第7話 帰宅

 びしょ濡れの二人の間に交わされる言葉は無く、車体を打つ雨だけが、ひっきりなしにその沈黙を埋めていた。女は、「連れて行け」の命だけを徹するように、窓の外に目を向けて、深い山林の闇に見入っていた。水分を含んだ青色の長髪は、重たげに頭部から垂れていた。時々、本気のくしゃみを放っていた。放った後は決まって肩を震わせた。諸田は、今なおもこの不可思議な出会いを信じることができなかった。この女が人間であることすら半信半疑だった。もしや狐のまやかしではないかと、少し本気で思ってもいた。心霊のような不気味な空気感が、冷め切った体に刷り込んで、寒気がひどくなる。震えもしないのに、ハンドルを持つ手が自ずとブレる。

「ねえ。どうして黙ったままなの? 会話をリードするのは男の役目でしょうが」

 ようやく口を開いたと思えば、沈黙の責任を丸投げする猛攻ぶり。言うならばである。だが、負い目の全身打撲のような諸田には、強く言い返す口もない。だからこそ黙りこくっていたのだが、女が強引にこじ開けようとするならば、素直に応じてやるしかない。

「……リードも何も、今は運転中だ。見りゃわかるだろ。あんたに構ってる場合じゃない」

 と、ため息混じりの返答。構っていられないと強がってはみるが、実際、聞き出したいことは盛りだくさんで、構いたくて仕方ないほどであったが、まごまごと踏み切れずにいた。

「あとどれくらいかかるの」 

「30分だ」

「なっが」

 カチンとわずかに怒りの電気が走って、アクセルの踏みが強くなる。

「長くて悪かったな」

「何か話してよ。30分も無言であなたの側にいるなんて、普通の人間なら耐えられない」

 だったらおイカれたあなたは余裕で聴講できますでしょうねと、諸田は内心だけでせせら笑う。

「……名前。あんたの名前、なんて言うんだ」

「稲荷野見春。25歳」

 あっさり過ぎる自己紹介だった。

「25歳!? 同い年じゃないか!」

 稲荷野の凛然とした雰囲気から、諸田は勝手に年上だと思い込んでいた。不意に増す親近感。だが諸田が近づこうが離れようが、稲荷野は相変わらず不貞腐れている。

「随分とほころんでいるようだけど、はたしてそれは喜ばしいことなの?」

「喜ばしいことと言うか、驚く事だろ。同い年とばったり出くわすなんて、滅多にあることじゃない。ましてや、こんな意味のわからない出会いでさ」

「ふぅん、そう。じゃあ、あなたの名前は何て言うの?」

「諸田功介だ」

「良い名前ね」

 名乗った直後、見春は速攻で相槌を打つ。

「……勝手に言ったろ」

「言ってない。諸田は今、何の仕事してるの?」

「印刷会社で営業職についている。ちっぽけな中小企業で、自慢できるようなものじゃない」

 山道を抜け、赤信号で停車する。背中に、小さな棘が無数に刺さったような痒さを覚えて、濡れたワイシャツの上から引っ掻く。

「営業ね。十分誇らしいじゃない。私も前の会社は営業部に配属していたけど、成績はからっきしダメだった。私なりに努力はしたつもりなのに、一体何が悪かったのか、いまだに理解できない。だから営業は嫌い」

「いやどっちだよ。褒めているのか貶しているのか」

「どっちも」

 なぜこんな奴が営業を志した瞬間があったのか。そして、会社は会社でなぜこんな奴をすんなり営業に入れたのか。諸田は神経質なくらい気になったが、あくまでも「前の会社」の話で、「嫌い」とまで言い切っているあたり、深追いせずに切り替える。

「じゃあ、見春さんの今の仕事は」

「見春でいいわ」

「……見春の仕事は」

 無意識に敬称をつけてしまって、諸田は恥ずかしさを感じる。

「前は国内の大手IT企業に勤めていた。でも、社風が合わなかったから1年足らずでやめて、今は外資系企業でITコンサルの仕事をしている」

「が、ガイシ、アイ、ティー、こ、コンサル?」

 呪文のようにスラスラと言いのけた職歴は、諸田の手足が届く世界からかけ離れすぎていて、彼女の足元すら見えないほどだった。他愛のない日常に根差したような自分の生活が、とてもちっぽけなものに見えてくる。

「知らない? 簡単に言えば、ITのアドバイザーみたいな仕事よ」

「そう。じゃあ、かなり営業ににたところはあるんじゃないか?」

「そうね。だから、そろそろ別の職業に切り替えようかなって考え始めている」

 選り好みでドライに割り切ることができる性格、羨ましいような妬ましいような、諸田は複雑な心境になる。

「仕事はファッションじゃないんだからさ。そんなあっさり転々として、大丈夫なものなのか? 前の会社だって、一年も経たずに辞めてさ」

「だから何? それは、誰かから教わったことなの? 私は他の誰かに縛られることを激しく嫌う性格なの。どう転がるにせよ、自分の道を自分の意志で決められるなら、それに越したことはない」 

「……とことん不思議な奴だ」

 閑静な住宅地を蛇のように隠密に進んでいく。叩きつけるような雨の勢いは次第に弱まって、闇を切る細い雨線が街灯に照らし出される。いつもの帰宅ルートに復帰してからは、5分も経たずにアパートへ辿り着いた。

「良いアパートね」

 外観を一瞥した見春は、またしても取ってつけたように褒める。加えて、外資系ITコンサルの口から出たことが、余計気に食わないものだった。車を荒くバックさせ、感じ悪く敷地内に駐車を済ませる。

「見春は車の中で待ってろ。俺の同僚が部屋で寝腐っているから、そいつを追放してからお前を招く」

「別に同僚さんがいても、私は気にしないけど」

「俺が気にするんだ。同僚が雨の夜に、いきなりビキニ女を連れてきたらどうする? 狂気だ。頓珍漢だ。わけがわからない」

「訳がわからない? あら、何よりも詳しいんじゃないの? さっき、舐め尽くすように私の体を眺めていたくせに」

 と、稲荷野はわざと胸をよせるように腕を組む。豊かな両乳房が、その間に深い谷間を作り出す。そんな魅惑な形状を夜に見せられては、女遊びと縁遠い諸田であっても、不本意ながら目の色が変わってしまう。

「勝手なことばかりいいやがって。とにかく黙って待ってろよ。変な真似をするんじゃない」

 

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