飛行士の夜

Don Foximing

飛行士の夜

 


 見知らむ町が夕暮れに溶けていく。空の上から見ればミニチュアの都市型模型のようだった。眼下に横たわる山脈は地平に接しかかった太陽の光を正面に受け、峡谷は影に沈み、山陵は黄金色に輝いている。山々に囲まれた小さな町は砂漠に侵食されるアフリカの都市か、上昇する海面に水没してゆくインドネシアの漁村を思わせ、やがては迫り来る大地の波濤に押し潰されてしまいそうだった。

 孤立した町は山の影に覆われ、陽の光はすでに届かない。家々では灯火を点けた灯りが窓から漏れているのがよく見えた。街路に電灯もない辺境の町では夜の帳が降りれば、闇を照らすのは星と月とランプの灯りだけだ。人は灯りの側で静穏な夜を過ごす。大工は酒を飲み、詩人は詩を書き、神父は聖書を読む。年老いた天文学者が古びた望遠鏡を窓から突き出し、星の動きを観測する。数学者は幾何学の研究に夢中であり、灯りを点けると再び定規に沿って筆を走らせた。ランプの灯りは金色に満たされた安寧の王国をつくりあげ、その灯りの下で人は安息を感じ、充実することができた。夜が来るたびに家の数だけ王国はつくられ、眠りによって夢想と化していく。王国を有する人は夜を怖れることはない。

 飛行士は後方へと流れていく町の灯りを山脈に遮られるまで見ていた。すっかり見えなくなると、何にも価値などなかったというふうに町のことを忘れてしまった。操縦桿を革手袋ごしに握り、感触を確かめる。高度計は七〇〇〇フィートを指している。陽が沈んで暗くなってきた。夜間用ライトのスイッチを入れると、赤いランプが点灯して、計器類に弱い光を投げる。頭上は群青に染まり、星々が瞬き始めているが、未だ残光が西の空を桃色に輝かせている。だがやがてはその残光も消え去るだろう。夜はすでに飛行士の左頬を撫でていた。

 眼下の山脈の末端には高度三〇〇〇メートルの山陵が待ち構えている。この飛行機なら楽に越えていけるだろうと飛行士は考えた。かつて四〇〇〇メートル級の山岳地帯での夜間飛行を経験したことがあった。雪に見舞われ、視界は無きに等しかった。救いとなるべく存在もなく、時に自分はすでに死んでいるのでないかという錯覚に襲われた。いつ目の前に断崖が現れて束の間も無く飛行機を押し潰すか知れない恐怖に抗い、ひたすらに光を求めて飛び続けたあの四時間を耐え、雲を抜けて月光の下に出た時、遠方に飛行場の滑走路に並べられた灯火が目に入ったのだった。

 三〇〇〇メートルの山陵を越えれば、その先には平野が広がっている。なだらかな田園風景が地平まで続き、ぽつぽつと点在する農家の灯りが目的地まで導いてくれるだろう。飛行士は操縦桿を倒し、機体の高度を上げていった。七五〇〇、八〇〇〇、八五〇〇、九〇〇〇、星の明かりが近づいてくる。九五〇〇フィートまで高度を上げると、夜が完全に辺りに満ちていた。

 飛行士はレシーバーを取り、到着地の飛行場に無線を繋いで現地の天候を訊いた。返事は「快晴、微風あり」という簡素で明瞭なものだった。宇宙に撒かれた銀砂のような星々が飛行士の左胸にある円形バッジを煌めかせた。青色の表面にはオリオン座を形作る主な十八個の星が刻まれている。妻から贈られたもので、以来十年間の飛行を共にしてきた。無線を置くと、高度計は一〇〇〇〇フィートに達し、三〇〇〇メートルを足下に従えた。

 夜のしじまをプロペラの回転音が切り裂いて飛んで行く。三〇〇馬力の空冷水平対向6気筒エンジンは安定した回転数を維持しており、重量九六〇キロの鉄の塊に命を吹き込んでいる。飛行士は夜を眺めながら、背もたれに頭を預け、レバーやスイッチ類に一つ一つ触れていった。どれも正常に動作しており、計器類は狂いない数字を刻んでいる。機体の鋼鉄製の梁に手を置くとかすかな振動を感じた。飛行機は時速二五〇キロで夜の中を飛んでいく。あと一時間もすれば飛行場に着く予定だった。

 愛を語り合う家庭は一〇〇〇キロの彼方にあり、途中で多くの都市や町を通過した。森と川を跋渉し、いくつかの境界も越えてきた。遠くまで来たと感じながらも、空にあって、暖炉の火、柔らかなベッド、温かな妻の肌を思い出すことはなかった。安らぎを欲しがるのは地上に立った時だけだ。飛行機に乗っている間、自分は別に人間になっているのだと思った。貨物を目的地に届けることだけに忠実な人間。他のあらゆる愉悦を捨てた人間こそ自分だ。

