三、焼けるような慟哭
「ぁっ……」
影を見つけて近く駆け寄って、ルークはつと立ち止まる。
また怒られたらどうしよう。今度も拒絶されたら。本当に、自分のことをどうでもいいと思っていたら。もう、興味なんてなかったら。
考えて、伸ばしたままの手が自然と下がった。
ここでは見なかったフリをして、家に帰ったらまた挨拶をすればいい。
黒く鎖された天。今ではもう暗い紫に喰われてしまって明るさが駆逐されて、闇が増すばかりの天。
比例するかのように、あるいは一心として同体であるかのように、刻一刻とルークの心を恐怖が満たしていく。
やがて顔は下がって、完全に地面しか見えなくなった頃。一つ、目の前に影が差した。
「……ぇ」
見上げると母の姿。
困ったような笑顔を浮かべて、細くしなやかな指一つで頬を掻きながらそこに立っていた。
ルークの中に困惑が満ちる。……どうして?
それは、なぜ気がついたのか。なぜ振り向いてくれたのか。なぜ目の前に来てくれたのか。なぜなぜなぜ。と、様々な疑問で満ちたものだ。
それが表情に出ていたのか、迷ったように、罪悪感を感じたようにセラが言う。
断絶を、隔意を、溝を。自らの手で、ゆっくりと取り除くように。あるいはそれを、丁寧に埋めるように。
「ルーク。その、昨日はごめんね。お母さん、怖かったよね。……ごめんね。でも、もう大丈夫だからね。心配しないで、いつもみたいに仲良くしてね」
癒すような口調。窺い、寄り添うような様子。
その姿を見て、ルークは安心した。ちゃんと、自分のことを見てくれていると。どうでもいい存在ではなかったと。
セラの瞳が、くしゃりと表情の崩れた少年を映す。
今まで感じていた恐怖は、まっさらと洗い流されるように。鎖されていた暗黒は、光と祝福で溶け出されるように。
その全てが癒され、ルークは万感の思いでセラに飛びついた。
もう大丈夫なのだと、安心を胸に抱いて。
「おか、ぁさんっ!」
少し遠くから、小さな男の子と、全体的に窶れたシルエットの金髪の女が向かい合う所をみていて。シノは、モヤモヤと言葉にできない嫌な気持ちを感じていた。
友達であるルークの力になりたいと願った。頼られて、支えてあげたいと彼女は思っていた。
それが全て、たかだか女一人。それも、自分ではなく他人が担っている。
それがどうしようもなく、彼女には嫌だった。
自分はまだ、彼の気持ちすら、迷いの原因すら分かってはいないのに、と。
やがて二人は抱きしめ合って、女がルークの額にキスをして。それから手を繋いで、ゆっくりと歩き始めた。
ルークの表情は、それまでの暗かったものとは全く反対に幸せそうで、それは良かったとシノは思う。
だけれどやっぱり、それをするのは自分が良かったとも同時に思った。
「……どうして」
どうして私じゃないの。どうしてその女なの。大人だから。頼り甲斐がないから。綺麗な人だから。子供っぽいから。
思考が廻る。回って。シノだけは、ポツリとその場に、一人だけ取り残された。先にルークだけが、どこか遠くへ行ってしまいそうで。それが彼女には、怖かった。
共通の経験。大切な誰かを、尊敬してやまなかった誰かを喪ういう経験。それが二人を繋いだ。
けれど今、ルークの様子を見れば。彼は幸せそうで、もう前を向いていて。シノだけが、暗く鎖されてそのまま、囚われているように感じられる。
「……おいていかないで」
弱々しい声音だけが、黒に染まる世界の空気に溶けて消えていく。
◇
『ウィストーネの花』
一月から三月。四月から六月。……と、基本的に年中咲いている一年草だ。
一輪で咲き誇るように、花弁は凛々しく。その発色も、薄青と薄桃の混じった銀色で美しい。
花の繁殖も、種からの実生、挿し木などによる栄養繁殖どちらでも可能で育てやすい。価格もお手頃で、年中飾っている邸宅も珍しくはない。
そんなウィストーネの花はユリ科に分類され、一本の茎が伸びて花を咲かせる。しかしそれだけに留まらず、親花は茎から分岐した小花を守るように蔦を伸ばす。緩く巻きついて、落ちないように支える。
