第9話 下ごしらえ中の呼び鈴

 浜須田を乗せたエレベーターが1階に降下するのを見送った後、諸田は部屋に戻った。浜須田を疑っているわけではないが、盗難の有無を確認する。冷蔵庫の中や買い溜めていたお菓子に手をつけた形跡はない。

 ゴミ箱の中に見知らぬお菓子袋とコーラ缶が複数個捨てられてあった。

 浜須田が好んで遊びのつまみにする、お決まりのセットだった。きっと、手の空く度に近場のコンビニに行って取り寄せていたのだろう。

 1時間おきに頭髪の乱れを確認する身綺麗な男だが、小さな頃からゲームとコーラが好物というジャンキーな一面も持ち合わせている。そうしたギャップがあるからこそ、人の心を掴みやすく、ひいては良好な人付き合いにつながっていくのだろうなと、のっぺりした自分を顧みながら、室内をうろつく。

 途中、やかましいクラクションの連打が、外から聞こえて来た。絶対、見張の仕業だ。確信した諸田は、よその誰かに見られる前に戻らなくてはと、浜須田が居座った痕跡を急いで片付ける。

 一冊の月刊誌が見開きのまま放置されていた。昨今話題のグラビアアイドルの際どいヌード写真が、見開き2ページに渡って掲載されている。片腕で隠して圧迫された美乳の形が、諸田の本能を掻き立てる。

「あの野郎、見たら元の場所に戻しておけよ……」

 不審な汚れがないか、日夜お世話になっているページをざっと確認して、ベッド下に忍ばせる。そして皺が波打つシーツの上に身を投げる。

 天井を眺める。腹の奥で、水が詰まるような閉塞感を催す。かれこれ数十回は見たヌードグラビアだが、どうしてか目に焼き付いて離れない。

 寄せられた胸の谷間。諸田はいつしかグラビアではなく、見春のビキニ姿を思い起こしていた。

 彼女いない歴=実年齢、そして海水浴にも関心薄だから、ことさら海に出向くこともない。そのため、裸の女は紙面もしくは画素の集合体でしかほとんどお目にかからない。

 そんな童貞網膜に突如映り込んだ、リアルな豊乳。グラビアモデルに引けを取らないスタイル。一癖ではおさまらない難儀な性格を脇にどかせば、男の本能を掻き立てる魅力しかない。

 そしてその女が、諸田の家に連れて行けと命令している。初めはけったいな女と警戒していたが、こうしてくつろいで冷静になってみれば、自分は今、千載一遇の大転換の中にいることに気がつく。

……もしや、いけるのか、これ?

 諸田は跳ね起きて、辺りを見渡す。何事にも第一印象は不可欠な要素。汚い部屋は、見る人の心も汚すもの。しかし几帳面な母親の余波を受けているのか、幸いにも最低限の整理整頓は行き届いていた。あとは、床に放っておいた不要な書類や本、漫画を適当なスペースに寄せれば、恥ずかしくない程度には誤魔化せる。

 そして、しつこく鼻をきかせる。不快な異臭は感じない。もっとも、自分の部屋が臭いか否かは自分の嗅覚では分別つかないのだが。

 ともかく、下ごしらえは完了した。残りは調理と、いけるなら味見、そして「いただきます」と手を合わせ、食えるものなら食ってみたい。

「……行くか」

 中も外もネジが外れた稲荷野。憎き石籠の言葉を借りるならば、「トラブル」を具現化したような女。やむ得ず怪物と付き合う羽目になって心底うんざりしていた諸田も、今となっては軽快な足取りでエレベーター前に向かう。

 先客はいない。向かい壁の鏡で、頭髪の乱れを整える。ついでに、現状で最もイケメンに見える顔立ちを探って、それを崩さないように保持する。降下する。3秒間の反重力で、浮つく心がさらに浮き上がる。到着する。最後にちょっとだけ、頭髪に手直しを加える。いよいよ1階の扉が開く。

 よし、いくぞ。

と、踏み出した先で鉢合わせしたのは、先に帰っていたはずの浜須田であった。

「どぉっ!? 浜須田!?」

 久しく全開していない諸田の口から飛び出す大声。面食らった浜須田は背後にのけぞる。

「……びっ、びっくりしたぁ」

 互いの驚愕を見せ合うように静まる。腑抜けた顔の二人。そんな焦ったい空気を断ち切るように、エレベーターの扉が、二人の間を挟み込んでくる。諸田は慌てて開き直して、エレベーターから抜け出す。

「お前、帰ったんじゃないのか?」

 諸田の問いかけに、呆然とした浜須田もようやく我を取り戻す。

「いや、それがな、アパートの敷地から出た時、急に駐車場の方からクラクションが聞こえてきたんだ。それも一回切りじゃ無くて何度も。何か緊急事態でも発生したのかって思って駆けつけてみたら……」

 浜須田は、身振り手振りを交えながら、破竹の勢いで経緯を喋り倒す。その結末が明かされる前から、諸田の心地、不穏に包まれていく。そして、息つく暇もなく、諸田の表情が曇っていく。やがて浜須田が、ワンテンポ言葉を貯めてから結語を言い放った時、諸田の胸中で膨張していた怪訝の塊が、爆砕した。

「お前の車に、素っ裸の女がいたんだよっ!」

 驚きと、高揚。まるで、常夏のカーニバルのような灼熱のテンション。

 一方の諸田は、春陽を見ない厳冬のように凍りついていた。

「なぁ、彼女は一体誰なんだ? もしかして、お前の恋人か? お前、とうとう彼女できたのか? どうなんだよ、教えてくれよ!」

 諸田の肩を外す勢いで、前後に揺さぶってくる。諸田は揺れるままに首を反らす。不快な顔して、浜須田の手を退ける。

「やめろ、眩暈がする。何かの見間違いだろ。俺の車に女なんているわけない」

「いるって! しかも全裸! そして巨乳!」

 本当に何しているんだあの阿呆め……。

 せっかく整えた毛髪を、怒りを滲ませ握りしめる。しかし、そんな憎悪の中でも、転がり込んだ「全裸」という情報に、見てみたい欲求も少なからず生まれる。

「じゃあ、なおさら見間違いだな。お前、ゲームのしすぎで幻覚を見ているんだ。今すぐ帰ってゆっくり目と体を休めるんだ」

「しら切んなって。できたんだろ? か・の・じ・よ」

 垂直に伸ばした小指を諸田の鼻先に近づけてくる。「じょ」をわざわざ「じ」と「よ」に分解させるところがなおさらうざったい。その指を根本からちぎり抜いて、浜須田のにやけ目に突き刺してしまいたかった。

「俺に彼女なんてできるわけないだろ。何度も言わせるな」

「ったぁくよぉ、諸田ってば水臭いっての! できたならできたって、俺に知らせてくれよ!」

「何の報告義務だよ」

「俺がお前ん家に居座っていたから、車中でヤったんだろ? 一言声かけてくりゃ、俺だってすぐに立ち退いたのにさ」

「三言くらい言ってようやく出て行ったろうが」

「まぁ、お前の気まずい気持ちもわかる。でも俺は絶対にからかいはしない。唯一の同期に念願の春が訪れたんだ。盛大に祝砲を打ち上げてやるさ!」

 と、胡散臭いノリで諸田の背を押し催促してくる。

「……はあ」

 諸田は最後の抵抗として大きなため息をついたが、浜須田の足毛の先っちょにもかからずに、やむなく駐車場に連れて行かれることになった。

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