第15話 その言葉、一生忘れないから

「見春っ! なんでこんなところにっ」

 諸田の呼びかけを、稲荷野は微笑みで返す。

「なんだなんだ? ピエロの彼女さんか?」

「ピエロ? あなた、つぶれかけの印刷会社の営業職じゃなかったの?」

「そのどちらでもねえよ! ……いや、『つぶれかけ』ではあるのか?」

「気に食わねえ奴らだ。おい、お前は男の方を見張ってろ。女は俺が仕留める」

 と指示を出した金髪は稲荷野に、残りの青髪は諸田と対面する。

「姉ちゃん、『ミハル』って言うんだって? なかなかの美人さんじゃねえか」

 金髪ははしたなく唾をすする。

「『なかなか』じゃなくて、『とっても』と訂正してくれないかしら」

「なあ、俺と一発ヤらせろや。彼女と喧嘩別れしたばかりでたまってんだよ」

 金髪は早とちりに勝算をはじき出しているようで、動かぬうちから息を荒くする。

「それは残念ね。私がなだめてあげる」

 稲荷野は、神妙な足取りで距離を詰める。

「へっ、何だよ。ずいぶんと強気じゃねえか。不意打ち一発くらわせたくらいで、良い気になってんじゃねえぞ」

 金髪は拳を構えて、見様見真似のボクサーポーズをとる。

 しかし稲荷野は、相手の出方をうかがうこともなく、大雑把に前進する。

「……舐めてんのかこのクソ女っ‼」

 軽快なステップを踏んで、金髪は一気に稲荷野の懐へ飛び込んだ。

 未熟な体勢から顔面目掛けて左ストレートを繰り出す。

「んなっ」

 しかし、自慢の一撃は、難なく稲荷野の右手に受け止められる。

 力で押し込もうにも、かえって金髪の体が力むだけで、稲荷野は柱のように直立して動かない。

「弱っちい男ね。だから彼女さんにも見限られるのよ」

「がっぶっ‼」

 大きく振りかぶった稲荷野の左手、金髪の頬に強烈なビンタが叩き込まれる。

 稲荷野の暴力を、呆然と眺める諸田。

 その音を耳にするだけでも、自分の頬が痺れるよう。

 ぶたれた金髪は、簡単に横倒しになる。

「つ、強すぎだろ、見春……」

 途端、稲荷野と目が合った。

 幾度となく見た退屈した表情。

 だが、今は凶暴なオーラを纏っていた。

 諸田は胸をすくわれて、すっかり怖気つく。

「こんの野郎っ‼ よくもやってくれたじゃねえか‼」

 一人残された青髪は、諸田という雑魚など背に捨てて、粛然とたたずむ稲荷野へまっしぐらに駆け出した。

「きっ、君待てっ! やめろ、あの女は、相当にイかれているっ!」

 痛ましい惨状を目の当たりにして、諸田はいつの間にか不良に情けをかけていた。

 しかし、せっかくの親身な忠告を聞き入れず、青髪は突っ走っていく。

「うるあああああああっ‼」

 腹の底からつきあがる雄たけびは、半端に途切れた。

 跳躍する稲荷野。

 そのしなやかな美脚は青髪の頭上を捉え、強烈な回し蹴りを叩き込んだ。

 吹き飛ばされた青髪は、痛む声もなく、空っぽの駐車場に転がった。

「……ふん。弱い犬程よく吠える。この野良犬ども、まとめて動物愛護センターに送った方がいいかしら」

「見春……、お前、本当に見春なのか?」

 想像を絶するパワーと身のこなし。

 それが稲荷野と思われる人体から繰り出されている。

 諸田は、自分の目をこの上なく疑う。

「ええ。そうですけど、何か」

「どうしてお前はずっと真顔でいられるんだよ。おかしいだろ、気持ち悪いよ」

「行き過ぎた美は、誰にも受け入れらないって、よく言うしね」

「言ったことねえし何の話だよ」

 たわいない雑談を交わしている最中、稲荷野の背後で、一番にやられた赤髪がよろめきながら立ちあがっていた。

 苦悶で汗玉を噴き出している。

 不意打ち返しを目論んで、静かに稲荷野の死角へ迫っていく。

「見春っ、後ろ!」

 諸田の叫びに、稲荷野は俊敏に体を切り返す。 忍び寄った赤髪は、すでに攻撃態勢に入っていた。

「一発っ、だけでもッ‼」

 男三人が女一人に負けた。

 その雪辱を一発で晴らすための渾身の右拳。

 だが悲しいことに、その拳は稲荷野の体には届かなかった。

 届きそうなところで止まった。

 赤髪は固まっていた。

 稲荷野が咄嗟に広げたコートの内側。

