第32話  崔は蘇る!

 僕は頬を殴られた。歯を食いしばるのが遅れた。口の中を切った。血の味がする。だが、僕は倒れなかった。倒れたくなかった。僕は何に対して突っ張っていたのだろうか? わからないけれど。


「反撃しても、ええんやで」

「反撃したら、その分、楓に迷惑がかかるでしょう?」

「まあ、そうやねんけどな。反撃してくれへんとおもろないわ」

「喋ってないで、早よ、終わらせてくださいよ」

「交代や」

「はい」


 体格の良い方が僕をサンドバッグ状態にした。僕はその日、殴られても蹴られても倒れなかった。ささやかな抵抗だった。こいつらの前で、無様に倒れたくはない。何故か、その日の僕は、よくわからない意地を張り続けた。僕は2人が憎かった。楓の客も憎かった。店のスタッフも憎かった。楓を苦しめる全てが憎かった。憎い奴ばかりだった。憎しみに任せて2人組を殴りたくて、その衝動を抑えるのに必死だった。


「もう、ええで」


 目つきの鋭い男の言葉で、大男が僕を殴るのを辞めた。僕の鼻血が止まらない。


「兄ちゃん」

「何ですか?」

「俺達の仲閒になるか?」

「え?」

「こう見えても、俺は兄ちゃんのことを気に入ってるんや。学生を辞めて、俺等の仲閒になるなら、俺が上に話をするけど、うちに来えへんか?」

「遠慮しときます」

「そうか、まあ、気が変わったら連絡くれや」


 目つきの鋭い男が、僕の服の胸ポケットに名刺をねじ込んだ。


「今日は、もう帰るわ。楓ちゃんとは別れなアカンで」


 男達は去って行った。僕はまた、楓の家のベッドで寝込んだ。タクシーで自宅まで帰ることも考えたが、傷が治るまで楓に会わないということも出来ないだろうし、隠してもどうせバレると思ったのだ。同じことを繰り返す自分のことをアホだと思った。自己嫌悪で、心も痛かった。