その光景が、正しく親から子への愛情のようで、花言葉は『あなたを愛する / 真実の愛 / 親愛』などが当てられている。
◇
薄青の銀色の花が一輪、テーブルに咲いた。
時刻は黎闇に差し掛かった頃。もうほとんど街灯の光しか見えなくて、外を歩くのは大人でも少し怖い、という時間帯。
家内の暖炉に火が
テーブルの上に並べられたのは、ほかほかと湯気を上げるクリームシチューだ。ルカとルークの、好物の。
早速気を持ち直して、今は元気に笑っているルークが喜びの声を上げる。
「わあ! クリームシチュー!」
もう食べてもいいっ!? と逸るような喜び方。
その気持ちを表すように、待ちきれないといった様子で利き手はスプーンを握り、左手では丸いパンを鷲掴みにしている。食べる準備はいつでも完了。
そんなルークの右横の席では、同じように腹の虫を鳴らしたルカが、腕をワキワキと震わせている。
モコッと膨れた厚手の手袋を外し、後ろで一つに縛った髪を解きながらセラフィーナが席に着く。
「それじゃあ、ご飯食べよっか」
笑みを浮かべながらそう言うと、二人は笑顔で頷いた。
「うん!」「いただきます!」
そのまま、ガツガツと貪るように食べ始める。
ところで、シチューは出来たばかりだ。ゴロゴロと豊富で色とりどりな野菜が煮込まれて、そこにお肉や豆などが加えられているものだが。当然、熱い。
それが、五人前くらいの大きさの
だからスプーンいっぱいに掬って頬張った二人は、天を仰いで大口を開けた。はふはふ、と息を漏らしいている。
その様子を見て、セラフィーナは頬を緩める。
そのまま眺めて、やはりこの子達は可愛いと。世界一可愛くて、どんな子にも負けはしないと。心の底からそう思った。
だからこそ同時に、彼女は考える。父親が居ないのは辛いはずだと。死んでしまったならまだしも、生きているのであれば、そして生存が確認されたのであれば、絶対に父親はいた方が良いのだと。
ゆえに彼女は、子ども二人の食事がひと段落したところで、空気が重くなりすぎないように注意しながら切り出した。昨日の二の舞は、避けようと決意して。
「あのね、ルカ、ルーク。二人によく聞いてほしいことがあるの」
真剣な様子を察して、ある程度腹の膨れた二人は皿の上にスプーンを置いた。
姿勢を正してちゃんと聞いてくれていると確認し、セラは言葉を続ける。
「実はね、……お父さんがね、生きていたの」
言い含めるように。丁寧に丁寧に、
ゆっくりと言葉を紡いで、静かに聞いている二人を視界におさめる。その様子は、よく分かっていないもの。ルカもルークも、それがどうしたの、とでもいうような疑問で小首をコテンと傾げている。
子ども達が全く理解していないというのは、セラフィーナにも直に伝わった。
内容が難しかったのかと、理解を促す目的で確認の問い。
「えっとね。二人とも、お父さんのことは知ってるよね。兵団で団長をやっているすごい人で、この間、一緒に旅行へ行った男の人だよ。ほら、串焼きをいっぱい食べたでしょう?」
二人は少し考えて、思い至ったのかパッと表情が輝いた。
それを見て、セラは安心する。まだ、完全に忘れているわけではなかった。幼い二人は、記憶の消化も早いから。
良かった、と表情を緩めながら彼女は話を続ける。
「その人がね、生きていたの。もう遠いところへ行ってしまって、二度と帰っては来ないと思っていたのに。お父さんはちゃんと、帰ってこられるんだよ」
セラフィーナの声に、少しだけ涙が混じった。万感の思いが、一度は消化したはずの事実が、言葉を介して再度溢れるように。
しかし。その思いに反して、子ども二人の様子はまったくの無関心だった。もうどうでもいいよ、とでも言うかのような。
だから二人は、母親がなぜ涙ぐんでいるのか、まったく理解出来ずにいた。
感情の
だからルークは、不思議そうに。疑問を疑問のまま。その解消を求めて純粋に。本当にそれだけの意味で問うた。
「それがどうしたの? ぼくはお父さんより、お母さんのほうがいいよ。お父さん、帰ってこないもん」
