第10話 くっきりはっきり全裸だろ!?

 いつしか雨は止んでいた。

 舗装の整備不良であちこちに開いた水たまりを避けて跨いで、白の軽自動車に向かった。車体が白いから、泥はねの痕跡が如実に残っており、はしたない外見をしていた。

 フロントガラスから、助手席の様子が見えた。

 稲荷野は相変わらず不貞腐れた顔をして、そっぽを向いていた。しかし唯一の大変化、浜須田の報告通り、稲荷野は事実上素っ裸だった。肩にかかっていた赤い紐は消えていた。

 ああ、裸だ。

 途端に胸の高鳴りを感じる。

 しかし、腕は乳房を巻き込んで組むものだから、肝心な部分は隠れて見えなかった。

「ほら見ろ! 助手席に座っている彼女! くっきりはっきり全裸だろ!?」

「ああわかった。嫌というほど見えている」

 車に近づくと、諸田を認識した稲荷野は片腕だけを離して、挨拶代わりにクラクションを一発鳴らした。前触れもなく鳴らされるものだから、男二人は揃って不恰好に体をびくつかせる。諸田は、睨みつけてくる稲荷野の視線をかわして鍵を開け、泥だらけのドアを引き剥がして、乗り込んだ。

「おい稲荷野。一体どういうつもりだ」

 全裸を鑑賞する企みもあって、諸田は稲荷野にじっくり視線を据える。下も履いていなかった。が、足を組んだ上、脱いだビキニを股の上に置いているから、ここも肝心な部分が見えない。

「あなたがいつまでも来ないからよ。監禁されたと思って、助け呼んだら人が来た。そしたらあなたも来たからこれにて一件落着」

「どこが一件落着だよ。余計なことしやがって」

 口を横に広げて大きく舌打ちする。稲荷野は青い髪をひらりとなびかせながら、諸田に向き直る。

「して当然のことよ。身に危険が迫っているなら、周りに助けを求めるのがごく自然の対応だと思うけど」

「……なるたけ、人に知られたくないんだ。説明がまどろっこしいから」

 と、不平を漏らしているそばから、浜須田が後部座席から乗り込んでくる。

「ちーっす! 今入ってきていい状況かい、お二人さん?」

「それは入る前に聞け」

「くんかくんか……。何か悪いな。他人の愛の巣窟に割り込むような真似しちまって」

 浜須田は懸命に鼻をきかせて、空気中に漂っているであろう、事後の痕跡を吸い取ろうとする。当然、事後どころか事前すらない潔白の車内である。

「じゃあ今すぐ消えろ。そして今夜のことは全て忘れていなくなれ」

 そうやって下心まみれの同僚を冷ややかに嗜める諸田であるが、本心、稲荷野の裸身に心震えているのは紛うことなき事実。

 隙を見て、眼球を素早く左にずらす。

 腕組んで生乳をおさえる稲荷野。真横から見れば全裸そのものである。くびれた骨盤から伸びる美脚は、なだらかに曲線を描いて、つま先まで到達する。ここまで連続した異性の皮膚面を見るのは、母親という例外を除いて初めてである。わずか1秒ほどの一瞥だけで、諸田の興奮は火に油を注いだように勢いを増した。

「ねぇ。ところでこのうざったい男は誰。今すぐに追い出して欲しいんだけど」

 そう拒絶する稲荷野は、後ろの浜須田に一目もせず、窓の向こうに伸びる湿った夜道をひたすら眺め続けていた。

「ほほう、この浜須田をご指名いただくとは、素晴らしき光栄でございます。あなたはどうやら、達観したセンスをお持ちになっていらっしゃる」

 浜須田は前部座席の間へ身を乗り出してくる。飾り立てた流麗な声色が、ひどく滑稽で、諸田は「ふんっ」と鼻で笑った。

「私、諸田と同期で素耕すたがや印刷に入社しました浜須田鳴実と申します。この出会いを結びつけた奇跡の運命と、麗しいあなたの全てに、神様の祝福がありますように」

 浜須田は名刺を取り出しては、丁重に頭を下げて差し出した。しかし。稲荷野はその名刺を片手で受け取って、即刻握りつぶした。

「気持ち悪い。早く出ていってくれない?」

「お褒めに預かり光栄です」

「そんなキャラだったか、お前」

「ところで、あなたのお名前を伺ってもよろしいでしょうか」

 浜須田はめげずにアタックを続ける。苦しげな表情は見せず、無駄に端正にすら思える。

「誰があなたなぞに教えるのよ」

「そうですか。それはそれは、至極残念でございます……。そんじゃあ諸田、明日はたっぷり相愛の交わりを聞かせてくれ! 楽しみ待ってるからなぁ! そんじゃあっ!」

 稲荷野の猛反対にようやく観念したか、一瞬しょげる。しかし、あくまでも一瞬であり、その後はひどく陽気に転調して飛び出して行った。腕を左右に振りながら楽しげに歩いて、建物の影に消える。冷静に考えれば常軌を逸している。おそらく演技に違いないが、一目惚れした見知らぬ女に、そこまで手を尽くせる気概は、むしろ尊敬までしてしまう。

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