第2話 溺れているから藁をも掴む
「あたしに、定宗くんの精気をくれない?」
考えるより先に言った。
上ずった、情けない叫び声になった。
「無理だ!俺には好きな人がいるんだ!」
悲鳴のような告白のあと、一瞬沈黙が落ちる。
そして、アロマさんは言った。
「え、あ、うん。そうなんだ?」
なんで急にその話?みたいな、ぽかんとした顔と声をしていた。
全然興味ないコンテンツを突然激推しされた人のような表情だった。
「あ、うん…いるんだ」
なんとも言えない空気が流れる。
俺の言葉は哀れなくらい尻すぼみになった。
アロマさんは「あ~…ん~?」と視線をあちこちにさまよわせて考えてから、合点が言ったように「そっか」と言った。そして、顔の前で両手を合わせた。
「ごめん。勘違いさせた。普通サキュバスのイメージってそうだよね」
「いやっ、俺こそすまん!なにか…妙な勘違いを、してしまったみたいで…」
顔がどんどん赤くなっていくのを感じる。耳熱い。
どうも早とちりをしたらしい。でもあれは勘違いするだろう俺じゃなくても。するよな?
あと、なんか、友達にすら内緒にしていた秘密まで話してしまったんだが、都合よく忘れていてくれないかな。
「精気の取り方っていろいろあってさ。ままの頃は直接とるしかなかったんだけど、今はこういうのがあってね」
じゃじゃん、といって彼女が取り出したのは割り箸だった。淡いピンク色をしている。
俺は眉根を寄せてじっとそれを見る。
「普通の割りばしにしか見えないが…」
「ん~、見たほうが早いと思うんだよね。ね、定宗くん。あたしは触らないから精気とらせてみてくんない?」
先ほど盛大に勘違いしたらしい身としては断るのは忍びなかった。
割りばしで何をどうするのか も気になったので「わかった」と了承した。
「ありがと。じゃあ採るね」
彼女は俺の右頬近くに割り箸を持ってくると、くるくると円を描くように回し始めた。
サキュバスの催眠方法とかだったらどうしよう、と今更不安が沸き始めた時割りばしの先に何かがまとわりつき始めた。
ピンクや紫のファンシーな色をした雲のようなものが、徐々に彼女の手の棒に集まってきている。
その形状には見覚えがあった。
「わたあめ…?」
「そ~。精気って体からにじみ出るからねー。最近はこういう食べ方もアリなんだ」
まだもうちょい大きくしたいな、と呟いてアロマさんは真剣に精気の綿あめを作っていた。
なるほど、精気というものは触れなくてもとれるのか。
アロマさんが作る綿あめは、サッカーボールより大きいくらいになっていた。
「というか精気ってなんなんだ?俺はとられて大丈夫なのか?」
とられておいて今更、我ながら間抜けな質問だとおもう。
アロマさんも翡翠色の目を見開いて「え、」と感嘆した。
「え!よくわかんないのにオーケーしてくれたの!?」
「ながれで、つい」
自分の危機感のなさにバツが悪くなり、少し顔をそらす。
アロマさんは綿あめつくりの手を止めた。大きさはスイカくらいになっている。
あれ全部俺から出たもので作ったのか。心なしか頭の靄が晴れたような気がする。
「そっか、人間は精気ってよくわかんないのかぁ。見えもしないんだっけ」
「そうだな。綿あめは見えるが…」
「密度が高くなるからね」
アロマさんは綿あめをちぎって俺に見せた。ピンクと紫が混ざった色合いをしている。
「精気っていうのは、生きるパワー。どの動物も生きているなら精気を作ってる。そんで”生きたい”っていう気持ちがあふれると、精気はいっぱい作られる。いっぱい作られて体から溢れてている分なら、サキュバスが食べちゃっても大丈夫。むしろすっきりするらしいよ」
なるほど。気力のような物だろうか。
瀕死の状態の人間が気力で持ち直したという話は時折聞く。だが、それだと不思議なことがある。
