第2話 秘密の帰り道

 諸田が退勤した時、時刻は9時をゆうに越していた。

 会社の窓を見上げると、局所におぼろげな光が灯っていた。

 焼原はまだ残業を続けていた。

 入社してから約20年、人一倍真面目に働いているのに、いつまでも平凡の下を行く成果しか出せないその不遇っぷりには、さすがの諸田も同情を寄せてしまう。

 外は予報外れの雨であった。無論、傘の用意は無い。

 諸田は自家用車で通勤しているが、たとえ生身で来ようがで来ようが、予報という柵をまたいで降り落つ雨には、自然と嫌悪を抱くもの。

 しかし、こと諸田においては、地を打つささめくような雨音に、一人不敵な笑みを浮かべるのであった。

「残業後の雨か。ジャストタイミングだ」

 気味悪い独り言を気味悪いトーンで発しながら、駆け足で駐車場に向かい、車を発進させた。

 諸田の住むアパートから職場は、車で10分の近場にある。しかも、緩やかな下り坂をひたすら直進するという簡単なルートであるため、免許取り立ての頃でも気楽に出勤することができた。

 しかし、諸田は差し掛かった交差点を直進せずに左折して、山間の方面へと向かった。

 山道を抜けてもアパートには辿り着くが、魅力的な10分の移動時間は40分にまで膨れ上がる、長い迂回路であった。

 だが、山道をかき進んでいくほど、残業でたるんでいた諸田の顔にハリが出てくる。

 雨足は乱暴者のように荒くなってきた。ワイパーをしきりにかける。ボタボタと、フロントガラスに雨が重くぶつかる。

「いいぞいいぞ、最高の環境だ」

 浮き立つ気持ちに、自然とアクセルの踏みも深くなる。

 細くうねる危険な山道を、諸田は巧みなハンドル捌きで進んでいく。

 この時間に山道を走る車は滅多にいない。空いた道路を良いことに、諸田は気持ちの乗るままに、スピードを上げていく。

 30の赤標識の横を、60ですり抜けていく。

 後輪が滑りかける。だが、そのリスキーすらも興奮となって諸田を楽しませる。

 そして、50m先に大きな右カーブが控える直線路に出た時、諸田はさらにアクセルを踏み込む。

 エンジンが唸る。

 メーターの針は、70を指す。

 カーブが一気に迫ってくる。

「そこだっ!!」

 瞬間、ブレーキを踏み込む。

 体ごと右によじらせる大きなハンドリングで、飛ぶように滑る車を器用に制御する。

 カーブ脇の深い溝に溜まっていた泥水が、波のような大きなしぶきを上げる。

 車をカーブの終わりで停止させ、黄色のハザードランプを点滅させる。

「……ふぅ」

 シートベルトを外し、諸田は深く座り込む。

 外気温27度の熱帯夜、エアコンも忘れて運転に熱中し、額からは汗が流れる。一運動終えたように、深呼吸で熱っぽい体を落ち着かせる。ルームミラーに映り込む諸田の表情は、爽やかに綻んでいた。

 しばしの余韻に浸った後、諸田は車を降りた。

 まだ勢いの弱まらない雨粒が、諸田の体に音を立ててぶつかり、弾く。

 汗ばんだワイシャツに滴る雨と、濡れそぼった山の匂い。

 至福を感じながら向かうは、山道の路肩に場違いに設置された一体の案山子であった。竹を骨組みに使い、藁で肉付けした、へのへのもへじのいかにも標準的な案山子。

 ハザードランプに黄色く明滅する案山子は、諸田の急カーブによって、全身に黒い泥をかぶっていた。

 身につけていたであろう麦わら帽子は、茂みの中に落っこちていた。

 果たして誰がなんのために作ったのか、全てが謎に包まれている案山子。

 車通りが少なく、見かけても素通りするから、何ら注目の浴びない案山子。

 そんな案山子目掛けて、思いっきり泥をぶちまけるのが、諸田の一番の楽しみであった。

 確かにお笑いは好きだ。運転だってまあまあ得意だから、ドライブも好きだ。

 しかし、日々の過酷な疲れを晴らすには、もっと強力な刺激が必要だった。

 一緒に旅行へ出かけるような気の合う友人もいなければ、情熱的な交わりに抱き合う恋人もいない。

 諸田は一人で理不尽な鬱憤に立ち向かわなければならなかった。そんな中、気晴らしにたまたま山道を通った時に見つけたのが、この案山子であった。

「ふんっ、ざまあみやがれ」

 泥まみれにしては、間抜けな案山子の面に憎き石籠を重ねて、激しい暴言を吐きつける。

 それは、雨の日の欠かせぬ日課であった。

 誰の案山子か知らぬ存ぜぬの初めこそは、罪悪感に胸を掴まれて、ピンポンダッシュのような悪戯要領で事を済ませていた。しかし、次第に快感が勝るようになって、今では生活の一部として、排便と同じような感覚で行っている。

 泥で汚すたびに、案山子は新調されているから、おそらく誰かが継続的に作成していることは間違いない。

 それも、諸田を心地良くさせる要因の一つだった。

 誰かがなんらかの目的で、手間暇かけてわざわざこの山道まで持ってきたその労苦全てを泥の泡にしてやる。

 その罪の深さが、鬱憤の痒いところにちょうど届いてくれる。

 まさか故意に汚されているなど、制作者の知るところでは無い。 

 まるで我が子のように丹精込めて作っては、ストレスの肉便器として使い捨てられるだけなのに、ご苦労な阿呆めが。いや、この場合「藁便器」と言った方が適当か。

 麦わら帽子を泥まみれの頭に被せて、諸田はご機嫌に車へ戻る。一時の熱は冷めて、一気に寒気がやってくる。肩を強く震わせて、諸田は山道を下っていった。

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