第6話 償い

「……」

 現状を受け止めることができず、諸田はしばし口を開いて立ち尽くしていた。誰だ、何しに来た、そしてどうしてビキニ姿なんだ。色んな疑問が波のように押し寄せてきて、飲み込まれて、何も考えられなくなっていた。ただ、胸が大きい事だけは、嫌でも本能的に汲み取ろうとしていた。おおよそFかGあたりか……。呆然とする頭は、いつしかこの本能で満たされるようになって、これら2つのアルファベットだけが悶々と浮遊するようになった。

 諸田が呆気に取られている一方、女はこれがさも当然のように、一切の動揺を見せず、堂々と腕を組んでいる。

「何ボサっとしてるの? 動く気ないなら、この車私がもらっていくね」

「い、いやいや、それはやめてくれ」

 女は運転席の扉を開いて脅迫する。諸田はその脅迫を拒否するだけで精一杯だった。

「それじゃあ、面白くない顔してないで、何か言ってよ」

 女は八つ当たりするように、扉を強く閉める。そして、ボンネットへ足をかけ、車の上に登った。

 美脚だった。細身だが太ももにはほどよく肉が付いている。長い脚を下って、その肉は緩やかに削ぎ落とされ、全体的に無理のないしなやかなラインを形成している。

 その美脚を前に投げ出して、女は座った。

「もし何らかの都合で言葉を発せられないのなら、先に言って。そうでなければ、口を開いて。二人の人間が面を合わせておいて一言も喋らないのは、凄まじい無礼にあたるわ」

 足はぶらぶら悠々と遊んでいるが、女の口調は厳しかった。早く喋らなくては。拒まず、無視せず、逃げ出さず、今だけはこの女の言いなりにならなくてはならない。諸田は見知らぬ人に尻込みするような性格ではないが、車上のビキニ女は「初対面」という理由で片付けられないほどに不気味で、強かに恐怖心を植え付けていた。

「……だっ」

 気持ちは焦って、言い出しが詰まる。

「はい?」

「だっ、誰なんだ、君は」

 やっとの思いで恐怖の壁を跨いで喋ってやったが、声が小さすぎて強い雨音に消されてしまう。側から見たら、ひどく弱々しい男に映っている事だろう。女にもそう見えたようで、救いようのない出来損ないにお手本を見せるように、嫌味含めて大声を放つ。

「あなたの声、雨にも負けてるわよ? 宮沢賢治の詩、読み直したら?」

 舐められたことをはっきりと自覚した諸田は、恐怖の奥に潰された怒りを膨張させる。

「一体っ、君はっ、誰なんだっ! こんな山の中でっ、そんなヘンテコな格好をして!」

「私の正体くらい、言わずともわかるはずよ」

 と、静まった口調で女は返す。諸田はまさかと思い、何もない路肩を振り向く。

「……君が、案山子の制作者か」

「ピンポン。当たり」

 女は無感情だった。無感情であるからこそ、冷たい鋭さが剥き出しになって、見て見ぬフリしていた諸田の罪悪感を突っついてくる。取り返しのつかないことをしてしまったと、今更ほぞを噛みちぎる思い。

「へ、へぇ、そうか。びっくりした。君が作ったんだ。てっきり、おじいさんかおばあさんのものかと思っていた」

 震える声で、諸田は慎重に会話を繋いでいく。

「それは褒めてるの? 馬鹿にしてるの?」

「もちろん、褒めているさ」

 女の目は、諸田の挙動を監視するようで、じっと離れない。

「ふぅん、そう。じゃあ、あなたは本当におじいさんおばあさんの作り物と思っていたんだ」 

「何せ案山子だからね。偏見じゃないけど、イメージとして」

「イメージとして持つ分には悪い事じゃない。問題は、実行に移すか否か。お年寄りの制作物と考えた上で、めちゃくちゃに泥だらけにする。その方が、よっぽどタチが悪いと思うけど」