ちょうどアロマさんが「おーけー?」と俺に尋ねた。その表情がたまたま上目遣いだったので顔をそむける。俺に好きな人がいてもかわいい顔はかわいいので、童貞(俺)には刺激が強い。
咳ばらいをしてから質問する。
「あー、生きたい気持ちとはいうが、俺は別にいつも通りの夜を過ごしていただけだ。そんなに精気が溢れるような状態じゃなかったと思うが」
そういうとアロマさんは「あー」と言いながら視線を明後日に投げる。言葉を探すように綿あめ付きの棒をさまよわせていた。
「精気って、エッチなこと考えててもでるんだよね」
空気が凍る。
「え」
アロマさんは言いづらそうに視線を逸らせている。
「というか、昼間も普通に生活してるっぽいのに精気めちゃ漏れだったから定宗くんに声かけにきたし…」
「う…」
「や!でも、エッチなこと考えるのは、生きることにつながるし…。そもそもこの歳の子が精気多いのって超フツーだし…」
アロマさんは俺をフォローするために言葉を重ねてくれていた。一方、俺は首切り役人の前に座る死刑囚のようにうなだれている。
サキュバスには、目の前の彼女には、常日頃俺がエッチなことを考えている事が駄々洩れらしい。
昼間も、ということは日中の俺の様子もどこかでみていたのだろう。友人からもからかわれる仏頂面の内で、エッチなことを考えていた俺を。
「…して、くれ…」
「え?」
俺は頭を抱えてうずくまった。顔が熱すぎて熱がこもるが構ってられるものか。
心からの懇願は蚊の鳴くような声になった。
「ころしてくれぇ…」
「はぇ」
突然の殺人依頼にアロマさんが気の抜けた声をだす。
俺はふぅー、と長く息を吐き意を決して言った。
「アロマさん、隠しても仕方ないから言うが」
「ちょっとまって、姿勢はそのままでいくかんじ?」
俺は頭を抱えてうずくまったまま床に転がっている。死にかけのダンゴムシに似ているだろう。
人の顔をみて話しなさいと両親から教育されてきた俺だが、今日ばかりは勘弁してほしい。
このままだと死因が憤死になる。俺も可哀そうだし、アロマさんも童貞の憤死は見たくないだろうし、そして親も可哀そうだ。
「これで頼む」
「うん…わかった…」
何か言いたい言葉を飲み込んで、アロマさんは頷いた。優しい人だ。
「隠していても仕方ないからいうが、俺はスケベなんだ。日々エッチなことを考えている」
「うん。さっきも言ったけど定宗くんだけじゃないよ。定宗くんくらいの歳の子はみんなエッチなこと考えてるよ」
「…本当に?本当にそうだとしたら、数多いる思春期学生のなかでわざわざ俺を選んだ理由を教えてほしい」
「それは…」
アロマさんが口ごもり、俺はさらに打ちひしがれた。
「やはりそうだ…。俺だけなんだ。女性とすれ違うだけで心臓が破けそうになったり、物を拾ってくれただけで俺に気があるのでは?と勘違いしかけたり、毎日エッチなことばかり考えるから良からぬことを実在の人に起こしたらどうしようと不安になって、するときの対象を漫画や絵に定めているのも俺だけなんだ…」
「いや、割とあるあるだとおもうよ。最後のは知らないけど…」
「なるべくグラビアなどは見ないようにして、性と現実を少しでも遠くに置くようにしている。いつ自分の性欲が人を傷つけるかわからないからな…」
「まじめだなぁ。すんごく…」
「それでもやはり実在の女性に目が惹かれるので、今後は次元を一つ落とそうかと思っている。線とか、点とか…。数学で欲情するようになったらどうしようという不安から実現はしていないが…」
「してなくてよかった。まじで。定宗くんて考えすぎると一人でから回るタイプだね」
アロマさんが優しく聞いてくれるので、俺の中にあった鬱屈が漏れていく。
「実は同級生との猥談にも交われないんだ」
