第16話 また、どこかで会わねえかな

 息苦しさで諸田は目覚めた。

 床で寝そべっていたはずの稲荷野が、コアラのように諸田の体にしがみついていた。

 稲荷野のきめ細やかな寝息が、諸田の頰にふきかかる。

「おっ、おい! 見春、起きろ! どんなとこで寝てんだよ!」

 ビキニの紐がかかる肩を揺さぶる。

 心地よい肌触りだった。

 たとえ自分の体毛を根こそぎ引き抜いて美白液に四六時中浸かっても再現できない、滑らかな肌だった。

「おい見春!」

「うるさい、起きてるから」

 稲荷野は整然と身を起こして、諸田に馬乗りになる。

「……いや、ぐっすりと寝息立てていましたけど」

「それは演技。眠っていたふりをしていたの」

 と言いつつも、声はまさに寝起きの掠れがあった。

 大きなあくびをしながら、背を伸ばす。

 そして、諸田の体から離れる。

「何の強がりだよ。そして、どうして俺に抱きついていた」

「平凡の風土をもっと感じ取りたかったから。諸田の体温と呼吸を、私の魂に刻み込みたかった」

「意味がわからねえよ、その『平凡フェチ』」

「凡人が天才を憧れるように、天才も凡人を憧れているの。何気なく友人と戯れる、絵に描いたような普通の日常を」

「じゃあ、交友関係の乏しい俺はどんな扱いになるんだ」

 体を起こそうといつもながらに右腕を支えに使うと、途端に激痛が走って、あえなく倒れる。

「だぁっ! いってててて!」

「まだ痛むの? 手首」

「そりゃ昨日の今日なんだから、魔法でも使わない限り治らねえだろ」

 応急処置的に保冷剤を包帯で巻き込んでいる。

 諸田の中学時の部活は野球部だった。投げても打っても守っても、成績の振るわない選手で、3年通じて玉拾いがメインの仕事だった。

 ぞんざいに日々を送っていたが、その反面、怪我だけは絶対にしたくなかったので、予防と対処の策は抜かりなく会得していた。

 結局使う場面は訪れなかったが、幸か不幸か、思いがけぬ初陣を果たした昨晩であった。

「病院行けば? 骨折だったら、素人でどうにかできるレベルじゃない」

「痛みがひどくなったら行く。捻挫ごときで休ませてくれるほど、俺の会社は甘くない。それに全く動かないわけでもないし、そもそも手首を器用に動かす仕事でもない。こんなの、病院のお世話になるほどじゃない」

「そうね。不良と喧嘩して怪我したとか、あまりにも滑稽で、口が裂けても言えないわ」

 滑稽という言い方が、不良衆の「ピエロ」という呼称と奇遇にもマッチする。

 生々しく、気分が悪くなる。

「喧嘩振ってきたのは、あくまでもあいつらだ」

「誰が振ろうが構わない。とにかく、私はそろそろ帰るわ。平凡も好きだけど、仕事は投げ出せない」

 時刻は、6時30分を過ぎたあたりだった。

 8時半の出社まで、潤沢にゆとりがある。

 鬱屈とさせる、乾いた明朝の暑さも、今日だけはちょっとだけ心地よい。

 稲荷野は、「露出狂」と蔑んで一蹴したロングコートを羽織った。

「これ、本当に返さなくてもいいのかしら」

「ああ、構わない。そろそろ捨てようと思ってたものだから」

「そう」

 稲荷野はどっちつかずの返事をする。

「じゃあね、諸田。機会があれば、またいつか会いましょう」

「おそらくないだろうな。俺はもう、案山子の前を通らないと決めた」

「それは残念ね。あなたにぶっかけられるの、そこそこ気持ちよかったのに」

「泥をな」

 コートのボタンをかけ終えて、小棚の上で充電中だった自身の携帯を、ポケットにしまい込む。

「さようなら、諸田。あなたと出会えて、私嬉しいわ。少しだけ、平凡に近づけたような気がする」

「他方、俺はお前に近づけた気が全くしないんだがな」

 最後まで愚痴をこぼす矮小な諸田を吹き飛ばすように、稲荷野は鼻を鳴らす。そしてきっぱりと身を翻して、諸田の家から去った。

「ふぅ……」

 諸田は改めてベットに寝転ぶ。

 稲荷野のいなくなった室内は、不気味なくらい静まり返っていた。

 これが今までの「普通」だったのに、心落ち着かないくらいの「異常」になっている。

 てっきり清々しく朝の支度に取り掛かるのだと思っていた。

 しかし、実際に感じたのは物足りなさだった。

 鬱陶しいと拒んでも、いざ別れてみれば、稲荷野を求めていた自分の存在に気づき始める。 

 寂しい。

 一人は、寂しい。

 諸田には、自信持って「打ち解けた」と言える友人は特にいなかった。近づこうも、結局どこかで譲歩していた。そして、いつしか譲歩に慣れきっていた。孤独でも、自分が楽しければ構わないと思うようになっていた。

 だが、この短い一夜を振り返るたび、諸田の孤独の殻に、一線一線とヒビが入っていく。

「また、どこかで会わねえかな」

 内なる寂しさは、自然と言葉になって呟いていた。

 一日の活動を始めたカラスの鳴き声が、白い朝日に照らされた住宅地に響き渡る。

 弱気な独り言が外に漏れたような気がして、急に恥ずかしくなる。

「カラス……、そうだ、ゴミ出し。燃えるゴミ、捨てに行かなきゃ」

 手首を痛めぬよう、転がるように起き上がる。

 部屋中のゴミ袋を取り出して、有料の袋にまとめる。

 ゴミ捨て場に向かう。

 頭上を横切る電線や、付近の家屋の屋根角に、必ず数羽カラスが止まっている。人間が丁寧に持ち寄るゴミの山を見張るように佇む。

 たかがカラスでも、まるで上司に仕事を監視されているようで、気味が悪かった。

 睨んでも、地上の生物など敵でないというような、高慢な態度。

 奴らの黒い羽が広がらないうちに、ゴミ袋を片付けた。


 家に戻って、買い溜めていたコンビニ弁当を朝食にする。

 テレビから適当な報道番組を流して、出勤の準備を整える。

 心の錆を擦るような寂しさなど、結局は泡沫のような一時に過ぎない。

 澄んだ晴空の新たな一日。

 諸田の平凡な日常は、再び動き始めた。

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