第12話 ……夢なのかな、これって

「くっさ」

「え?」

 稲荷野が土間に一歩目を踏み入れ、諸田ハウスの空気に触れた一言目がそれである。

 諸田は耳を疑ったが、いやしく鼻をつまむ稲荷野の姿を見て、一層疑惑を深めた。

「嘘つけ。どこがどう臭いんだよ」

「男の生活臭気がプンプンするわ」

「当たり前だろ。この部屋には男しか入れてないんだから。てか、別に臭くもねえだろ。ガキみてえな悪ふざけすんのやめろ」

「まあいいわ。これが諸田の臭いって考えれば、少しくらいは耐えられる」

「逆にそれで耐えられるのか……」

 素直に受け取れば、諸田に対する好意の暗示でもあった。

 しかし、一本気で取り扱えるほど、稲荷野は簡単な女ではない。

 出会って2,3時間ほどだが、そのことは胸が痛いほど理解している。

 だから、稲荷野の発言は原則駄文として横に流すことにして、諸田は室内へ先んじる。

「きったな」

「え?」

 土間を抜けて、稲荷野が1DKの室内を目の当たりにした瞬間、発した一言目がそれである。「臭い」に「汚い」、思わぬ酷評の連続に、諸田がそれとなく持ち合わせていた自信も粉々になる。

「おい。たとえ相手が小さな会社の下っ端営業社員だからっていい気になるなよ。このどこが汚いんだ」

 さっき片付けたから、服も本も会社の書類も、きちんと収納されている。

 フローリングの床は、寝転んでもあまりあるほどに空いている。

 目に見えない埃を除けば、綺麗さっぱり、整理整頓された部屋と自負して差し支えない水準だった。

「ええ、そうね。ごめんなさい。つい口が滑ってしまったわ」

「大滑りだ。じゃあ、臭いのも嘘か」

「それは本当よ。人の家って、普通は臭いもんじゃない」

「だとしても口を滑らすな」

「でも、滑ってしまうのはどうしようもできないわ。『臭い』に『汚い』、ここまで『2K』も埋めたのだから、キリよく『3K』まで揃えましょうよ」

「好きにしろ」

 諸田は、雨水の染み込んだむさ苦しい仕事着一式を脱ぎ捨て、クローゼットからパジャマを取り出す。

「堂々と人前で下着姿を晒せるものね」

「ビキニのお前が言うか」

 部屋着を纏った諸田は、激動の一日の疲れと一緒にベッドに寝転んだ。

 正装を解けば、一気にプライベートへ傾く。正味、稲荷野の相手をするのも煩わしくなっていた。

「寝るんだ。私を差し置いて」

「寝るも起きるも俺の勝手だろ、自分の部屋なんだから」

「つまらない。それじゃあ、シャワー浴びてきていいかしら」

「しゃっ、シャワー!?」

 慌てて跳ね起きる諸田に、稲荷野は冷静な目つきをやる。

「もしかして、水止められてるの?」

「いや、そこまでじゃない。まるで自分家のようなノリでシャワー浴びようとするから。なんか、不快感をきたす」

「つまり、それは承諾ってことね」

「その『つまり』はどこ由来で!?」

 不服一遍の諸田を置き去りに、稲荷野はすたすたと浴室へ向かった。

 迷いのない足取り。

 浴室の場所はあらかじて確認していたと見える。

「……夢なのかな、これって」

 再び枕に頭を落とした諸田は、緩慢に独りごつ。

 夢と思えば夢のような気がしてきた。

 今まで平坦な道を歩いてきた。

 そして、その平坦な道のりはこれからもずっと続いていくかと思っていた。

 そんな道端から突如現れた、あられもないビキニ美女。

 その上、相手きっての申し出でいきなり自宅に招き入れ、入浴までしている。

 身に余るくらいの摩訶不思議なこの出会いは、神様から仕掛けられた詐欺と思わずにはいられなかった。

 どうして自分が、何のために。

 棚ぼたの幸福感はいつしか過ぎ去って、心は味気ない思案に絡め取られる。

 湿った夜風が網戸をすり抜けて、リビングを巡る。

 眠気はある。

 しかし、暑苦しくてどうにも寝付けない。

 諸田は微睡まどろみの中を彷徨さまよって、稲荷野を思い起こしていた。

 裸だ、今あいつは、裸だ。

 脱衣所に放置された赤ビキニ。

 気になる。触れてみたい、確かめてみたい、染み込んだ稲荷野の匂いを、味わってみたい……。

 全部朦朧とした意識のせいにして、破廉恥な空想にでっぷり浸り尽くす。

 諸田の股間は、必然的に欲望に駆られていた。

 ああ、まずい。でも、気持ちいい。

 相反する思いに挟まれながらも、諸田の手は自然と股関の中央へと伸びていく。

 その手で、欲望の塊を握り込もうとした時。

「だふっ!?」

 背中から突き上げる衝撃。

 夢も眠気も欲望も、一切が吹き飛んで、体を起こした。

 髪の濡れた、湯上り直後の稲荷野が粛然と見下ろしていた。

「ごめんなさい、お楽しみ中だったかしら」

「お、おたの……、何のことだ?」

 微睡んでいたが、自分が何をしようとしていたかは、明確に記憶していた。

 だから、全て見透かされた恥からは、上手く逃れることはできなかった。

「そんなとこで寝腐っていないで、とっとと風呂に入ってきなさい」

「母親みてえなこと言うなよ。入浴ハラスメントはいけすかないな」

 あぐらかいて愚痴をこぼしていると、稲荷野はもぞもぞと腰に手を回して、携帯を取り出した。

 そして、例の如く強い雨音と遠いエンジン音が流れ始める。

「だぁもうっ、わかったわかった。弱みを握られている以上、全部お前の言いなりになってやるよ」

 諸田はいい加減に立ち上がると、その反動で弱い立ちくらみをきたして、左右によろける。

「相当お疲れのようね」

 音声を止めた携帯は、下ビキニの裏に収納される。

「そうだって言ってんだろ。それに、元々立ちくらみに弱い性質でな」

 中腰で目眩めまいの緩和を待ってから、壁を支えにして風呂場に向かう。

 リビングを抜けようとする頃合いに、諸田は思い出したように振り返って尋ねる。

「……てか、その録音ってどうやって録ったんだ?」

「案山子の頭の中に入れておいたの。やってくる犯行車は予め目星がついていたから、木の裏で待ち伏せしてね」

「土砂降りの中、わざわざ俺を待っててくれたのか。ご苦労様な奴だこと」

「それはこっちのセリフよ」

 怠慢に脱衣を済ませてから、バスルームのタイルを踏んだ。

 小さい鏡の中に、萎みかけている男根が映る。

 自分ながらも気恥ずかしくなって、鏡からは目を逸らしながら、水温を調整してシャワーを被る。

 まさかタオルまでは使っていないよな……。 不審に思いつつ、しかし仮初かりそめの興奮も抱いて、諸田は汗の膜を洗い流す。

 頭も適当に流して、浴室を去る。

 湯上がりにはちょうど良い気温。

 今季の気候が珍しく役立つ。

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