 案山子に泥を跳ね飛ばしたのはお前だ。

 女はさりげなく核心を織り込んでくる。

 諸田は怯む。このまま好き放題にさせては、じりじりと追い詰められて、終いに白状させられる。そして警察に通報されようものなら、諸田は抗議する術なく、女の思い通りに事が進んでいくに違いない。

 嫌だ。

 悪い事をした自覚はあるが、こんな一件で犯罪者になるのは御免だ。

 容疑者が追い詰められた時、大概は証拠の提出を求める。刑事ドラマでも、刑事一日に密着したドキュメンタリーでも、多くの容疑者はそうしていた。

 諸田もそれに倣おうとした。そもそも肝心な証拠がない。おそらく草むらの奥から見張っていたのだろうが、形なければ証拠にもならない。そうだ、逃げ道は、まだある。

「『泥だらけにする』だって? 待て待て。それじゃあまるで、俺がわざと案山子を汚しているような言い方じゃないか。水たまりの近くに立てているのだから、泥の一つや二つ、かかって当然じゃないか」

「やけに強気ね。山道とは思えない速度でカーブを曲がっては、途中で降りて丁寧に確認までしてた癖に」

「確かに、スピード違反は俺が悪い。近頃残業続きで気が立っていたんだ。でも、わざとじゃない。カーブを曲がろうとした時、案山子を一瞬見かけた。だから車を降りたのは、やり過ぎたと思って、様子を見に行ってみただけだ」

 いける、なんとか誤魔化せる。

 出まかせの言い訳だが、自分でもよくできていると惚れ惚れした。なかなかの出来栄えだから、快感すら感じた。そうにやにやと鼻を伸ばしている傍、女はその姿のどこから取り出したのか、手にはいつの間にか携帯が握られていた。そして、幾度か画面をタップしたのち、水平に持って頭上に掲げた。

「……何をする気だ?」

 降り頻る雨の中、ノイズ混じりの荒い音が流れる。音源は、女の携帯からであった。諸田は耳をそばだて、繊細に集中する。遠くから聞こえる車のエンジン音。その音は徐々に大きくなって、加速する。やがて、耳を塞ぎたくなるような轟音の後、何かと衝突したような鈍い音が続いた。エンジン音は途中で途絶えた。程近いところで、扉の閉まる音がする。そして、少しの間を置いた後、この世に存在する何よりも聞き馴染みのある音声が流れた。

「ふん、ざまあみやがれ」

 携帯の録音は、ここで終了した。

 諸田はひどく青ざめた。勝利の流れを掴んで、勝手に浮かれていた自分が馬鹿におもえた。体中から力が雨水のように抜け落ちていくように感じた。

「……改めて、あなたの意見を伺ってよろしいかしら」

 張りのある声で、女は詰め寄る。

「……申し訳ありませんでした」

 次策を思い巡らせる間も無く、突きつけられた揺るぎない証拠に対して、諸田は自然と土下座していた。流れが一気に覆され、絶望して、呆然としすぎて、自分が土下座をしている事に気づきすらしなかった。冷たい路面に顔が浸って初めて、土下座の真っ最中である事に気がついた。

