第3話 不穏

むさ苦しいオフィスから席を外して、諸田は共有スペースにある自販機で、冷えた緑茶を購入した。盆を過ぎて8月も終わりに差し掛かる頃、秋の気配を一切感じさせぬ残暑が、冷房機能の貧弱な職場を苦しめていた。ワイシャツのボタンを外し、襟をはためかせながら、吸い込むように緑茶を飲む。冷たい刺激がこめかみを挟めてくる。

 創国の神様に祈っても、気温は微々も和らぐことはない。自助でどうにか処するしかないのである。試しにネッククーラーやハンディファンを買ってみたが、時が経つと使い慣れてしまうのだろうか、効果を実感したのは買い始めた数日間のみで、いつしか手放してからは、その行方、誰も知る由なし。変に他の下敷きになっていたら、バッテリーが破損して突然発火する恐れも十分考えられる。家に帰ってみたらアパート全焼してました、3人くらい死んでました、の大惨事になれば、残業をぼやく口もなく、働き口もなく、ただ時の移ろうままに朽ちていく行く末のみ。よし、今日帰ったらすぐ探そう。芯まで底冷えしたとこ、で、焼原とばったり出会した。

「あっ、焼原さん」

「どうも、諸田君」

 良い年にもなって入社3年目の諸田と営業成績が肉薄している焼原。どんだけ仕事できないんだよと内心蔑んでも、あくまでも相手は年上。成績でも優勢でない以上、強気には出られない。一礼する諸田に対して、焼原はやんわりと右手をあげて挨拶代わりとする。

「焼原さんも、何かお飲み物を?」

「うん。暑くて暑くて、中性脂肪がついてきた中年の身には、耐えられないよ」

 と、軽い自虐を交えるも、焼原は中性脂肪とは縁遠い痩身であった。果汁搾りの清涼水を購入して、気持ちよさそうに飲む。

「そういえば諸田君。昨日は僕の分まで働いてくれたんだよね? 迷惑をかけて本当に申し訳ない」

 弱々しい声で頭を下げる。焼原の柔らかい毛髪は、頭頂部だけが薄く抜けていた。

「いえいえ。人間社会、助け合いが肝心ですから」

 無難にあしらうが、本当は責めて畳み掛けてやりたい気持ちが強かった。いつまでも攻撃的な感情を抱えていては、いずれ取り返しのつかないボロが出る。ちょっとずつ小出しにしようと試みる。

「ところで、焼原さんを責めるわけではありませんが、もうちょっと、ほんのちょっとだけ、急ぐことって、できませんかね?」

「はははっ。そうだね、君の言う通りだ。僕は、もうちょっと急がなければならない」

 諸田の棘をゼリーのようにやんわり受け止めるが、取ってつけたような苦笑いで、気まずさを強引にやり過ごす。

「……けど、いくら頑張っても、できないものはできないんだ。ごめんよ、諸田君」

「そ、そんな卑屈にならないでください。あくまでも、励ましのつもりですから」

 どことなくパワハラ臭くなってきたので、諸田は慌てて撤収する。だが、首尾よく取り直せる訳もなく、重苦しい空気は抜けない。

 でしゃばりすぎたか……。

 諸田が苦味を舐めていると、焼原は不意に胸ポケットから携帯を取り出した。

「……負け惜しみのつもりじゃないんだけどさ、ちょっとこれ見てよ」

 そう差し出した携帯の画面には、向日葵の油絵が映し出されていた。抜けるような青空と向日葵畑の眩しい黄色が、油絵の重厚なタッチで見事に描かれている。

「ほぉ。なんですかこれ。ゴッホですか?」

「実は僕が描いたんだ」

「えぇっ!?」

 ゴッホと称されて微笑んだ口元が、さらに口角を上げる、

「僕、小さい頃から絵を描くのが好きでね。休みの日には自然豊かな場所に出かけて、のんびり風景画を描いているんだ」

「焼原さんにそんな特技があるなんて知りませんでした……」

 突然、焼原の株価が急上昇する。あるべきところに、焼原が君臨し始める。諸田は畏れを抱き始める。

「あの、汚い話であれですけど、その絵って誰かに売り渡したりしているんですか?」

「……まあ、それなりにね」

 焼原は、照れ隠しに小髭の生える顎を掻く。

「すごいじゃないですか! だったらこんな仕事、さっさと辞めてしまえばいいのに」

 これは自分ながらも口が滑ったと思った。案の定、ご満悦だった焼原の顔が曇り始める。

「お金になると言っても、お小遣い程度さ。嫌でもこの仕事を続けなきゃ、とてもじゃないけど生活していけない」

「そう、ですよね。すみません、心無いこと言ってしまって……」

「いやいや。深刻に思い詰めないでくれよ。諸田君にあれだけ驚いてもらえて、僕はちょっと報われたような気分さ。まさか『ゴッホ』と見間違われるなんて」

「そ、それは、俺が、無知なだけです」

 ぼそりと呟いたおちょぼ口に、緑茶をぐいと流し込む。

「でも、そのうえ仕事もできるようになれば、もっと人生は楽しいだろうにね。いや、それは流石に高望みってものなのかな?」

 焼原の問いかけは、自分の片隅に秘めていた見ず知らずの思いをつっついてくるようで、諸田は自分なりの答えをすぐに見つけることができなかった。

「いつも僕はそんなことを考えている。課長に叱られるたび、力不足の自分が恨めしくなる。若手の君にまで迷惑をかけてしまう時には、不甲斐なさで胸が潰されそうになる」

「劣等感は、万国共通の悩みです。俺も、取り柄もなく、目立たない人生を送ってきました。でも、焼原さんには特技がある。それも、簡単に真似できない素晴らしい特技が。羨ましい限りです」

「……そうか。うん。諸田君にそう言われると、ちょっと自信出てきたかもしれない」

 少し考えるような仕草を見せて、穏やかに微笑む。

「それじゃあ」

 先刻と同様に右手をひょいと上げて、焼原は自販機から離れていく。

 あの油絵、ぜひとも悪徳課長の面前に突きつけてやりたい。心無く費やしてきた罵詈雑言に悔やみきれずに出家するかもしれない。その時は、職場一丸となって後押ししてやろう。

 そんな悪だくみにうつつを抜かしていると、去った焼原に、我を取り戻す。T字に別れる通路の突き当たりで、焼原は静かに立ち止まっていた。上階の職場に続く階段とは真逆の方向に顔を向けたまま動こうとしない。

「……焼原さん? どうかしましたか?」

 一声かけると、焼原はびくりと振り返って、

「ああっ、いや。なんでもないよ」

 と、濁すようにそそくさと階段を登って行った。

 誰がどう見てもなんでもないわけがない。

 不審な取り交わしに緊張帯びて、諸田は忍足で進んでいく。背を壁に張り寄せて、刑事ドラマさながらに角から顔を出し、焼原と同じ方向を覗き込む。が、わずかな音すら聞こえない無人の通路が伸びているだけであった。

「……石籠課長でもいたのかな」

 そう適当に勘付けて、諸田は職場へ戻った。真面目な焼原は、決しておどけた真似をするような人物ではない。今し方の挙動には、必ず意味がある。そう考えると、腹の奥まで不気味な悪寒が襲ってくる。

「ふぅ。ちょうど良い涼みになるな」

 馬鹿な妄想を即刻追放し、職場に戻った諸田は早速仕事に取り掛かった。

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