案山子ビキニ

ボブラート

出会いの某日

密行

第1話 会社にて

「あぁーっ、終わったぁ」

 液晶ディスプレイに長時間張り付けた目を離して、諸田功介もろたこうすけはうんと背を伸ばす。ちゃらりとズレた腕時計は、6時30分を示していた。定時より1時間以上過ぎているが、過酷な残業三昧の日々と比べたら、すこぶる健全な終業であった。床に伏すまでたんまり時間がある。昨日録画してたお笑い番組を見ることができる。快適な一人時間を想像したら、腹も空いてきた。近くのコンビニに寄って、少しリッチな夕飯を拵えよう。陽気に鼻唄を奏でながら帰り支度をしていると、カツカツとわざとらしくタイルを鳴らす足音が聞こえてくる。諸田の快調な手つきも停滞し始める。

「おい諸田。もう帰るのか」

 来やがった。

 諸田が嫌々目を向けた先には、営業課長の石籠麗いしかごれいが澄ました顔で腕を組んでいた。32歳という若さで課長を務め、黒のショートヘアを靡かせながらモデルさながらのスタイルで職場を闊歩する。誰もが認める実力に加え、容姿端麗さも重ね備えている。そんな彼女が上司から気に入られるのは必然的であり、一児の母でありながらスピード出世を可能にしたのは、そうした「コネ」が大きいのだろうと、諸田は踏んでいる。諸田は、一応形式的な敬意くらいは抱いているが、諸田を残業漬けにする主犯でもあるので、トータルで「嫌い」という評価を下していた。

 そして、石籠の右手には、今日も今日とてクリップ止めされた書類の束が握られていた。

「すみません。俺、今日は大切な用事があって、もう帰らないといけないんです」

「嘘をつけ。『今日こそ早く仕事終わらせて、録画番組消化するぞ―』とか、楽しげに浜須田はますだと話し合っていただろ」

 いつ聞いたんだそれ。向かいのファストフード店で交わした会話だぞ。

 石籠の特異な地獄耳と、同僚の浜須田の口軽さによって、諸田の言動履歴は半分筒抜けになっていた。

 そして、書類の束が、諸田のデスクを叩くように差し出される。

「実はな、印刷機械のトラブルで、このパンフレットの納期が一ヶ月ほど延長しそうなんだ。だから、スケジュールの修正を頼む」

 そう石籠が指し示したパンフレットは、諸田の見覚えのないものであった。

「待ってください。これ、俺の担当じゃありません。焼原やきはらさんのです」

「その通りだ。だが、焼原は仕事が遅い。奴の頭の部品もトラブルをきたしているくらいにな。代わりに消化してやってくれ。後で何か褒美をやる」

 窓際の席で黙々と残業に勤しんでいる焼原を一瞥しながら、石籠は言う。焼原は石籠より10歳年上の42歳だが、ポストと実力は石籠が上回っているので、気兼ねなく部下の一人として呼び捨てをしている。

「褒美、褒美って、毎回それ言っといて、まだ一度ももらったことないんですけど」

「当然だ。本気で言ってないからな。鵜呑みにするお前が悪い」

 美人若手課長を良いことに、やりたい放題調子こきやがる石籠。

 ひと足先に帰宅する石籠の颯爽とした歩き姿を横目で睨んで、諸田は託された残業の消化に取り掛かった。

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