★第2話★ 鳥籠の中から。


 アシュリーに言わせれば記念すべき三十連敗から一ヶ月後。あれから新しい見合い話は本邸から届けられず、それなりに心穏やかな日常を送っている。


 今日も今日とて朝からせっせと自室に籠って、昔は趣味、現在は本邸からの食材と引き換え条件となっている命綱の調薬を続けていると、昼少し前に部屋のドアがノックされた。大方別邸での一日分の仕事を済ませた有能なアシュリーが暇を潰しに来たのだろう。


 そう思って「入って良いよ」と声をかければ、案の定どこに遊びに行くのかという大荷物を持った彼女が現れた。


「どうしたんだその荷物は。また急にピクニックに行きたいのか?」


 以前も似たようなことがあったので先回りして尋ねると、彼女は珍しく物憂げな表情を浮かべてゆっくりと首を横に振った。その様子に何となく言い様のない不安を感じて「ひとまずその辺に荷物を置きなさい」と言えば、これにも彼女は首を横に振る。


 その様子にいよいよ不安が大きくなったところで、彼女は意を決したように形の良いアーモンドの花弁を思わせる唇を開いた。


「ヴィクター様。アシュリーは本日お暇を頂きに参りました」


 長い睫毛を伏せて小さく、けれどはっきりとした口調で放たれた決別の言葉に今度は別の不安が過り、椅子を立って彼女の前に回り込み、怖がらせないよう片膝をついた。最悪の予感に緊張で震える呼吸を整え、彼女を見上げて口を開く。


「もしかして……弟に無体なことを働かれたのか?」


「いいえ」


「なら……食材と薬を取り換えに行って継母に折檻を受けたのか?」


「いいえ」


「では……父に見つかって無体なことを働かれたのか?」


「いいえ」


 こちらからの問いかけに対し、アシュリーから降ってくる否定の言葉に肩から力が抜けて両膝をついた。喉の奥からせりあがってきたのは安堵の溜息だ。


「そうか……それなら良い」


「それなら良い、とは? ヴィクター様は私がここを去る理由についてはお聞きになられないのですか?」


「言葉通りだよ、アシュリー。君が酷い目に合ったのでなければ良いんだ。それにこんな未来のない場所ではなく、君にとっての良い未来が見つかったのなら僕からの許可なんて必要ないよ。気にせず行きなさい」


「ヴィクター様……ありがとうございます」


「うん? それはこっちの台詞だよ。今日までずっと本邸からの配給頼りで、君にはろくに給金だって支払えなかったのに……不甲斐ない僕の世話を焼いてくれてありがとう。アシュリーのおかげで楽しかった」


 半分は強がりで、もう半分は本気だった。流行り病で虐げられた過去のある彼女にとって外の世界が安全な場所になったのなら、彼女をこれ以上ここに引き留めることなんてできない。ほんの少し寂しいけれど、潮時だ。


「持っていく荷物はこれで全部なのか? まだ自室に荷物が残っているなら運ぶのを手伝おう。あとは……隠しておいた母上の遺品の宝石も持っていってくれ。僕には使い道もないけど、換金したら少しは君の旅費の足しになる。今の時間は父達も本邸にいないだろうから馬車を借りよう」


 彼女の新しい門出に自分のことのように胸が弾む。ここから逃げられない僕に代わって彼女がこの世界のどこかに居場所を見つけられたことで、十年の時間が僅かでも肯定された気がした。


 逸る気持ちそのままにベッドの裏側に隠してある薄く加工した箱を取り出し、安い板材で作った箱の四隅に打ってあった釘を抜いて、中から母が生前使っていた首飾りや耳飾りなど、数点の宝飾を全て呆然と立ち尽くす彼女の両手に握らせる。


 けれど彼女は持たせた宝石ごと僕の手を握って背伸びをし、鼻が触れそうな至近距離で呆れたようにこちらを覗き込むや、まるで自身の方が年長者であるかの如く悩ましげな溜息をついた。相変わらず無意味に艶っぽいメイドだ。


「ヴィクター坊っちゃんは……私が嘘をついていて、この環境に飽きたから命の恩人を騙して僅かな財産を巻き上げるような性悪女だったら、どうするおつもりなのですか?」


 また僕のことを坊っちゃんと呼び、どこか拗ねた様子で今更過ぎる発言をするアシュリーに、今度はこちらが溜息をつく番だった。


「あのな、アシュリー。もしもそうなら君ほど優秀なメイドは、病が快癒した時点でこの屋敷から金目のものを一切合切持って逃げているはずだ。なのに君はそうしなかった。それどころかこんな僕を支えてくれた心根の優しい人だよ。そんな君に比べて僕は見た目も心根も醜い化け物だ」


 母の先が長くないということは、物心ついた頃から分かっていた。元より身体は弱いものの美しい母に似ていない僕を、遊び人の美丈夫として有名だった父が愛さないことも分かっていた。


 見目の良い愛人との間にできた弟の方が可愛く、身持ちはやや悪いが身体の強い愛人と母ではその寵愛に天と地ほどの差があったことも分かっていた。全部全部分かっていて、何もかもをすっかり諦めていたのに。


「本当のことを言うとね……君を森で拾った日に、僕は自分より可哀想な人間を初めて見つけて嬉しかったんだよ。あそこで倒れていたのが仲の良い親子だったりしたら、僕は助けていなかったかもしれない。君が可哀想な存在で良かった」


 十年間腹の底で溜め込んでいた毒をようやく吐けた。これで彼女は僕に恩義を感じることも、出ていくことへの後ろめたさもなくなる。歪んだ告白に握られた手も離されるだろう。そう思っていたのに――。


「だったら、私はあのとき世界中の不幸を一身に背負っていて良かったということですわね」


 何を思ったのか、彼女は大量に砂糖を煮詰めた鍋の中に蜂蜜を一壷分ぶちこんだように甘く微笑んでそう言うや、さらに背伸びをして距離をつめてくると、ごわついた僕の前髪を指先で取り払い、ジッとこちらの瞳を見つめて言った。


「次にお会いする時までには、ヴィクター坊っちゃんがお望みの品と恥じらいを身に付けておきますわ。ですからこれは報酬の先払い……いえ、退職金ということにしておいて下さいませ」

 

 一瞬唇を掠めた柔らかいものが何だったのか理解が追い付かない。けれどその時、外から馬の嘶きと馬車の車輪の音が聞こえてきた。瞬間父が来たのかと弾かれたように窓の外を見れば、そこには見覚えのない紋章をつけた大型の馬車が二台止まっていて。


 中からメイドらしき姿の人間が三人と、従僕らしき人間が二人降りてきた。するとアシュリーは突然の来訪者に驚きで目を白黒させる僕の隣に立ち、二の腕に胸を押し付けながら「馬車は自前で手配しておきました」と笑う。


 そうして、僕が助けたあのとき世界中の不幸を一身に背負っていたアシュリーという少女は、古びたこの鳥籠から悠々と飛び立っていった。

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