 魅惑な体つきを一層引き立てる真っ赤なビキニが、赤髪の目をくぎ付けにしていた。

「一発だけでも、いいけれど?」

「は、は、は、は……」

 すんででとどまった拳から指が広がる。

 開いた指は、大きな乳房に向かって進んでいく。

 やがて、着地に合わせて、開いた指がまた閉じていく。

 そして、

「ふっがあああああああっ‼」

 着地までのこりわずかの直前で、稲荷野の蹴りが赤髪の股間に炸裂した。

 再び地上に悶える赤髪。

 稲荷野は、手で覆い隠したその股間へ、何度も蹴りを入れて畳みかける。

「ほら、出しなさいよ。とっとと一発出しなさいよ。え? 一発だけでも出したいんでしょ?」

「あああっ‼ やっ、やめてっ、痛いっ、痛いっ‼」

「やめろ見春っ‼」

 稲荷野は、物の怪にとりつかれたように攻撃の足を緩めない。

 見かねた諸田は、強引に引き離す。

「何よ。こいつのお望み通りにご奉仕してやってるだけじゃない」

「ふざけんな。このどこが奉仕だよ。真っ当な暴力だ。そんなに男をいじめたいなら、SMバーにでも行きゃいい」

 本気の説教に、稲荷野は小さくため息をついて、コートのボタンを一つずつはめていった。

「いくらなんでもやりすぎだ。相手はまだ多分高校生だぞ。あそこまでボコボコにしなくていいじゃないか」

「どうして高校生ってわかるの?」

「さっき見春が蹴り飛ばした青髪の胸ポケットから、学生手帳みたいなのが飛び出してた」

「ふん、学生証を持ち歩くなんて、最低限の風紀は持っているようね。でも、高校生はそいつだけかもしれないわよ」

「だとしても正当防衛の範疇はとうに超えてる! てか、見春の不意打ちのせいで、ここまでの大事に発展しちまったし」

「でも、私が手を打たなきゃ、あなたがボコボコにされていたわよ」

「そ、そうかもしれないけど」

「はあ……。汚らわしい笑い声を聞きつけて、せっかくやってきたのに、人に感謝もできないの? 『臭い』、『汚い』、『感謝できない』、これで3Kコンプリートね」

「うるせえ。てか、なんでそんなに強いんだよ」

「高校生まで空手をやってたから。ほら、私って暴漢に襲われそうな体つきしてるでしょ? 自分の身は自分で守らなくちゃ」

「あれは果たして空手だったのか?」

 二人が談笑してる間に、ボコられた不良衆は徐々に回復していた。

 そして、稲荷野の隙を伺って、一目散に逃げ出した。

「糞女に糞ピエロっ‼ 絶対に許さねえ! 覚えておけよっ‼」

 稲荷野の攻撃が届かない、コンビニの敷地外から声を張り出して、三人は夜道に消えていった。

「あら、まだいたんだ。もう存在すら忘れかけていたわ」

「余計な事しやがって。武術を身に着けた見春はいいかもしれないけど、丸腰の俺まで巻き込むじゃねえよ」

「諸田が家出しなければこんなことにはならなかった」

「見春が帰れば俺は家出せずに済んだ」

「そう言い合ってたどり着くのは、ここなんだけれど」

 そして例のごとく、稲荷野の携帯を突きつけられる。

「……もう一つさかのぼれば、俺の課長に行きつくんだがな」

「あなたの課長に興味はない。私が興味あるのは、諸田功介なの」

 稲荷野のしなやかな左手が、髭が伸び始めた諸田の顎に添えられる。

 通称、「顎クイ」と呼ばれる所作。

 立場の逆転した「顎クイ」。

 諸田は恐怖を感じた。

 金髪を一撃で張り倒したあの左手が、自分の顎を掴んでいる。

 いつ顎を砕かれてもおかしくなかった。

 顎だけではない、命すらもその左手の中にあるようだった。

 「顎クイ」というより、「命クイ」であった。

「……わかったよ。俺が身の程知らずだった。見春の言う通りにするよ。今度こそ、本当に」

 汗ばんだ右手で、「命クイ」の手首を握る。 

 冷えて、乾燥していた。

 諸田の命乞いから奇妙な間を置いて、稲荷野は左手を引いた。

「その言葉、一生忘れないから」

 そんな過剰な強調に、諸田は臓腑も全て見春に差し出してしまったような、喪失感に包まれた。

 あれだけ残暑を疎んでいたのに、今や止まらぬ身震いに腕を摩りながら、前を歩く見春の背中を淡々と追っていた。

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