「ただいま」

「お帰り!」


 僕はベッドから声を出す。


「やっぱりボロボロやな」

「やっぱりって、どういうこと? 知ってたん?」

「あいつらから、店に電話がかかってきたから」

「そうなんや」

「ごめんな、また私のせいで」

「楓のせいやないやんか、これくらい大丈夫やし。僕、結構、打たれ強いねん」

「崔君は、私を責めないんやね」

「責める理由が無いやんか」

「手当てするわ。オキシドール、しみるかもしれへんけど」

「優しく看病してや」



 僕の傷が治りかけた頃、その日、僕も楓も休みだった。


「今日は何する? たまには外へ出かける?」

「今日は部屋から一歩も出えへんで」

「ほな、何するん?」

「朝から晩まで、ずっと崔君と抱き合うねん」

「それでええの?」

「それがええの」


 僕達は、抱き合い続けた。僕が、途中の休憩で服を着ようとしたら、


「今日は、服着たらアカンで」


 と言われた。楓の求め方が激しくて、その日の楓がいつもと違うことが伝わってきた。



「崔君」


 僕の腕枕で寝ている楓が囁きかけてきた。


「ん? 何?」

「別れよう」

「なんで別れなアカンの?」

「このままやと、崔君がボロボロになってしまうから」

「僕は元気やで。楓がいてくれたら、僕はそれで充分元気になれる」

「冗談とちゃうで」

「わかってる。でも、僕は楓と別れたくない。楓は僕と別れたいの?」

「そんなわけないやんか」

「僕のこと、好き?」

「大好きやからこそ、ダメになっていく崔君を見たくないねん」

「キツイ言葉やなぁ、僕、そんなにダメになってる?」

「崔君が、私の仕事でめっちゃヤキモチ焼いてるの、知ってるで」

「この前も言うたやんか、ヤキモチを焼いても楓のそばにいたいって」

「でも、もう限界やろ? 崔君の心がすり切れていくのがわかるもん。今の崔君、心も身体もボロボロや!」

「もう、僕の限界なんかな?」

「うん、今の崔君の限界。自分では限界がわからんのやと思うけど、もうドクターストップやで」

「ドクターストップか、僕はまだまだやれると思ってるけど」

「自分の身体を見てへんの? 今、言うたやんか、身体もボロボロやろ?」

「前もスグに治ったやんか。僕は打たれ強いから大丈夫やで」

「アカン、もうアカン、私、別れるって決めてしもたから」

「お互いに好きやのに、別れなアカンのかなぁ」

「好きやから別れるってこともあるやろ、私も崔君といたら甘えてしまうからアカンねん」

「楓は、甘えてないで」

「甘えてるねん。仕事を休みがちになったり、仕事に行ってもお客さんに抱かれるのが嫌になってくるねん。家で崔君が待ってくれてるから、早よ帰りたいって思ってしまうねん」

「それの何がアカンの?」

「私、このままやったら、今の仕事が出来なくなると思う。だって、崔君だけのものになりたいもん」

「ほな、もうお別れなん?」

「うん、お別れやわ」

「決定?」

「うん、決定」

「もう、ダメなん? ほんまにアカンの? もう覆らへんの?」

「うん。もう決めてしまったから。崔君、今までほんまにありがとう」

「こっちこそ、いくらお礼を言うても足りへんくらいやわ。今まで、ほんまにありがとう」

「私と別れたら、どうする?」

「泣きながら引きこもると思う」

「アカンで。元気出さな。そうや、ええこと教えたるわ」

「何?」

「女を忘れたい時は、新しく彼女を作るのが一番やで」

「そんな急に、他の女の子を好きになられへんよ」

「まあ、そう言わんと、付き合ってから好きになることもあるんやから」

「せやけど、僕が好きなのは楓やし……」

「そう言わずに、沢山の女の子と付き合いなさい」

「僕は、女性を上手く口説かれへんよ。器用に口説けるようやったら、お店に行ってへんわ」

「大丈夫、今の崔君なら口説ける。だって、私が育てたんやから。もっと、自信を持たなアカンで。そして、私と別れたら、スグに彼女を作りなさい」

「わかった。頑張ってみる。実際、別れてからどうなるかわからへんけど」

「Hにも自信を持ってええで。今の崔君のHは百点満点やから」

「おおきに。楓に教え込まれたから、自信を持つわ」

「そうそう、プロが育てたんやから」

「楓、泣いてるやんか」

「泣いてへんよ。崔君こそ、泣いてるやんか」

「泣いてへんよ。そやな、2人とも泣いてない」

「そう、泣いてない」

「なあ、楓」

「うん、何?」

「僕達、また付き合ったり出来へんかなぁ?」

「そやなぁ、ほな、街で偶然再会出来たら、また付き合おうか?」

「絶対やで」

「うん」

「約束やで」

「うん、約束する」

「きっとまた会えるで」

「でも、うちの近所とかをうろついて探すのは反則やで。あくまでも、偶然出会ったらってことやからね」

「わかった。僕、明日の朝、出て行くわ」

「うん、沢山の女の子を幸せにしてあげてや」

「女の子を幸せにする力なんて、僕には無いで」

「そんなことない、崔君なら出来る。女の子を笑顔にさせられる。間違っても、女の子を泣かせたらアカンで」

「わかった。泣かさへん」

「ほな、今日は、裸で抱き締め合って朝まで寝よか?」

「うん。朝まで」

「そう、朝まで」


 朝、僕は服を着て楓の家を出た。ドアポケットに、預かっていた合い鍵を入れた。



 しばらく経って、僕はまず、しばらく休みがちだったケーキ屋のアルバイトを再開した。

 

 職場(店内)は女性ばかり。僕は、楓に言われた通り女の子を口説こうと思った。



 楓と過ごした日々が、僕を変えてくれたはずだ。僕はもう、弱キャラじゃない!







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