」

 稲荷野は真理を公言するように、毅然と答えた。

「……えっと、『ハンコウ』ってことは、つまり、罪人? 公然わいせつ罪ってこと?」

「犯罪の犯行じゃなくて、抗う方の反抗」

「ほう」

 と、諸田、心あらずの返答。

 実際、「犯行」の方がつじつまが合っているから、諸田は納得できなかった。

 その様子を見かねた稲荷野は、気だるそうな息を漏らして、詳細を付け加えた。

「どいつもこいつも、つまらない人間ばかり。些細な事に目を奪われて、本質を見抜こうとしない。だから、遠く退いたところから、畏れと妬みを抱いて、私に一歩も近づこうとしない。そんな、くだらない世の中への、私なりの反抗よ」

「……なんだそれ」

 やっぱり、理解できない感性だった。

 そもそも風呂上がりの脱力感で、理解しようとすらしなかった。 

 正直、お前の方がくだらないとすら思った。

「興味なさそうね。残念。私はあなたに、前髪くらいの興味を持っていたのに」

「俺に興味があるだって? わかりやすい手のひら返しだな。急に甘えだして心を許すほど、俺はちょろくない。早くどけろ。俺のベッドだって言ってんだろ公然わいせつ女」

 負けじと諸田もしてベッドに顔を出すと、不意に投げつけられたハンディファンがおでこに直撃した。

「だ痛っ‼」

「人の心がわからないから、ちっぽけな中小企業に就職する羽目になるのよ」

「唐突にものを投げつける奴に『人の心』を説く資格はねえよ!」

「さっきも言ったけど、私は無為自然に人から疎まれる、不幸な人間なの。でも、しつこくて、うざったいくらい構ってくれた人がいる。それが、諸田功介よ」

 その時の口調には、見下そうもからかおうともしない、純粋な思いが込められているように感じた。

 諸田はそれを、真っ当な告白だと受け止めた。

 うざいうざいと口では拒絶していたものの、やっぱり稲荷野を一人の美しい女性とみなす心が確かにあった。

 腫れぼったいおでこの痛みも、あどけなく擦りむいた膝小僧のような感傷となって、体のこわばりが緩んでいく。

「……ふん、そうかい。まあ、嬉しい限りだな。今まで、特に人から必要とされたことも無ければ、褒められたこともないから」

「ああそう。それじゃあ、もっと褒めてあげる。私はあなたの事が好き」

「んなっ⁉」

 突然、直接心臓を掴まれたように胸が締め付けられる。

 嘘か真か、慎重に判断する暇もなく、諸田は信じ切った。

 驚いて、痺れて、体が空白になって、声も出せず、仰向けのまま動くこともできなかった。

「……何? もしかして、嬉しくないの?」

 黙り込む一方の諸田を問い詰めてくる。

「いや、うれ、うれ、嬉しいとか、そ、そういう範疇じゃ、ない、だろ」

「じゃあ、どういう範疇なのよ」

 顔面がとめどなく熱を帯びてくる。

 止まれと念じても、正直な身体は言うことを聞かない。

 嘘だ。

 そんなの嘘に決まっている。

 俺は今、見春に踊らされているんだ。

 見春は俺の無様なステップを見て、楽しもうとしているんだ。

 諸田は場当たりな言い訳をかき集めて、盛る興奮を抑え込もうとする。

「つーか、なんだよいきなり『好き』って。脈絡が無さ過ぎだろ。今まで散々俺を侮辱してきたくせに」

「好きな子にはちょっかいをかけたくなる。それって、幼子でも実践する、恋愛の基本のキでしょ?」

「だったらいい歳した大人がやるなよ。俺のどこが『好き』なのか、しっかり口で説明しろよ」

「平凡なところ」

「は?」

 聞き取りはしたが、音だけ抜けて、意味を捉えられなかった。

「諸田って、一般人でしょ? 金持ちでもなければ、天才でもない。そんな凡人が、執拗に私に構ってくる。そういうところが、好き」

 これも稲荷野の純情が感じ取られたが、もう同じ手口に乗ることは無かった。

 一時ピークを迎えていたほとぼりは、急に冷めだしていた。

「馬鹿にしてんのかよ。凡人だから好きって。恋愛のちょっかいを超えた卑劣な仕打ちだ」

「馬鹿にするなら、もっと心無いな言葉を豪雨のように浴びせるわ。これは、私の本当の気持ち」

「いや、相当な罵詈雑言だと思いますけど」

 呆れすぎて、自嘲すら催してしまう。