 三〇〇〇メートルの山巓を越えた。すると視界が閉ざされ、機体の横に凄まじい勢いで何かが衝突したように揺れた。飛行士は操縦桿を両手で握り、傾いた態勢を戻そうと動かしたが、今度は上から押さえつけられるような力が加わり、機首が下を向かされ、揺れながら降下していった。無理矢理機首を上げ、姿勢を直すと、高度計はわずかな間に一〇〇〇フィートも落ちていた。

 嵐だった。山のこちら側と向こう側とで天候が異なっていたのだと気づいた時には、飛行機は乱気流に飲み込まれていた。

 山巓を越える前には嵐の予兆など認められなかった。飛行士は、この嵐が急速に発達したものであることを見抜き、この雲は平地から山を越えて山地へ流れ込もうとしている乱層雲だと確信した。

 下方角を修正し、高度を下げると、再び上から殴られるように風が吹きつけ、雹混じりの雨が機体を猛烈に叩いた。この雲の下は暴風雨に見舞われているに違いなかった。

 飛行士は上昇して雲の上に出ることに決めた。高度三五〇〇メートルに昇れば嵐を抜けられると予想した。

 操縦桿に力を入れ、機首を上げようとするが吹き荒ぶ強風と雨が機体を大地に引き摺り下そうと降り注いでくる。計器盤を照らす赤いライトが悪魔の舌のように揺れた。操縦桿を握る両手の力を筋一本でも緩めればコントロールを失いそうで、渾身の力を込めながら、眼はこの嵐の規模と出口を見極めようとしていた。

 正面で稲妻が光った。すぐに左へ操縦桿を傾けた。機体が左に傾き、金属が大きく軋む音が聞こえた。主翼が折れたのかと顔を動かしても、外は暗雲に包まれ、翼端灯の明かりすら見えない。狭い牢に閉じ込められたような閉塞感が背筋を寒くした。

 しかし飛行士は無線を取ろうとはしなかった。孤独な空で、たった一つ誰かと心情を共有できる無線には一瞥もくれなかった。この嵐を自分のみで戦い、征服しようという闘争心だけが飛行士の体の奥で激しく燃えていた。雪と暗闇に閉ざされた四時間と同じように、飛行士は力と意志の結晶と化して嵐から抜け出ようとしていた。

 前方から左の空へ飛行機のすぐ横を、植物の根のように枝分かれした稲妻が走り、閃光が盛り上がった肩と首の筋肉に浴びせられた。風と雨はあらゆる方向から飛行機を揺さぶり、暗幕の内で興じられる悲劇に、炎と爆発で飾られた死を強制する。

 乱気流と暴風雨の只中で飛行機は高度を上げていった。プロペラが唸り、エンジンは高負荷のために火を噴いた。プロペラの軸から噴き出た炎はカウルを這って細く伸び、わずかに周囲の暗闇を照らしたが、それはただ闇の深さを教えたに過ぎなかった。一点の差すような光を求めて飛行機は上昇した。計器盤の赤いランプは消していた。暗闇に眼を慣らすためだ。蛍光塗料によって青白く浮かび上がる数字は、高度三五〇〇メートルを示しているが、まだ嵐を抜けてはいなかった。

 雲の厚さが予想以上であったことに舌打ちを漏らした。だが、この雲はもうすぐ抜けると飛行士は信じていた。平地から山腹を這うように登ってきた雲は、上昇気流に乗って発達し、強い雨を降らせるが、平地側では中層圏まで発達することは少ない。すでに嵐の中を十分以上は飛び続けている。三〇〇〇メートルの圏内で雲の上に出られるという固い信念で、飛行士は操縦桿を握り、高度を上げ続けた。

 三六〇〇メートルに達した時、稲妻が三度閃光を発し、槍の穂先が眼前の闇を貫いた。轟々たる気流の渦は矮小な飛行機を破壊させようとする敵意に満ち満ちている。飛行士はあらん限りの胆力を込めて、稲妻に、暴風に、暗雲に突き進んだ。閃光に灼かれた眼を閉じることもしなかった。

 機体は今にも粉々に砕けそうに振動していたが、突如として収まった。嵐の音は静寂へと変わり、飛行士の眼には深遠なる宇宙と、無限の星々の輝きが映っていた。下に広がる雲海は、星の光を反射して精緻な彫刻のような白碧と影を形成し、下からも飛行機を照らしていた。操縦桿を起こして機首を水平に戻し、雲の上を滑るように飛んでいった。

 コンパスで方角を確かめると、行くべき方は雲が途切れ、都市の明かりが見えた。飛行場の赤い灯火も見え、優しく導いてくれている。

 地上に降りたら一番真っ先に、左胸のメダルにキスをしよう。飛行士はそう決めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

飛行士の夜 Don Foximing @Jerusalembell

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る