第8話 押し引き訪問

 エンジンを落として、施錠する。去り際にドアを引いて、入念に錠を確認する。つまらなそうにそっぽ向く稲荷野の横顔を見てから、車を離れた。

 外階段を昇って3階へ向かう。通路奥にある自室の呼び鈴を鳴らす。浜須田が出迎えるまでの間、頭髪とシャツにかかった水気をはたき落とす。

「……あんた誰すか。部屋間違えてますけど」

 取っ手が緩やかに回転し、ドアの軋む音が間延びする。半分開いた隙間から、怪訝に眉を顰めた浜須田の顔が覗き出てくる。期待も頼みもしていないのに、心底つまらないボケをかまされた諸田。今すぐに張り倒したい欲求をこらえる。

「なあ浜須田。しばらく待たせておいて酷だが、今すぐ帰ってくれ」

「今すぐに帰る!? いや、酷すぎるっ!! そんだけの『コク』があったら、世界最高峰のカレールーを作ることができるぞ!」

「悪い。本当に、急用なんだ」

「家に残業持ち越してきたのか? それなら俺も手伝ってやるけど」

 普段は判断力に優れてあっさりしている癖に、今夜はもどかしすぎるほどにねばっこい。

「本当にすまん。お前に手伝えることはないんだ。俺一人でやらなくちゃいけない」

「そうなん? ってか、お前びしょ濡れじゃん! もしかして、石籠課長にバケツの水被せられたのか?」

「ああそうだ。そういったところだ」

「それやばくね? 乱暴な口調は元からだからギリ見逃しだけど、手まであげたらパワハラデッドラインだ。ここは正義の使徒、浜須田鳴実の名にかけて、警察にちくります」

 と、浜須田は本気で携帯を取り出すから、諸田は必死で食い止める。

「待て待て! いいっ、大丈夫だっ。落ち着け浜須田。俺は大丈夫だ。だから余計なことはするな。警察の出る幕じゃない」

「余計だって? お前、もしかして警察を国のお荷物とか思ってる側の人間? マジか、初めて会ったわ」

「俺も聞いた事ねえよ。いいから帰ってくれ。頭からつま先まで濡れ尽くしたもんだから、寒くて仕方がない」

「おお、そりゃあ大変だ。ほら、中に入れ。そんで、一緒にちょっくらゲームでもしようや。一人でまったりプレイするのもいいけど、やっぱりどっか心細くてさ」

 と、背中で玄関扉をおさえて、諸田を室内に招き入れようとする。帰る気配が全く感じられない。じゃあ、仕方ないから少しだけ……、の一寸の情けが仇となるもの。一度コントローラーを握れば、気が果てるまで手離さない。そして、離した時には、透き通るような薄明が、夜明けの空に散乱しているのである。

「……平日真っ只中の火曜日だぞ。睡眠不足は仕事のパフォーマンス低下に直結する。そしたら、冗談抜きで石籠からバケツ水を被せられる」

 押してダメなら引いてみる。諸田はそれらしい理由をつけて説得するが、頑なに引かない浜須田に引きの策は手応えなかった。

「お願いっ! ちょっと! ほんのちょっとだけ!」

 浜須田は親指に人差し指を限りなく近づけて、小粒の程度を表すが、終始小粒のままであった試しは未だない。睡眠不足でも、浜須田のパフォーマンスにさほど大きな障害が現れない。素で優秀であれば、睡眠不足など取りに足らない足枷だが、凡庸な諸田は何度も優秀のとばっちりを請け負ってきた。

「いや、ダメだ。お前はいいかもしれんが、俺はダメだ。早急に帰ってくれ」

 そして「押し」の策に戻ってくる。諸田は、腕で大きく払うようなジェスチャーをして、浜須田の退出を指示する。どこまで押しても願いが聞きいられない浜須田は、大層不満足そうに、

「わぁかったよ」

 と胸一杯のため息も混ざって言い捨てた。それから、室内に置いていた荷物とお目当てのゲームカセットを携えて、浜須田はいじけた面して玄関の敷居を跨いで、通路に出て、よほど名残惜しいのか、浜須田は鍵を返すのもしばし忘れて、慌ててカバンから取り出し、諸田に手渡した。

「じゃあな、浜須田。また明日」

「おう、じゃあな」

 平たいノリで別れの一言を交わしてから、浜須田は言い残しを消化するように、数歩先で振り返った。

「金曜の夜こそはゲームしようぜ! 絶対に! 拒否ったら針千本ケツの穴から注入してやる!」

「わかった。絶対やるから。じゃあな」

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