 淡い眠気は跡形もなく吹き飛んだ。

 許さない。

 絶対に追い出してやる。

 あられもないビキニ姿で放り出してやる。

 そして、お前の毛嫌いしている世の中から猥雑わいざつな視線を一挙に集めて暴発してしまえ。

「おい。お前、そろそろいい加減に……」

 堅固な決心をして、勢いよく立ち上がる諸田。

 しかしその時、不幸にも昔からの持病である立ちくらみが、いかんなく発動してしまう。

「うっ、おおっ……」

 ドタバタと激しくよろめく。

 何かにしがみつきたい。

 だが、不甲斐なく空をあがいて、バランスは崩れる一方。

 暗転した視界と、ぐらつく足元が、諸田から正常な判断を失わせる。

 そして、どこに躓いたかもわからぬまま、前に転倒した。

 反射的に伸ばした手が、柔らかな材質を捉えて沈み込む。

 そしてそのまま、前倒しの体が落ちていく先、諸田の胸は、生暖かい弾力を押しつぶした。

「うっ、ぐっ……」

 数秒経過。

 ようやく眩暈から覚めて目を開くと、

 稲荷野の顔が凄まじい至近距離に迫っていた。

 危うく唇すらも触れてしまう位の近さに、諸田は慌てて身を立てる。

「みっ、見春っ⁉」

 立ち眩みに我を失って、稲荷野に覆いかぶさってしまったことは、瞬時に飲み込めた。

 胸にはなおも柔らかなぬくもりが残っている。

 おっぱいだ。

 稲荷野の乳房が、しばし自分の胸と合体していた事実に、動揺を隠せずにいる。

 一方の稲荷野は、動揺の一端すら見せることなく、棒のように寝ていた。

「私を抱きたいなら構わないけど。ただし、ゴムはつけてちょうだい」

「ばっ、馬鹿っ‼ 軽々しく人をたぶらかすな! 冗談にもほどがあるだろ!」

「いきなり抱き着く方こそ、冗談の度が過ぎていると思うけど」

「立ち眩みだよ! さっきも言ったろ、そういう体質なんだって。お前を抱こうとしたつもりは毛頭もない。てか、抱こうとも思わない」

「あっそう。持病は何かと便利ね。すぐ言い訳の材料にできる」

 立ち眩みにはそこそこ悩まされてきた経緯があるから、その文句は小さな口論の一部として看過することはできなかった。

「なんて事言うんだ。ああ、もう畜生っ。俺は明日仕事があるんだ。外資系だかITコンサルだか知らないけど、金持ちの自由人と一緒にしないでくれ。とてもじゃないけど付き合っていられない」

「金持ちであることは確かだけど、自由人じゃないわ。私だって明日仕事がある」」

「じゃあとっとと帰れよ。ほら、これやるから」

 諸田はクローゼットからロングコートを取り出して、ベッドに放り投げる。

「それ着て家に帰れ。コートは返さなくていいから」

 稲荷野はぬくっと起き上がって、ベージュのコートの外面を眺めまわす。

 そして、気に入らなかったのか、摘まんだ指を離して、コートを床に落とした。

「これじゃあまるで露出狂じゃない。色合い的にも」

「今のままでも十分すぎるくらいの露出狂だろうが!」

 そして枕に頭を戻す見春。

「家に帰ったところで、何もない。世から疎まれた私の欠片であふれている。そんな空虚な住処に帰るなら、ここで一夜を明かした方がよっぽどマシよ。凡人の空気を体一杯に感じながら、眠りに就きたい」

「最高の嫌味だ。凡人凡人言い散らかすくらいなら、見春は相当の天才なんだろうな」

「だから疎まれるんでしょ?」

「……ふぅ。そうですかい」

 稲荷野は意地でも帰ろうとしない。

 ならば自分が去るしかない。  

 諸田はカバンから財布一つを取り出す。

「お前が帰らないなら、俺は別なトコで夜を明かす。帰りたくなったら自由に帰れ。もちろん鍵は開けっ放しで構わない。じゃあな、お休み」

 諸田は大股で去って、玄関扉を力任せに押し開けた。

 気分が悪かった。

 稲荷野との関係を完全に断ち切りたかった。

 地球の暦から、今夜という時間を抹消してしまいたかった。

 どうせなら、何もかも夢であってほしかった。

 諸田はゆがんだ顔してアパート入り口の水たまりを蹴飛ばし、貧相な街灯に照らされた夜道を歩いていった。

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