「ほんの、ほんの出来心だったんです。毎日溜まる一方のストレスをどうにか発散したくて、それで、つい、やってしまったんです」

 地に向けて発する諸田のか弱い声は、完全に雨音にかき消される。女の耳に届いていないだろうことはわかっていた。だが、口を震わせながらも、言わずにはいられなかった。

「顔を上げて」

 言われた通りに、恐る恐る上げた。顔を濡らす小石混じりの雨水をさっさと拭い落とす。車上に座っていた女は、いつのまにか諸田の目の前で直立していた。

「立ち上がって」

 これも言われた通り、そそくさと立ち上がった。初めて女と背が並ぶ。丈は、おでこ半分だけ諸田の方が上だった。

「ふん、なんて惨めな顔しているのかしら。泥だらけのへのへのもへじより惨めね。その皮をひっぺがして、案山子の顔面に貼り付けてやりたいわ」

「なんでもします。お金はいくらでも払います。ですから、どうか、警察沙汰だけには、しないでください」

 ああ、今、こっぴどく惨めな顔をしているんだろうな。

 女の言葉に確信を寄せる。どれほど醜い言葉を浴びせられても、諸田に「逃げる」という選択肢は無いも同然だった。

「何それ。警察にバレたらまずいことでもあるの? 薬の運び屋やってんの?」

「い、いや。社会通念上、警察のお世話にはなりたくないので」

「安心して。警察に通報するつもりは毛頭もないから。あなたが素直に事実を認めてくれるだけで、私は十分よ」

 救いのチャンスが突然転がり込んでくる。嘘も真も放っておいて、諸田は死に物狂いでしがみつく。

「それ、本当、ですか?」

「嘘つきのように見える?」

 そして改めて体を見渡す。一番に胸の谷間に引き寄せられる。第二に、間近だからこそわかる端正な顔立ちに釘付けになる。だが、ビキニという異様な格好のせいで、不気味さはいつまでも拭うことができなかった。

「……やっぱり、信用できない」

「あっそう。まあ、それはそれとして。通報は免除するけど、ただ認めるだけじゃ、全ての行いをチャラにはできない。そこそこ手間暇かけて作った案山子を、ことごとく汚されたのだから、相応の損失を埋めてもらわなくちゃ」

「なんでもします。代わりに俺が案山子を作ります」

 これ以上諸田に失うものは無いように思えた。出来心由来の、ちっぽけだが大きな罪。それを許してくれるのなら、会社を辞めて女の下僕になって意志を持つ人間ではなく使い勝手の良い道具として生きていく覚悟すら、芽生え始めていた。

「案山子は私が作る。あなたの手は必要ないわ。そんなことより別のお願い。私をあなたの家に連れて行って」

「……へ?」

 聞き間違いと思って、諸田はしかめ面になる。それが気に触れたのか、女も物騒な顔つきになる。

「私をあなたの家に連れて行って。そして暖をとらせて。それでこの件は無かったことにしてあげるから」

「ええと、俺が、君を、俺の家に、連れて行く、の?」

「そうだって、言ってるじゃん。これで風邪でも引いたら、医療費はあなたが全額負担してもらうから。ハァックション! ハァックション! ハァックション!」

 下手なくしゃみを三連発しては、大袈裟に肩を振るわせる。

「ま、まじかよ……」

 なんでもすると覚悟はしたが、あくまで自分の身を「道具」として一方的に差し出すことを想定していたから、露骨に押しかけてくる強硬策に、諸田は困惑してしまう。今こそ「連れて行け」と濁しているが、真の目的は差し押さえに違いない。「身」はいくらでも差し出すが、物は失いたくない。金はなおさらのこと。

 その上、家には浜須田がいる。二人の鉢合わせは必然で、浜須田にかくかくしかじかを打ち明けることも必然である。同期の浜須田とは、雑談を交わす唯一の相手だった。逆を言えば、浜須田以外に話し相手はいない。浜須田だけは失いたくない。浜須田なら笑って受け入れてくれるであろうか。別に友人じゃないからと、今まで冷めた態度を貫いてきたのに、窮地に立たされた途端に甘えん坊になる自分が、人間として弱者の極みのように思えてくる。

 そうして諸田が逡巡していると、女が言葉を挟んでくる。

「判断を誤らないことね。あなたは私の何をも掴んでいない。でも私は、あなたの急所を握っている」

 女は録音データの残っている携帯を突き出し、脅迫する。あの鮮明な録音を思い出すと、諸々の悩みは塵のように吹き去った。

「……あぁ、もうわかったわかった。連れていけばいいんだろ? それで満足してくれるんだろ? お安いご用さ。さあ、乗ってくれ」

 にやける女をすり抜けて、諸田は運転席のドアを引き抜くように開ける。

「ふん、ざまあみやがれ」

 雨に濡れた諸田の音声が、耳を重く抜ける。一切の雑音を遮断するように、力強くドアを閉める。やがて女も助手席に乗り込んで、諸田の車は、緩やかに山道を下って行った。

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