雨夜 : 会

第5話 雨夜のビキニ女

 8時に会社を出る。

 天気は予報通り雨だった。昨夜と変わらぬ雨の強さ。灰色の雲が月光を遮るほどに夜空を多い尽くし、雨粒の軍団が大気を白くぼやかせる。街頭に照らされた水たまりには、小さな波紋が細々とひしめき合っている。諸田の期待がぐんぐん跳ね上がる、理想的な天候であった。今日も溜まりに溜まった鬱憤を、大量の泥水として放出する瞬間を想像して、気分を高める。そんな空想に浸っている時、一台の車が諸田の真前を通り、小さな水飛沫を飛ばす。文字通りに水を指された諸田。暗くて見えないナンバープレートをじっと睨む。泥水をかけられる身になってわかる嫌悪感。だが、この嫌悪感をあの案山子並びにどこぞの製作者に与えられると考えれば、それもまた嬉しきことなり。雨の日の諸田は、相当に黒ずんでいた。

 胸ポケットの携帯が着信を知らせる。焼原からだった。自販機の前で見せびらかした、向日葵の油絵が送られてきた。

「よければ、どうぞ。一応送ります。無断転載はどうかおやめください」

 焼原らしい、慎ましやかな短文が付け加えられていた。

 諸田は振り返って窓を見上げる。毎日と変わらず残業に勤しむ光が、一枚の窓から溢れていた。

 がんばれ、焼原さん。

 諸田は、らしくない応援を、自ずと心の中で唱えていた。


 シートベルトを締めてエンジンをかければ、諸田の悪どいドライバー精神が目覚める。一般道は暴れるような衝動を抑え込んで、安全運転を心がける。が、例の山道に入れば、理性のブレーキを取っ払って、強欲な本能を解き放つ。呑気にハンディファンを回す石籠とクリップ止めされた書類を思い浮かべて、怨念を強める。対向車と珍しくすれ違って、車体が危うく擦れそうになるも、血気盛んな諸田のハンドリングで切り抜けていく。そして、カーブ前の直線に入った時、石籠の恨みをがピークを迎える。整った澄まし顔が幻影になってフロントガラスに現れてきそうなほど、鮮明に思い返す。カツカツと足音鳴らして、残業を押し付けてくる声が聞こえてくる。記憶の中の石籠が、次第に現味を帯びていくほど、アクセルの踏みも深くなる。回転数を上げたタイヤが、路面に張る雨水の薄膜を蹴り飛ばしていく。カーブが迫る。

「食らえ石籠ぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」

 最大威力で泥水を跳ね上げられる、最高のタイミングを見切って、ブレーキに足を踏みかえる。吹き飛ばされそうになる遠心力に抗って、全力でハンドルを切る。窓の外から、掘り返すような豪快な水飛沫が聞こえてくる。泥だらけの諸田の車は、けたたましいドリフト音を響かせながら、カーブの終わりで停止した。

「はぁ……、はぁ……。やった、今日も、やったぜ」

 残業を片付けてからずっと続いた緊張と興奮が快感となって、一気に体から吹き抜けていく。顔中汗だくで、心臓は迷惑なくらいに騒がしい。

 諸田的には、今夜の泥かけは史上最高の出来栄えだった。石籠に対する恨みの中へ、華麗なほど没入できた。そして、ブレーキをかけた途端、没入は一瞬で反転して、現実へと解き放たれる。自分でも惚れ惚れするような、完璧な鬱憤晴らしであった。

 そんな、あまりにも退廃が過ぎる独りよがりの時間を堪能した後、歓喜で半ば放心状態のまま、諸田は下車する。泥をかけて終わりではない。泥まみれの案山子を直で蔑んで、一連のお楽しみは完結する。扉を開いて案山子に向かうまでの時間は、まるで二次会の会場に出向くような、半熟した高揚感に包まれていた。

「石籠石籠ぉ、てめぇの無様な面を拝みに来てやったぞおらぁ……」

 しかし、諸田の期待と裏腹に、泥まみれの案山子はどこにもなかった。

「あれ? え?」

 道路から身を乗り出して見回す。

 あまりの勢いで案山子ごと吹っ飛んでしまったか?

 携帯のライトで、茂みの中を照らし出す。しかし、どこにもない。となれば、そもそもカカシが設置されていなかったという線が濃厚となる。

 昨日の今日で準備する暇もなかったかもしれない。

 そう思い至った途端、体中を駆け巡っていた興奮が、一気に枯れ果てた。まさかの空振りは、順調に進んだ喜びを振り出しに戻す。体を太鼓のように打ってくる雨が、異様に冷たく感じる。

「はあ……。何やってんだか、俺」

 酒で馬鹿騒ぎした翌日のような、虚な気分になる。木々の緑を織り交ぜた雨の匂いが、渋く鼻につく。すっかり消沈した諸田。酒で外したハメの尻拭いは、同じく酒で戻すのみ。

 そう、酒だ酒だ。週半ばで明日も石籠と残業戦争を繰り広げなければならないが、それがどうした。勝ち目のない戦いに意気込むよりも、ダメ元を飲んでさっさと諦めて、そして酒も飲み込んで酔い潰れて寝てしまおう。

 諸田はだらしなく背を丸めて、とぼとぼと歩き出す。

「ちょっと待ちなさいよ」

 突如聞こえた人の声に、諸田は驚いて顔を上げた。人影が、諸田の車に寄りかかって佇んでいる。雨でぼやけた暗がりの中でも、相手は女であることは確実に判定できた。はじめに聞き取った声の色と、派手なライトブルーの長髪。そして一番の決め手かつ、諸田を最も驚愕させたその身なり……。女は、雨夜の山中に恐ろしく不釣り合いな、真っ赤なビキニを着用していた。

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