第4話 浜須田鳴実

「おい諸田、もう帰るのか」

 それは死の宣告文に等しい効力があった。

 好調なペースで仕事をこなし、定時上がりの展望も自ずと開けてきた頃合い。

 今日こそ心ゆくまでくつろげる。

 網戸も全開にして、生ぬるい夜風ごと冷たいビールで流し込んで、迷惑も承知でゲラゲラとお笑いを楽しむ。

 ……なんて遠足前夜の子供のように胸を膨らませている時に、石籠からぶっとい針を刺し込まれ、せっかくの胸もぺちゃんこに萎んでしまった。

 石籠の首には青いネッククーラーが巻かれ、ざらついた音を出すハンディファンに、前髪が膨らむように揺れる。半袖のワイシャツからは、美白の細い腕が伸びている。

「……ずいぶんと涼しげな格好ですね」

 諸田は脇汗の滲むワイシャツの襟を引っ張り、内側に空気を送る。

「蒸し暑いのだから当然の格好だろ。私が熱中症でぶっ倒れでもしたら、この部門はたちまちに立ち行かなくなる」

 悔しいがごもっともの言い分であったので、諸田も返す言葉がない。

「諸田は暑苦しいのが好きなのか。もっと涼しげな格好してもいいんだぞ? 肩の力を抜け」

「俺は、そこまで奔放に振る舞う勇気がありません。下っ端なので、堅実に働きます」

「身の程を弁えているのか。立派な心がけだ」

 自虐ではない。本心から真面目な返答をしたつもりが、望まず地雷に引っかけられたようで、俄然踏み躙られた気持ちになる。

「……口喧嘩で残業代が出るなら、なんぼだってやりますよ」 

「出すわけないだろ。ほら、金のなる木だ」

 片付いたデスクに書類の束が追加される。

 あるならもっと前に渡しとけや。

 逆上の火照りをグッと堪える。

「相手の事情が少し変わってな。諸田が先週作った見積書を作り直して欲しいんだ。自分の仕事なら、文句もないだろ?」

「……はいはい」

 諸田は椅子を力任せに引いて、腰を落とす。デスクトップの電源を入れる。乱暴にキーボードを叩いて、IDとパスワードを入力する。どこかで指が滑ったのか、もう一度入力し直して、ログインする。

 もはや恒例行事にまで定着した、定時前の狼藉だが、今日はなぜかやたらと腹が立つ。

 ここまで気分を害にほじくられては、後に望むは晩夏を濡らす雨の音のみ。天気予報の降水確率は90%を算出している。

 心が黒く染まるのを感じる。清純な楽しみが、崩れていくように感じる。

 それでいい、それがいい。

 感情の上書きを、ヤケクソで受け入れる。

「おっーす、諸田! 今日も残業か?」

 途端、転がってくる陽気な声と、その陽気を勢いに乗せて肩を叩かれる。諸田は殺気立った目で睨みつける。

 同期の浜須田鳴実はますだなるみが、愉快な顔して立っていた。茶髪混じりの今風な爽やかな頭髪が、イケメンの5m手前くらいで止まったような顔を、きっかりイケメンの世俗へと昇格させていた。

「見りゃわかるだろ。お前は帰るのか?」

「もちろん。自分の仕事が終わったからな」

「その論理でいくと、俺も退勤できるはずなんだが」

「諸田はなんでも受け入れるからダメなんだよ。俺だって課長に仕事突きつけられるけど、嫌な時は嫌だって断るし」

「俺が断った次には鉄拳が飛んでくる」

「今日はこっそり帰っちまえよ。責任は俺が取るから」

 イタズラ小僧のように手を立てて、ひっそり悪事を提案してくる。

「無理だ。俺にはそんな奔放に行動する自信も資格もない」

「資格ってなんだよ。俺は小4の時に取得した英検5級しか持ってないぞ」

 とぼけた顔して、威力に乏しいボケをかます。諸田はツッコむ気力も湧かない。

「そうじゃなくて、社会的な立場みたいなことだよ。お前はいつもへらへらしているが、成績はしっかり残すだろ? でも俺は違う。褒められるような結果を出していない。褒められなければ、煙たがられる。だから自然と肩身の狭い思いをする。そう窮屈であれば、自由な行動はできず、上の指示に従わざるを得ない。だから俺は、日々残業の屋根の下で暮らしている」

「丁寧な説明ありがたいけど、途中で大きな誤りがある。窮屈であっても、自由は保証されている」

「自由の身は不自由の身を理解することができない」

「待て諸田! 俺はそんな暗い話をしに来たんじゃない。お前ん家の鍵を貸して欲しい」

「なんでだよ」

「この前、諸田ん家でゲームしただろ? その時、カセットを入れたケースを置き忘れたかもしれないんだ。どこを探しても見当たらない」

「わかった。それじゃあ明日持ってくる」

「明日じゃ遅すぎるんだ!」

 浜須田はデスクに身を乗り出して、騒がしく懇願する。

「今日、仕事中に突然やりたくなってきたんだ。ほら、ついこの間発売された、『魔王とセーラー服ときんぴらごぼう』の最新作だよ。あぁ、やっべ。タイトル名発音しただけで、なんか禁断症状出てきた。とにもかくにも、やりたくてやりたくてどうにかなっちまいそうなんだ。月を見たらオオカミに変身してしまうかもしれない」

 嘘くさい熱量につられず、諸田はガードを固める。

「そんな深刻なゲーム依存症じゃないだろ。一日くらい待てないのか」

「待てないからここまで頼み込んでんだろ? 安心しろ。俺はゲームのカセットを取りに行くだけだ。お前のエロ本やビデオ類には指一本触れないからさ!」

「それが当然だろ」

 家に招いてゲームをする仲でも、諸田は友人とは思っていない。社会生活上、致し方ない交流と割り切って付き合っている。だから、「信用」など現在の諸田には早すぎるわざであるが、このままでは埒が開かないと踏んで、渋々鍵を渡した。

「ありがとう! 恩に着るよ! それも、超高級ブランドのオーダーメイド仕立ての恩をな」

「なるべく早く片付ける。それまで黙って俺の家で待機してろ」

「おぉ―っす! あ、一応確認しとくけど、エロ本見たくなったら見てもいい?」

「勝手にしろ。ただ、変な汚れはつけるんじゃない」

「おぉ―っす!」

 浜須田は現れた時よりも5割り増しの陽気で去って行った。

 あんなお気楽な人間に生まれ変わったら、さぞかし人生イージーモードなんだろうな。

 切ないため息を吐いて、視線が不意に窓際へ移る。

 焼原と目があった。

 が、焼原は決まり悪そうに即座に視線をパソコンに落とした。

 きっと、同じような事考えていたんだろうな。

 諸田も画面に向き合って、いつも通り残業をこなしていった。


 

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