「なんで?昼間見てたけど、定宗くん普通に友達いるでしょ?」
「いるんだが…。エッチな邪念を堪えるために気を張っていたら、仏頂面だからエッチな話題に興味のないやつと思われてしまった」
「かわいそう」
心からの同情の声が聞こえた。ありがとうこんな生き物を憐れんでくれて。
「本当はある。めちゃくちゃ興味ある。彼女もちの奴の話とかものすごく聞きたい。参考にしたい」
「好きな子いるって言ってたもんね」
「そうなんだ。…彼女のそばにいると何も言えなくなる。傷つけたくないし、嫌われたくないのにエッチなことばかり頭に浮かんで、もう俺はダメなんだ…」
心の中に渦巻いていた思いを口に出すと、あまりの情けなさにどん底の気分になる。
自分の性欲に振り回されて、何もできず、あげく初対面のアロマさんにこうして愚痴をこぼしている。
とことん最悪だ。
うずくまる俺の肩にアロマさんが手を置く。つられて顔を上げた。
彼女はゆるく微笑んでいた。
「ダメなんかじゃないよ。すごいことだよ」
アロマさんはまっすぐ俺の目を見ている。
「えっ」
「自分のせいで誰かが傷つかないように一生懸命考えている。それってすごいよ」
彼女の表情は優し気ながらも、確信を持っていて揺らぎがない。
「だが、俺はそのせいでなにもできなくて…」
「ふふふ、定宗くんはラッキーだったね」
アロマさんは、先ほどの綿あめを掲げながら自慢げな表情を浮かべる。
俺は眉根を寄せた。
「どういうことだ?」
「さっき言ったでしょ?過剰な精気をとられるとスッキリするって。今はどう?」
綿あめを目の前に突き出して聞かれる。たしかにそんなことを言っていたか。
俺はとられた後の感覚を首をかしげながら思い起こす。
「そういえば、とってもらった直後は頭がスッキリしていたような…」
うんうん、とアロマさんが満足そうに頷いた。
「でしょ?あたしは定宗くんから精気をもらって、定宗くんはえっちな気持ちに振り回されずに生活できる。なんなら好きな子と普通におしゃべりもできるかも。…どう?い、イチジガバンジ?イチリョウグソク?そんな感じじゃない?」
単語を探して首を傾げたり指を彷徨わせたりしながらそう言った。
一挙両得、あるいは一石二鳥だろうか。
「アロマさんにも俺にも得があるという事か」
「そうそ。だからさ、これからあたしに精気をちょうだい」
目の前に座る彼女はサキュバスだ。精気を固めた綿あめをもち、蝙蝠の羽がご機嫌に揺れている。俺を見下ろすゼリーかジャムのように甘い色をした目からは、本心は見えない。
ハスキーな声音をした彼女の言葉に、俺は姿勢をなおして正座する。
でも、彼女は俺の情けない話を笑わずに聞いてくれた。励ましてくれた。
俺はアロマさんを見据えて頭を下げた。
「よろしく頼む」
「おっけー。よかったー。ごはんくれる人ゲットだ~」
アロマさんはほっとした表情をして、肩の力を抜いた。
つられて俺も息をつく。すごい夜だ。サキュバスと知り合って、約束までしてしまった。
「じゃあ早速もっと貰ってもいい?」
心なしかわくわくした表情でスイカ大の綿あめを見せられながら聞かれた。
「まだとるのか?」
別に痛くも痒くもないから良いんだが、すでにそこそこ大きいほうなんじゃないだろうか。
「あたし結構食べるほうでさ〜。あ、気分が悪くなったら手あげてね」
「歯医者か?」
その後、大型トラックの車輪くらいの大きさになった綿あめを、アロマさんはきらきらした顔で食べていた。
俺は自分からでた精気の量に素直に引いた。同世代みんなこうだよな、こんなもんなんだよな、とアロマさんに問い詰めたかったが、否定が帰ってきたら怖いのでやめた。
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