純粋な瞳で、ルークの見上げた先。軋み上げるような、凍りついた母の瞳とぶつかった。
ルークの口から短く呼気。
「ぁ……」
その、隔意。
一度は癒えたはずの深淵を、再び見たかのような顔で。ルークは焦って取り繕おうとして、けれどそれは、言った時点で既に致命的だった。
凍ったセラの瞳が、激情に燃え上がる。
「ルークッ! どうしてそんな酷いことを平気で言えるのッ!? なんで!? お父さん嫌いなの!? あんなに仲良くしてたのにッ! 裏切り者! お前が! お前が言ったせいで! 分かってるのか!? お前のせいでッ!!! お前のせいでお父さんは! 今も! 危険な目に遭っているんだぞ!? 分かれよ! なんで分からない!? このッ! この頭がッ! お前がッ!!!」
唾を吐き散らして責め立てて、ついにはルークの髪を掴んでテーブルに叩き付けた。そのまま、何度も打ち付ける。己の感情の
どうして理解しない。なぜ分からない。分かれよ。分かるだろ。と、
焦げ付くような怒りで、焼けるような焦燥。ヒリヒリと肌を刺すような、燃えるような悪感情。
お前なんて、このまま死ねばいいと。お前が代わりに、死ねばいいのにと。
繰り返して、叩き潰そうとして。
ふと、それが目に映った。赤い血と、シチューの白が混じった色。額と頬と。顔全体が汚れた、ルークの顔。
セラフィーナはハッとした。少し冷静になった頭で周りを見れば、テーブルの真ん中、置かれた花瓶が倒れて割れていた。花は汚れて、折れている。
その先で。許容を超えた恐怖に凍っている娘の姿。娘が自分を見る視線は、それはもう、母親に向けるようなものではなく。
──謝らなきゃ。はやく、謝らないと。
このままでは、二人の心には大きなトラウマが残ってしまう。恐怖だけが、もう二度と回復のできない溝ばかりが。
セラフィーナの焦る気持ちで、しかし。
視線の先で、ルークは笑った。それがたとえ、少し歪んでいる笑みであっても。確かに今、目の前の子どもは笑っている。
それが彼女には、理解できなかった。
泣くなら、分かる。恐怖で表情を凍らせながら、ごめんなさいと謝るなら分かる。
でも。どうして。なんでここで、笑うのか。
そんなのは。そんなのはまるで──悪魔だ。
だから、セラフィーナの口から出たのは。それは、せめて少しだけでも、傷を癒すための慰めや謝罪ではなく。
「……お前なんて産まなきゃよかった」
無理解と不気味に反発するための、対立だった。大きな存在を、愛した存在を喪ってからは、彼女はもう、限界だった。
「……お前なんて産まなきゃよかった」
どうして。どうしてそんなひどいことを言うの。
力のままに打ち付けられて痛む顔で、ルークは母親を見返した。
髪の毛からは手が離されていて。けれどそれは、もう殴らないとか、攻撃しないとか、そんな為ではなくて。むしろ、もう触りたくないとでも言うような。気味の悪いものを避けるような態度で。
彼はそれが、嫌だった。
頭を撫でてもらうのが好きだった。その手で頭を掴まれた。
愛おしげに見つめられるのが好きだった。その瞳で、憎悪を向けられた。
ルークは偉いねと褒められるのが好きだった。その口で、産まなければ良かったと言われた。
暖かい部屋の中。安心出来る空気。家族で揃って食事を摂る机。楽しげな雰囲気。綺麗な花。母親が気に入っていた花瓶。優しい母親。
その全てが、一度に消えた。今はもう、暖炉の火も消えて明かりもない。
それでもルークは、前を見ていた。母親だけを、母親のいた席だけを見ていた。たった一人で。額から血を流しながら、それでも。
彼が求めて、けれど今は届かない母親の願いを、意味は分からずとも理解した。
母親は、父親を求めている。父親がいないと、母親は優しくならない。自分の事を見てはくれない。
でも。
──お父さんがいれば、またみんなで。
だから。ルークは。
「……僕が、お父さんを取り戻す」
本当の意味で強くなろうと、覚悟が決まった。
ー完ー
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